マーシー山本教授のゆるゆるクラシック日記

マーシー山本教授のゆるゆるクラシック日記

マーシー山本のお仕事の報告やクラシック音楽の豆知識をお届けします。

今週は「作曲者は誰だ」特集でした。

その中で取り上げた中央アジアの草原にてについてお話しします。


この曲は冒頭からヴァイオリンの高音の持続音がずーっと続きます。

それは何を表現しているのでしょう?


それは広大な草原の静寂と広がり、そして自然の静かな美しさを表現しています。

この持続音は、無限に広がる中央アジアの平原の風景や、そこに流れる風の音、または悠久の時の流れを象徴しているとされています。

 

またこの音は、草原を旅するキャラバンの動きや、静かな背景に浮かび上がる遠景を描写するために、全体の音楽に神秘的で幻想的な雰囲気を与えています。

 

今回の動画

https://youtu.be/UNZrPBSaixo

今回はリスナーの質問のあった「管楽器には色々な調性があるのは何故?」にもう少し詳しくお話しします。

管楽器の調性が決まっていった歴史は、音楽理論の発展や楽器製作技術の進化と密接に関連しています。

以下に、その主な経緯を紹介します。

 1. **自然倍音列と初期の管楽器**
初期の管楽器は、基本的に自然倍音列を利用して音を出していました。

例えば、ホルンやトランペットなどの初期の楽器は、バルブやキーがないため、基本的に一つの調性(主にC調やF調)でしか演奏できませんでした。

この時期、楽器の調性は主に楽器の管の長さによって決まり、演奏者が唇の振動や息遣いを調整することで音高を変えていました。

2. **移調楽器の登場**
次第に、演奏の幅を広げるために「移調楽器」という考え方が出てきました。

移調楽器とは、楽器自体が特定の調にチューニングされているため、その調に合わせて演奏する楽譜も移調されて書かれます。

たとえば、トランペットはB♭管やC管、クラリネットはB♭管やA管が一般的です。

移調楽器が登場した背景には、異なる調性の楽曲に対応する必要性がありました。

 3. **バルブやキーシステムの導入**
19世紀になると、楽器製作技術が大きく進化し、特に金管楽器にバルブ(ピストンやロータリー)が導入されました。

この発明により、プレイヤーは一つの楽器で異なる調性の音を簡単に出せるようになり、楽器の調性はより柔軟に対応できるようになりました。

木管楽器でもキーシステムが発展し、クラリネットやフルートなどの楽器がより多くの音域をカバーできるようになりました。

4. **標準的な調性の確立**
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、オーケストラの編成が大規模化し、作曲家たちはさまざまな調性で楽曲を書くようになりました。

この時期、B♭やE♭調などの調性が木管楽器や金管楽器の標準的な調性として定着しました。

これは、楽器の音域や音色が特定の調性で最もよく響くためです。たとえば、B♭クラリネットやB♭トランペットは、B♭調での演奏が最も自然で、音楽の流れに沿いやすいとされました。

5. **現代の楽器**
現代の管楽器は、バルブやキーシステムのおかげで多くの調性に対応できますが、それでもB♭調やE♭調の楽器は多くのアンサンブルやオーケストラで使われ続けています。

これは、楽譜の書き方や演奏技術の伝統に由来するものでもあります。

たとえば、B♭調のクラリネットやトランペットは、特定のレパートリーや楽器の設計に最適化されており、そのために現在も標準的な調性として残っています。

●まとめ
管楽器の調性が決まっていった歴史は、楽器の構造的な進化や作曲技法の変遷と共に進みました。

最初は自然倍音列に依存していた楽器が、移調楽器やバルブ、キーの導入によって多様な調性に対応できるようになり、最終的にB♭調やE♭調といった標準的な調性が確立されました。

 

今回の動画

https://youtu.be/GsSz6angRZ4

今回は「教えてマーシー教授」の質問にあったティンパニについてお話しします。


ティンパニは打楽器の一種で、ドラムの一種であり、胴の上に張られた膜を叩いて音を出す楽器です。

主にオーケストラや吹奏楽などで使用され、低音域で力強い音を提供します。

 

