マーシー山本教授のゆるゆるクラシック日記

マーシー山本教授のゆるゆるクラシック日記

マーシー山本のお仕事の報告やクラシック音楽の豆知識をお届けします。

今回はシューベルトの交響曲について呟きます。

皆さん、シューベルトの《未完成交響曲》は何番でしょうか?
「そんなの簡単!第8番でしょう!」


そう答えた方、もちろん正解です……が、最近の楽譜を見ると「交響曲第7番《未完成》」と書いてあることがあります。


では《ザ・グレート》は?
昔から親しんできたのは「交響曲第9番《ザ・グレート》」。

ところが、こちらも現在では「第8番」と書かれることがあります。
第8番が《未完成》だったり《ザ・グレート》だったり……。
「いったいどうなっているんでしょうか?」


実はシューベルト本人が悪いわけではありません。

そもそも彼自身が現在のように「これは交響曲第○番」とすべての番号を整理したわけではないのです。


シューベルトは1828年、わずか31歳で亡くなりました。

その時、多くの作品が出版されずに残され、さらに作曲途中の楽譜やスケッチもたくさんありました。

 

つまり、このややこしい番号は、シューベルトの死後、後世の人たちが整理していく過程で生まれたものなのです。
第1番D82から第6番D589までは、ほぼ問題ありません。


問題はここから!
シューベルトの死後、シューマンが兄フェルディナントのもとを訪ねた際、大規模なハ長調交響曲D944の楽譜を見つけます。

現在《ザ・グレート》と呼ばれている名曲です。1839年、メンデルスゾーンの指揮によってライプツィヒで初演されました。


当時、第1番から第6番までが知られていました。
「それなら、これが第7番だ!」となります。


ところが、その後とんでもない名曲が出てきます。
1860年代になって、シューベルトが1822年に書いたロ短調交響曲D759が世に知られるようになります。


そうです!
あの《未完成交響曲》です。
第1、第2楽章は完成していますが、第3楽章は途中まで。第4楽章はありません。

しかし、たった2つの楽章だけでも音楽的には圧倒的な存在感を持っています。

1865年にウィーンで初演されると、この作品も重要な交響曲として扱われるようになります。


しかし困りました。

《ザ・グレート》をすでに第7番と呼んでいる……。
「じゃあ《未完成》は第8番にしましょう!」


ということで、《未完成》が第8番と呼ばれるようになりました。

その後、作曲年代を考えて《ザ・グレート》を後ろへ送り、
第8番《未完成》
第9番《ザ・グレート》
という番号が広く定着します。

 

私たちの世代には、この呼び方が一番馴染み深いです。
「でも第7番はどうなったの?」
そこで登場するのが1821年のホ長調交響曲D729です。


この作品は全体の構想が残されていますが、シューベルト自身による完全なオーケストレーションは完成していません。
そこで、
第7番=D729
第8番=D759《未完成》
第9番=D944《ザ・グレート》
と整理すれば、確かに番号がきれいにつながります。


ところが研究が進むと、
「完成していないD729を正式な第7番として数えていいの?」という話になります。


その結果、新しいシューベルト研究や全集では番号を整理し直し、
第7番=D759《未完成》
第8番=D944《ザ・グレート》
とする方式が採用されるようになりました。


つまり《未完成》は「第8番」でも「第7番」でも間違いとは言い切れない。

《ザ・グレート》も「第9番」と「第8番」、両方の表記が存在するのです。


ややこしいです。
そこで一番間違いないのが「D番号」です。
D759=《未完成》
D944=《ザ・グレート》


これなら世界中どこへ行っても迷子になりません。
でも私は、この番号の混乱もシューベルトの魅力の一つだと思っています。


31歳というあまりにも早い死。

そのため自分の作品を整理しきれず、死後になって「あっ、こんな交響曲もあった!」「こっちにもあった!」と名曲が次々に世の中へ現れました。


第7番? 第8番? それとも第9番?
このややこしさこそ、シューベルトの音楽が彼の死後も発見され、研究され、そして200年近く愛され続けてきた歴史そのものなのかもしれません。


ということで皆さん、《未完成》は何番?と聞かれたら――
「昔の番号なら8番、現在の整理では7番。D759と言えば間違いなし!」
これであなたも、ちょっとしたシューベルト通です!

