俺が今までに感銘を受た人の一人に中村久子さんという方がいる。

明治生まれで、病が元で3歳時には両手だけでなく両足も切断・失ってしまった。
7歳の時には、溺愛してくれた父を亡くし、大人になってからも夫との死別や離婚があり、それでもしっかりと子供を生み育てた。

親鸞聖人の側近である唯円が記したとされる、『歎異抄』を通して、俺は中村久子さんの存在を知ることになった。2年ほど前のことだろうか。

『歎異抄』は、仏教のことにそれほど関心がない人でも、その存在だけは知られているほどの名著とされている。
けれど、よく目にしたり耳にしたりするのは、「書かれていることが心に突き刺さるには、人を選ぶ書物」とか「本当に自分が必要なときに、初めて書かれている内容が理解できる」というもの。

かく言う俺は、どうしようもなく苦しいときに拝読したのだけど、”心に突き刺さる” とか、”これは正に俺のために書かれた文だ!” とか感じたことは、残念ながらまだない。

けれど、中村久子さんは、見世物小屋で働いて日本中を旅し、心が荒れていた時期にこの書物に出会い、それ以来生き方が変わっただけでなく、生涯を通してこの『歎異抄』に支えられることになったという。

中村久子さんについては、とてもとても、この俺がブログの一エントリーで書き切れるほど簡素な人生を歩んだ人物ではない。
様々な人が彼女のことを語り継ぎ、感銘を受けているので、それらを参考にしてもらいたい。

ここでは、俺が好きな、中村久子さんが謳われた詩を転載するに留めたい。
彼女のことを知れば知るほど、この詩の奥深さに頭をもたげさせられるのだ。

「あれがない」「これがない」「これさえあれば」「前はああ(こう)だったのに」
と、絶え間なく思っている俺への戒めとして、時々思い出したように読んでいる。


ある ある ある

さわやかな秋の朝
「タオル取ってちょうだい」
「おーい」と答える良人がある(旦那さん)
「ハーイ」という娘がおる
歯をみがく
義歯の取り外し かおを洗う
短いけれど指のない
まるいつよい手が 何でもしてくれる
断端に骨のない やわらかい腕もある
何でもしてくれる 短い手もある
ある ある ある
みんなある
さわやかな秋の朝