ティンパニは、音程を変えることができる数少ない打楽器の一つであり、演奏者はペダルで膜の張力を調整することで、異なる音程を出すことができます。

●ティンパニの起源と発展
ティンパニの起源は中東やアジアにあり、紀元前3000年頃にはペルシャやアラビアで似たような楽器が使用されていました。

これらの楽器は後に、十字軍や商人を通じてヨーロッパに伝わりました。

ヨーロッパでは中世からルネサンス期にかけて、ティンパニの前身である「ナッケル」(小さな携帯ドラム)が使われていました。

●オーケストラでの使用
ティンパニがオーケストラで使われ始めたのは17世紀後半からです。

最初に使用したのはバロック時代の作曲家たちで、特にヘンデルやバッハの作品にはティンパニが取り入れられています。

当初は王室の儀式や軍楽隊で使用されていたティンパニが、徐々に劇音楽や宗教音楽に組み込まれ、オーケストラの一部として定着していきました。
 

●楽器としての発展
18世紀になると、ティンパニの音程をより容易に変えるための機構が開発されました。

当初は演奏中に音程を調整するのが難しく、調律には時間がかかりましたが、19世紀にペダル式のティンパニが発明され、演奏中でも瞬時に音程を変更できるようになりました。

この発明により、ティンパニはオーケストラにおいてさらに重要な役割を果たすようになります。

●近代ティンパニ
現代のティンパニは、通常、銅製の胴体とプラスチックや動物の皮でできた膜で作られています。

大きさによって異なる音域を持ち、オーケストラでは通常、4つから5つのティンパニが使われます。

ティンパニ奏者は、作曲家の指定に基づいて異なる音程に調律し、豊かな響きを生み出します。

ティンパニは現在、クラシック音楽だけでなく、映画音楽や現代音楽でも広く使用されています。

その独特の力強い音は、楽曲にドラマチックな要素や緊張感を加えるのに適しています。

 

今回の動画

https://youtu.be/BhrzNqyEaRI

今回は先週取り上げた歌劇椿姫の作曲者のヴェルディについてお話しします。


ジュゼッペ・ヴェルディ(1813年 – 1901年)は、19世紀イタリアを代表するオペラ作曲家の一人です。

その作品は今日でも世界中のオペラハウスで頻繁に上演されています。

 

音楽は、ドラマティックな表現力と豊かなメロディーによって、人々の心を強く揺さぶる特徴を持っています。

ヴェルディの作品はイタリアの音楽文化に深く根付いており、また彼の生涯と業績はイタリアの統一運動(リソルジメント)とも密接に結びついています。


ヴェルディは、イタリア北部の小さな村ロンコーレで生まれました。

彼の音楽的才能は幼少期から顕著であり、地元のオルガニストとしての経験を積みました。

 

その後、ミラノに移り音楽の勉強を続けましたが、当初はミラノ音楽院への入学試験に失敗するなど困難もありました。

しかし、彼は独学で努力を重ね、1839年には初めてのオペラ『オベルト』が成功を収め、作曲家としてのキャリアをスタートさせました。


ヴェルディの初期のキャリアは成功しましたが、個人的な悲劇にも見舞われました。

1840年代初め、彼の最初の妻と二人の子供を相次いで失い、精神的に大きな打撃を受けます。

 

彼は一時的に作曲活動を中断しますが、その後、1842年に発表されたオペラ『ナブッコ』が大成功を収め、彼の名声を確固たるものにしました。

この作品は、旧約聖書に登場するバビロニアの王ナブコドノゾル(ネブカドネザル)を題材にしており、特に「ヘブライの奴隷たちの合唱」(Va, pensiero)は、イタリアの愛国心を喚起する象徴的な曲として愛されています。

◉イタリア統一運動とヴェルディ
ヴェルディは音楽家としてだけでなく、愛国者としても知られていました。

19世紀中頃、イタリアは複数の国家に分かれており、ヴェルディはリソルジメント運動に共感を抱いていました。

 

彼の作品には、抑圧と自由、愛国心と犠牲といったテーマが頻繁に登場し、特に『ナブッコ』や『マクベス』などのオペラは、当時のイタリア人にとって政治的メッセージとしても受け取られました。

 

また、ヴェルディの名前自体が「Viva VERDI」(「ヴィットーリオ・エマヌエーレ・レ・ディ・イタリア」の略)というスローガンとして用いられ、イタリア統一の象徴とされました。