※シューベルトの作品についている 「D」 は、ドイチュ番号のことです。
シューベルトは生前に作品番号(Op.)が付かなかった曲が非常に多いため、音楽学者 オットー・エーリヒ・ドイチュが作品を整理し、1951年に作品目録を出版しました。

その番号が D番号 です。

 

今回の動画

https://youtu.be/ArOrHHAxcqI

今回はマーラー作曲の「千人の交響曲」について呟きます。

グスタフ・マーラーの交響曲第8番変ホ長調は、通称「千人の交響曲」と呼ばれています。

クラシック音楽史上でも最大級のスケールを持つ作品です。

「千人の交響曲」という名前を付けたのはマーラー本人ではありません。


作品が生まれたのは1906年夏。

マーラーは毎年、オーストリア南部ヴェルター湖畔のマイアーニックにある作曲小屋で夏を過ごし、作曲に集中していました。

マーラーは「創造の霊が私をつかみ、揺さぶり、鞭打った」と回想しています。


巨大な作品でありながら、その基本構想は驚くほど猛烈な勢いで生まれたようです。
最大の特徴は、普通の交響曲のような4楽章構成ではなく、巨大な二つの部分からできています。


第1部は、中世のラテン語による聖霊降臨祭の賛歌「来たれ、創造主なる聖霊よ」
冒頭のオルガンに続いて大合唱が「Veni!」と一気に飛び込んできます。

静かに始まるマーラーの交響曲とは正反対で、最初から巨大なエネルギーが爆発します。


そして第2部で突然世界が変わります。

今度はゲーテの『ファウスト』第2部の最後、「山峡」の場面です。

 

ラテン語の宗教的な賛歌からドイツ文学へ一見まったく関係のない二つの世界をマーラーは一つの交響曲にしました。
なぜこの二つを組み合わせたかマーシー山本が推測します。


第1部のキーワードは「創造する力」、第2部ではファウストの魂が救済され、最後に「永遠に女性的なるものが、われらを高みへと引き上げる」と歌われます。
マーラーは、宗教的な「聖霊」とゲーテの説く「愛」を、「人間をより高い世界へ導く創造的な力」という一つの思想で結びつけたのではないでしょうか。

 

二つの部分には共通する音楽的素材も使われています。

約80分に及ぶ巨大な作品全体が一つにつながっています。


初演は1910年9月12日、ミュンヘン。

指揮はマーラー自身。


興行師エミール・グートマンは、この桁外れの編成を宣伝するため「千人の交響曲」というキャッチフレーズを考えました。

実はマーラーはこのタイトルを好みませんでした。

 

しかし、宣伝効果は絶大で実際の初演には大人の合唱約500人、児童合唱約350人、巨大なオーケストラ、8人の独唱者など、まさに「千人」に迫る演奏者が集められました。


客席にもすごい顔ぶれが来ていたようです。

たとえば、リヒャルト・シュトラウス、サン=サーンス、ウェーベルン、ストコフスキーらが聴いたようです。

 

演奏終了後には約20分にも及ぶ大喝采が起こったと伝えられています。

それまで自作の交響曲が必ずしも理解されず、失望することも多かったマーラーにとって、これは生涯最大級の成功でした。

 

しかし、初演からわずか8か月後、1911年5月、マーラーは50歳で亡くなってしまいます。
マーラーは交響曲第9番と10番を一部作曲していますが交響曲の時系列も紹介します。

第8番の初演(1910年9月12日)の時点で、第9番はすでに完成し、第10番の作曲もかなり進んでいました。

1906年 第8番《千人の交響曲》作曲
→ 1907~08年《大地の歌》
→ 1909年 第9番
→ 1910年 第10番
→ 1910年9月 第8番《千人の交響曲》初演
→ 1911年5月 マーラー死去

