「今年は心機一転、変化の年にしたいと思います!」


これと似通った言葉は、新年によく聞くんじゃないだろうか。

過ぎた年が自分の思ったようにいかず、「よし、今年こそは」と。
毎年のように俺もそう思ってきた。

よく理解していないけれど、こういう姿勢を”意識高い系”というのかな?
であれば、俺はその”意識高い系”を目指して生きてきたと言える。

でもでも、
そんな意気込んで、過去の自分を叱咤して新しい年を迎えようとしなくとも、俺たちはこの世で生身の身体と共に生きている限り、否応なしに変化している。

しばらく前、俺はクッキングの最中に結構深めに指を包丁でカットしてしまった。
格闘していたわけでも葛藤していたわけでもないのに、ついカットしてしまった。。。。

ざっくりやってしまったんだけど、しばらく経つと血は止まっていた。
そして数日経つとそのカットは塞がり、皮膚が再生してきた。
今でもその箇所に触れると違和感はあるんだけれど、よく見つめないと傷跡も分からないほどになった。

このカット、俺が自分の意志や意識で治したわけじゃない。
身体に備わっている”生理本能”が治してくれた。

こんな例を挙げるまでもなく、皆、口にしたものは数日のうちに消化・吸収され、そうでなければ尿や便・汗へと姿を変えてゆく。

俺たちが数秒前に吸い込んだ空気は、もうそこにはない。空気に色がついていて、煙のように見えたらよく分かると思う。

つまり、俺たちが意気込まなくとも、意識しなくとも、生きている限り、身の回りも自分の中も常に変化は起こっている。
いやいや、たとえ死んだとしても、肉体は徐々に腐敗や微生物によってカタチが変わってゆく。
反対に、これらの変化を止めることなんて誰もできやしない。
やれるもんならやってみろや〜!!

••• エヘン……

なので、ただ生きているだけで素晴らしいことであり、尊いことであり、ミラクルであり、そして苦しく辛いことでもある。
この基本中の基本を分かっておきたい。

俺は昨年、ある日突然に母がこの世からいなくなるという経験をした。

波乱万丈のカナダでの生活が続いていたので、ビジネスを売却してからの俺は、とにかく静かに、波風のない平穏な生活を望み、自分でもそうなるよう努めてきた。

自分自身が、どう平穏に生きようとしても、自分の周り、自分がコントロールできない部分が変化を持ち込んでくるのだ。
それも、時として大きな悲しみや苦しみを伴って。

「変化の年になるようガンバります!」

それはそれで結構なことだし、人生においてそう意気込みたくなる時期は誰にでもあるもの。

けれども、これは覚悟しておいたほうがよいと思う。

先に書いたように、
ただ生きているだけで、俺たちは常に変化し続けている。心配しなくても変化は起きている。それを成長と呼ぼうが、老化と呼ぼうが。
同じようにして、自分の周りも変化し続けている。それも瞬間単位で。


自分が ”意識して起こしている変化” の道中で、”意識していない変化” も必ず付け加わってくるものだということを。

いや、「覚悟」とかいうもんじゃないな、これ。

「そういうものだ」と知っておくだけでいいのだと思う。

世の中や人生は、自分でコントロールできる変化よりも、自分ではコントロールしようのない変化のほうが、ずっとず〜っと多いんじゃないかな。

分かっているか、俺!
えっ?