◉名作の数々
ヴェルディの作品は、イタリアオペラの伝統に根ざしつつも、個々の登場人物やドラマの感情表現を重視する点で、他の作曲家と一線を画しています。

彼の代表作には、『リゴレット』(1851年)、『イル・トロヴァトーレ』(1853年)、『椿姫』(1853年)などがあり、これらは現在でもオペラのレパートリーの中心を占めています。

『リゴレット』は、感情的に複雑な登場人物と強烈なドラマを特徴とする作品であり、特に父娘の悲劇が描かれています。

『椿姫』は、パリの高級娼婦ヴィオレッタの生涯とその悲劇的な死を描いた作品で、社会的な階級や道徳観念に対する批判を含んでいます。


◉晩年の傑作
ヴェルディは晩年に入っても精力的に創作活動を続けました。

特に注目すべきは、シェイクスピアの『オテロ』を基にしたオペラ『オテロ』(1887年)と、彼の最後のオペラである『ファルスタッフ』(1893年)です。

『オテロ』は、ヴェルディの劇的な才能が最大限に発揮された作品であり、『ファルスタッフ』は、彼にとって珍しい喜劇オペラですが、熟練した構成力とユーモアが光る傑作です。


◉ヴェルディの遺産
ヴェルディは、単なる作曲家にとどまらず、19世紀の音楽文化全体に影響を与えました。

彼の作品は、人間の感情や社会問題を深く掘り下げ、イタリアの文化や歴史に根差したテーマを扱いながらも、普遍的な魅力を持っています。

ヴェルディはまた、ミラノ近郊のブッセートにある自ら設立した音楽院や、晩年に建設した高齢音楽家のための施設「カサ・ディ・リポーソ」を通じて、後進の育成にも尽力しました。

1901年に亡くなったヴェルディは、ミラノで盛大な国葬が行われ、その音楽的遺産は今もなお多くの人々に愛されています。

彼の作品は、感情の深さ、メロディの美しさ、そして劇的な構成力により、オペラの世界で永遠に輝き続けています。

 

今回の動画

https://youtu.be/YSiH3s_pZjo

 

今回の番組でも取り上げた椿姫は、10/6に愛知県芸術劇場コンサートホールでオペラハイライトシリーズVol.2としても上演します。


『椿姫』は、ジュゼッペ・ヴェルディによる3幕のオペラで、原作はアレクサンドル・デュマ・フィスの小説『椿姫』です。

物語は19世紀のパリを舞台に、花形高級娼婦ヴィオレッタ・ヴァレリーと青年アルフレード・ジェルモンとの悲恋を描いています。ここでは、第1幕のあらすじと背景について詳述します。

●あらすじ
第1幕は、ヴィオレッタの邸宅での豪華なパーティーから始まります。

ヴィオレッタは、病気を抱えながらも社交界で華々しく活躍しており、この夜も彼女の周りには多くの客が集まっています。

その中に、彼女に恋をしている青年アルフレード・ジェルモンも招かれています。

アルフレードは、ヴィオレッタの友人であるフローラの紹介で彼女に出会い、彼女の健康を案じていることを告白します。

パーティーが進む中で、ヴィオレッタは体調が悪くなり一時的に部屋を離れますが、アルフレードはその間も彼女を気遣い続けます。

ヴィオレッタが戻ると、客たちは乾杯の歌を歌い始め、アルフレードがヴィオレッタと二重唱を披露します。

この二重唱「乾杯の歌(Libiamo ne' lieti calici)」は、オペラの中でも特に有名なシーンです。

その後、客たちが去った後、アルフレードはヴィオレッタに愛を告白します。

しかし、ヴィオレッタは自分の過去と現在の生活がアルフレードにとって相応しくないと感じ、彼の愛を受け入れることを躊躇します。

彼女はアルフレードに対して自由な生き方を大切にすると告げますが、内心ではアルフレードの真摯な愛に心が動かされます。

アルフレードが去った後、ヴィオレッタは自身の心情を独白するアリア「花から花へ(Sempre libera)」を歌い、アルフレードとの恋に迷いながらも、自由を追い求める自分の生き方を確認します。