 

今回の動画

https://youtu.be/cd57w4vY8zM

今回の「おはクラ」は「交響曲の変容」をテーマに、初期の交響曲を取り上げました。


そこで今回の呟きでは、モーツァルト最後の3大交響曲、第39番・第40番・第41番「ジュピター」と、当時まだ比較的新しい楽器だった「クラリネット」との関係について、私なりの想像も交えながらご紹介したいと思います。


まず面白いのが、この最後の3曲でのクラリネットの扱いです。
第39番には最初からクラリネットが使われています。

しかも、この曲ではオーボエを使わず、クラリネット2本を採用しています。


一方、第40番は最初からクラリネット入りだったわけではありません。

そして第41番「ジュピター」には、クラリネットは使われていません。
つまり、第40番には「クラリネットなし」と「クラリネット入り」という2つの姿があるのです。


1788年に書かれた最初の第40番の木管楽器は、フルート1、オーボエ2、ファゴット2。

そこにホルン2と弦楽器が加わります。

クラリネットだけでなく、トランペットとティンパニもありません。


ところがその後、モーツァルト自身がクラリネット2本を追加し、それに合わせてオーボエなど他の木管パートにも手を入れました。
ここが大切です。


単純に「クラリネットを2本重ねました」という改訂ではありません。
クラリネットに旋律を受け渡したり、オーボエとの役割を組み替えたりと、モーツァルトはオーケストラ全体の「音色」をかなり意識的に再設計しているのです。
自筆資料が残っているため、モーツァルト自身による改訂であることは確かです。

ただし、「いつ、何のために改訂したのか」については、はっきりとは分かっていません。


そこで気になるのが、シュタドラー兄弟です。
兄のアントン・シュタドラーは、モーツァルトが非常に高く評価していた名クラリネット奏者でした。


モーツァルトは彼のために、
クラリネット五重奏曲 イ長調 K.581
クラリネット協奏曲 イ長調 K.622
などの傑作を書いています。

 

モーツァルトとシュタドラーとの関係は1780年代に深まり、晩年のモーツァルトにとってクラリネットは、ますます重要な楽器になっていきました。
そして興味深いのが、1791年4月16日にウィーンで行われた演奏会です。


この演奏会のオーケストラには、兄アントンと弟ヨハンというシュタドラー兄弟が参加していました。

そして、この演奏会では「モーツァルト作曲の大交響曲」が演奏されたという記録があります。


残念ながら作品番号までは記されていません。

そのため第40番だったと断定することはできませんが、最後の3大交響曲のいずれかだった可能性も考えられています。


ここからは、私の想像です。
「せっかくシュタドラー兄弟という素晴らしいクラリネット奏者がいるのだから、第40番にもクラリネットを入れてみよう!」
モーツァルトがそう考えて改訂したのではないか……。
もちろん確証はありません。

しかし、モーツァルトとシュタドラー兄弟との深い関係を考えると、とても魅力的な推測だと思います。


では、クラリネットを加えると第40番の響きはどう変わるのでしょうか?
初稿ではオーボエの音色が前面に出るため、輪郭が鋭く、どこか乾いた緊張感のある響きがします。


ところがクラリネットが加わると、中音域に柔らかく温かな音色が加わります。
「悲劇性+温かさ」
「緊張感+歌うような響き」
そんな、より複雑な表情を感じることができます。


特に晩年のモーツァルトは、シュタドラーとの交流を通して、クラリネットを単なる「オーボエの代わり」ではなく、人間の声のように歌うことのできる独立した楽器として扱うようになっていきます。

第40番の改訂も、その流れの中で考えてみると、とても興味深いものがあります。


そして、もう一つ私が注目したいのは、「第40番にモーツァルト自身による改訂版が存在する」という事実です。
かつては「モーツァルトは最後の3大交響曲の実演を一度も聴くことがなかった」と語られることもありました。


