「配偶者のために、家で美味しいコーヒーを淹れる余裕がなくなったら、俺はもうオシマイ」

いくつかのカフェでバリスタとして働き、2011年に自分のビジネスを立ち上げたとき、そのことだけは自分の中で譲ることのできないことだった。


学生の頃にバイトしていたレンタルビデオショップ(近い将来、そんなビジネスがあったことさえ知らない世代が出てくるんだろうな。。。)に、パートで働く奥さんがいた。

その奥さんの旦那さんは、日本料理店の板前さんだと言うので、

「じゃあ、家で美味しいもの食べられるんですね〜」

という俺に

「うちのダンナは、家では一切料理しないから」

と、事もなさげな答えが帰ってきた。

まだ10代だった俺は、「へぇ〜、さすが職人さんだ。 なんか格好いいな」と思ったように覚えている。

で、それからも色々と社会経験を積んできた中で、同じようなことを言う奥さんが、少なくとも2,3人はいたと思う。

それから更に時が経ち、俺は20代後半でカナダに渡ってきた。

俺がバリスタとして、初めてカフェで働き出したのは30歳を過ぎてから。
周りは10代とか20代前半の同僚ばかりで、気恥ずかしさがなかったといえば嘘になるけれど、それよりもカフェでコーヒーに携わることが、毎日とても楽しかった。

そもそも、俺のバリスタとしての喜びは、子供の頃、コーヒーが好きだった母に、インスタントコーヒーを作って

「あ〜、美味しい」

と言ってもらえたことが、とても嬉しかったことに始まるような気がする。

なので、俺は職業としてのバリスタ、お客さんに美味しいコーヒーを提供すること、に誇りを持っていたけれど、
『家で、一番身近な存在に、自分が淹れたコーヒーを喜んでもらえてこそ』
という大前提を持って、自分のビジネス(焙煎業からカフェ経営、イベント出店)をやっていた。

そして、幾ら忙しくて時間に余裕が持てなくとも、その大前提を果たすことができなくなったとしたら

「俺はもうオシマイ」

と、本気で思っていた。

だから、学生の頃のバイト先での奥さんや、その他の人が言った

「うちのダンナは、家では一切料理しないから(とか、プロとしてやっていることなら何でも言い換えられる)」

というスタイルや生き方は、今の俺なら全く「格好いいなぁ」とも思わなければ、賛同することもない。

いちばん身近にいる、いちばん大切な人に喜んでもらって(もちろん、自分も含めて)、その次に、他の誰かに喜んでもらえればいい。


今は、愛情をいっぱい捧げたコーヒービジネスを手放してしまったけれど、お店で、そして休みの日には家で、配偶者にコーヒー、時にはラテやモカを作って喜んでもらうことを忘れなかったこと。そのことに悔いはないのだ。

そして、わざわざ遠くから辺鄙なロケーションにある店を訪れてくれるお客さんも結構いたほど、そんなコーヒーを提供していた俺は今、

「うちのダンナは、家で ”しか” コーヒー淹れないから」

になっている (笑)

これでいいのだ~。


あ、混同されると困るので書き加えると、
「仕事のときには厳しいしウルサイけど、一旦仕事を離れると穏やかで細かいことは気にしないよ」
というのは、プロとして、人として格好いいと思うよ。