しかし、この選択はやがて悲劇的な結末を迎える運命にあるのです。
今日の番組では「花から花へ」は冒頭しか放送できませんでした。

来週は「花から花へ」を聴いていただきます。

●背景
『椿姫』はヴェルディの中期の代表作であり、彼のオペラ作曲家としての成熟を象徴しています。

ヴェルディは『椿姫』で、当時の社会問題や人間関係の複雑さをテーマに取り上げ、リアルで感情豊かなキャラクター描写を追求しました。

特に第1幕では、登場人物の内面的な葛藤が音楽によって巧みに表現されています。

このオペラが初演されたのは1853年のヴェネツィアですが、当時の観客からはあまり支持されませんでした。

理由の一つは、主人公ヴィオレッタのような「堕落した」女性がオペラのヒロインとして描かれることが斬新であり、また社会的にタブー視されていたためです。

しかし、その後の再演では、ヴィオレッタの悲劇的な愛の物語が観客の共感を呼び、一躍人気作となりました。

音楽的には、ヴェルディは登場人物それぞれの性格や感情を反映した旋律やリズムを駆使し、ドラマの進行とともに音楽が物語を牽引する手法を取り入れています。

第1幕での「乾杯の歌」は、その明るさと社交界の華やかさを象徴していますが、一方で「花から花へ」はヴィオレッタの内なる葛藤と自由への渇望が表現され、対照的な二面性を持つことが特徴です。

ヴェルディの『椿姫』は、登場人物の内面に深く迫り、愛と犠牲、社会的な偏見といった普遍的なテーマを通じて、今なお多くの人々に感動を与え続けています。

 

今回の動画

https://youtu.be/lpv7-NOONcE

今回はセントラル愛知交響楽団の定期演奏会で演奏する、ウォルトン作曲のチェロ協奏曲について語ります。

この協奏曲は英国の作曲家ウィリアム・ウォルトン(William Walton, 1902–1983)による作品で、彼の晩年の作曲活動における重要な作品の一つです。

1970年に作曲され、1975年に完成されました。


ウォルトンはチェロ協奏曲を書くことに興味を持っていましたが、彼自身の独特な音楽語法をこのジャンルにどう適用するかを慎重に考え、最終的にこの協奏曲をロシアの名チェリスト、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチに献呈することにしました。

ロストロポーヴィチは、同時代の多くの作曲家に新しいチェロ作品を書くよう依頼しており、ウォルトンもその影響を受けたのでした。


このチェロ協奏曲は伝統的な三楽章構成(速-遅-速)ではなく、緩-急-緩の三楽章形式で書かれています。各楽章には彼の繊細で洗練された作曲技法が存分に発揮されており、独特な調性感覚や、柔らかくも深みのあるオーケストレーションが特徴です。


第1楽章
モデラート・トランクィッロ
 穏やかなテンポで始まり、チェロのソロが静かに主題を提示します。

この楽章は、内省的で抒情的な性格を持ち、チェロの独奏が詩的な表現力を発揮する場となっています。


第2楽章
アレグロ・アパッショナート
この楽章は速いテンポで、リズミックで躍動感のある音楽が展開されます。

この楽章では、オーケストラとチェロが激しく交錯し、ドラマチックな対話が繰り広げられます。


第3楽章テーマと変奏
アンダンテ・トランクィッロ
ゆったりとしたテーマがチェロによって提示され、その後、変奏が続きます。

この楽章では、ウォルトンの卓越した変奏技術が発揮され、主題がさまざまな色彩と情感で変容します。


ウォルトンのチェロ協奏曲は、その内面的で深遠な性格から、他の有名なチェロ協奏曲と比較して演奏される機会は少ないかもしれませんが、演奏家たちにとっては技術的および表現的に非常に挑戦的な作品です。特にロストロポーヴィチを始めとする名チェリストたちによる解釈が高く評価されています。
 

今回の動画

https://youtu.be/jeLgEkBdip4

今回はセントラル愛知交響楽団の定期演奏会で取り上げる「色彩交響曲」についてお話しします。

アーサー・ブリス作曲の『色彩交響曲』(A Colour Symphony)は、1921年から1922年にかけて作曲されました。

ブリスにとって最初の大規模な管弦楽曲です。

 

この作品は、イギリスの作曲家エドワード・エルガー(威風堂々の作曲者)の招きで、1922年、ロンドンで行われた「グロスター・スリー・クワイアーズ・フェスティヴァル」のために書かれました。


ブリスは最初、作曲するにあたり、作品の主題や性格について迷っていました。

そんな中、彼が紋章学(中世ヨーロッパ以来貴族社会において用いられてきた、氏族・団体・地方の紋章の意匠)の本を読んでいたときに、色には象徴的な意味があることを知ります。

その色をテーマにした交響曲を書こうと決意します。

 

ブリスは各楽章ごとに異なる色をテーマとして設定し、それぞれの色が持つ性格を音楽で表現しました。
 

●各楽章とテーマ
『色彩交響曲』は、4つの楽章から構成されており、各楽章には異なる色がテーマとして割り当てられています。

ブリスはそれぞれの色の象徴的な意味を音楽的に表現しましたが、色そのものを描写することは避けています。

1. 第1楽章:紫(Purple)
高貴さ、神秘、そして悲しみを象徴します。
2. 第2楽章:赤(Red)
戦争、力強さ、そして情熱を表します。
3. 第3楽章:青(Blue)
平和、冷静さ、そして瞑想的な性格を持っています。
4. 第4楽章:緑(Green)
希望、再生、そして自然を象徴します。


『色彩交響曲』は1922年9月7日、グロスター大聖堂で初演されました。

初演はブリス自身が指揮し、ロンドン交響楽団によって演奏されましたが、あまり評判はよくありませんでした。

 

その理由は、準備不足や会場の制約により、いくつかの楽器を省いて演奏しなければならなかったためと言われています。

エルガーはこの初演に立ち会い、曲を「困っちゃうほどモダンだ」と評したと伝えられています。


その後、時が経つにつれて『色彩交響曲』はブリスの代表作の一つとして認識されるようになり、録音も複数回行われています。

現在でも、コンサートでの演奏機会は少ないものの、ブリスの作品の中でも特に重要な作品とされています。

 

今回の動画

https://youtu.be/v1WE3IPdfjg

今回も津島市の燻製dining BAR琉さんからの放送になります。

番組で私と佐井さんが注文したウィスキー「KIYOSU」について調べてみました。


清須市にある清洲桜醸造株式会社は、清酒「鬼ころし」で知られる老舗ですが、ウイスキー「KIYOSU」も手がけています。

2019年に東海地方限定で発売された「クラフトウイスキー キヨス」は、清酒酵母を使用し、5年間樽で熟成されることで、バニラのような甘い香りと厚みのあるボディ感が特徴です。

清洲桜醸造は、ウイスキーの他にもジンやウォッカも製造しています。

https://onikoroshi.co.jp/product/aichi-craft/

詳細については、清洲桜醸造の公式サイトも参考にしてください 。

https://onikoroshi.co.jp/

 

今回の動画

https://youtu.be/HTrUU4x3rlk

 

今回でおはクラ放送丸10年が過ぎ11年目に入りました。
今まで応援本当にありがとうございました。

今後ともよろしくお願い致します。


11周年にあたり今回も津島市の燻製dining BAR琉さんからの公開録音での放送になります。

今回はゲストに準レギュラーの秀平雄二さんをお迎えしての放送です。


秀平雄二さんは名人劇場やしらかわホールでの公開収録で大変お世話になりました。

今回あらためて秀平さんのプロフィールを紹介したいと思います。


秀平さんは名古屋芸術大学音楽学部卒業され、同大学院音楽研究科首席修了。

修了時に理事⾧賞受賞されました。


日本ピアノ教育連盟オーディション全国大会において萩原和子賞(最優秀賞)、日本クラシック音楽コンクール全国大会第1位及びグランプリ、山田貞夫音楽財団音楽賞特選、長江杯国際音楽コンクール優秀伴奏者賞等、受賞多数しています。


ピアノ協奏曲をセントラル愛知交響楽団、チェルニーゴフフィルハーモニー交響楽団と共演され、名古屋市民芸術祭、岐阜国際音楽祭、日伊親善交流演奏会、東日本大震災復興支援コンサート等多数の演奏会に出演しており、アンサンブルピアニストとしても数多くのアーティストと共演しています。

 

中井亮一氏と共演したCD(SONY)はレコード芸術誌において準特選盤に選定されている他、2020年にはコロナ禍におけるオーケストラ支援のチャリティーCDに参加。

またアウトリーチ公演やラジオ出演等幅広く活動しています。


現在は、名古屋音楽学校、中日文化センター講師。
名古屋芸術大学非常勤講師を勤めておられます。

 

今回の動画

https://youtu.be/Ppocwrsl0ik


 

今回はリスト、サン=サーンスの書いた「死の舞踏」について語ります。

中世ヨーロッパにおけるペスト(黒死病)は、14世紀中頃に大規模な流行を見せ、ヨーロッパの人口の約3分の1を減少させました。

この恐ろしい疫病は、社会、経済、文化に深刻な影響を与えましたが、その中でも特に芸術と音楽に与えた影響は顕著です。

ペストの流行は、当時の芸術におけるテーマや表現方法に大きな変化をもたらしました。

絵画や彫刻には死や苦痛、宗教的な救済が中心テーマとして取り上げられるようになり、死を象徴する骸骨や死神のモチーフが多く見られるようになりました。

 

例えば、ダンス・マカブル(死の舞踏)はその一例で、生者と死者が一緒に踊る姿が描かれ、死の避けられない現実を象徴しています。

このテーマは、死が社会全体に蔓延しているという当時の人々の認識を反映しています。

ペストの影響は後の時代、特にロマン派の作曲家たちの作品にも見られます。

フランツ・リストとカミーユ・サン=サーンスは、その代表的な作曲家として、ダンス・マカブルのテーマを音楽作品に取り入れました。

●フランツ・リストと「死の舞踏」
フランツ・リストはピアニストとしてもその名を馳せました。

彼の「死の舞踏」(Totentanz)は、ピアノと管弦楽のための協奏的作品です。

この作品は、グレゴリオ聖歌「怒りの日」(Dies Irae)の旋律をモチーフにしており、暗く激しい調子が特徴です。


リストの「死の舞踏」は、技術的に非常に難易度の高い作品であり、演奏者に高度な技巧を要求します。

リストはこの作品を通じて、死の不可避性とそれに対する人間の恐怖、そしてそれを超克しようとする意志を音楽的に表現しています。

特に、グレゴリオ聖歌の旋律を変奏しながら展開することで、死のテーマが多面的に描かれています。


●カミーユ・サン=サーンスと「死の舞踏」
サン=サーンスはオルガニスト、指揮者としても活躍しました。

彼の交響詩「死の舞踏」(Danse Macabre)は、アンリ・カザリスの詩に触発されて作曲されました。


サン=サーンスの「死の舞踏」は、ヴァイオリンのソロが死神を象徴し、12時を告げる鐘の音から始まります。

死神が墓から死者を呼び起こし、夜通し踊らせるという幻想的で不気味な情景が音楽で描かれています。

特にヴァイオリンの不協和音と急速なパッセージが、死の恐怖と狂気を強調しています。


この作品は、管弦楽の色彩豊かな使い方とリズミカルなダンスの要素が特徴であり、聴衆に強い印象を与えます。

また、サン=サーンスは「死の舞踏」において、死を恐れる人々の心理と、それに対する死神の冷酷な態度を対比的に描写しています。


まとめ(ペストのロマン派への影響)
ペストの影響は、中世から近代にかけてのヨーロッパの芸術文化に深く刻まれ、その痕跡はロマン派の音楽にも引き継がれました。

ロマン派の作曲家たちは、中世のダンス・マカブルのテーマを取り入れ、死や運命、超自然的な現象に対する興味を表現しました。


リストとサン=サーンスの「死の舞踏」は、その代表的な例であり、死の不可避性とそれに対する人々の恐怖や魅了を音楽を通じて描き出しました。

彼らの作品は中世のペストの影響を受けつつも、ロマン派独自の感情豊かな表現と技術的な洗練を加えることで、新たな芸術的価値を創造しました。


総じて、ペストは中世ヨーロッパの文化に深い影響を与え、その影響は時代を超えてロマン派の音楽にまで及びました。

リストとサン=サーンスの「死の舞踏」は、歴史的な背景と個々の芸術的ビジョンが結びついた独自の音楽作品となっています。

これらの作品は、死と生の対立を通じて、人間の存在の深遠さを探求し続けています。

 

今回の動画

https://youtu.be/JX0oY-Cl0ro