しかし、本当に演奏する機会がまったくなかったのであれば、なぜモーツァルトはわざわざ第40番にクラリネットを加え、さらに他の木管パートまで書き直したのでしょう?
少なくとも、何らかの実演を想定して改訂したと考えるのが自然ではないでしょうか。


そう考えると第40番には、
「クラリネットなしの1788年初稿」
そして
「クラリネット入りの改訂稿」
という二つの顔があることになります。


同じモーツァルトの第40番なのに、ぜひ聴き比べてみてください。オーケストラの響きの印象がずいぶん違って聴こえるはずです。
ただ、ここまでクラリネットの魅力に気づいていたモーツァルトなら……。
最高傑作の一つ、第41番「ジュピター」にもクラリネットを入れてほしかった!
……と、クラリネット好きの私は思ってしまいます。

残念!

 

今回の動画

 

https://youtu.be/aZRXfE7pptE

今回は教えてマーシー山本教授に来ました、リスナーからの「イタリア協奏曲」の質問をもう少し詳しく解説したいと思います。


リスナーの質問は「何故バッハのイタリア協奏曲はチェンバロの独奏曲なのに協奏曲なのでしょうか?」です。

J.S.バッハ《イタリア協奏曲》BWV 971は正式題名は《イタリア趣味による協奏曲》で、出版されたのが1735年です。

楽器は2段鍵盤のチェンバロのために作曲されました。
全部で3楽章から出来ています。


なぜ「イタリア協奏曲」なのか?
バッハがイタリアへ旅行して作った作品ではありません。
ではなぜ「イタリア」なのでしょうか。


バッハは、ヴィヴァルディをはじめとするイタリアの協奏曲を熱心に研究していました。
特にヴァイマル時代、ヴィヴァルディなどの協奏曲をチェンバロやオルガン用に編曲しています。

 

ヴィヴァルディの協奏曲を研究することで、「独奏者」と「合奏(オーケストラ)」が交互に登場する合奏協奏曲を徹底的に研究しました。
そして、その成果を究極の形にしたのが《イタリア協奏曲》です。


最大の特徴はチェンバロ1台で「独奏+オーケストラ」を表現しました。
普通の協奏曲なら、ヴァイオリン独奏 + オーケストラのような編成です。


ところが《イタリア協奏曲》には、オーケストラがいません。

チェンバロ奏者たった一人です。


それなのに、
「ここはオーケストラ全員」
「ここは独奏者」
「またオーケストラが戻ってきた!」
という対比で作曲されています。


これを可能にしたのが2段鍵盤のチェンバロです。
バッハの楽譜には、フォルテ(強く)•ピアノ(弱く)という指示がかなり細かく書かれています。
現代のピアノなら「強く弾く・弱く弾く」で表現できますが、チェンバロは鍵盤を押す力だけでは、ピアノほど大きな強弱をつけられません。


そこで2段の鍵盤やストップの違いを利用して、
フォルテ=オーケストラ
ピアノ=独奏者(Solo)
という鍵盤を弾き分けることで表現しました。


つまり、「一人二役の協奏曲」なのです。

 

今回の動画

https://youtu.be/RujttRQ6p_I

今回はオーケストラの縁の下の力持ち、コントラバスについてお話しします。

中々複雑ですよ。でも、気楽にこんなもんか程度でお読みください。

1.ルネサンス時代
コントラバスの祖先は、「ヴィオローネ」です。
16世紀には現在のコントラバスそのものはまだ存在していません。


低音を担当した大型弦楽器として重要なのが、ヴィオローネ(violone)でした。

ただし「ヴィオローネ」という名前は特定の一種類の楽器名を表すのではなく、時代や地域によっては、大型の「ヴィオラ・ダ・ガンバ」や「バス・ヴィオール」、さらに低いコントラバス音域の楽器などを指しました。


ここで注意したいのが「4弦」です。
ルネサンス時代のコントラバスの祖先=4弦だった、と単純には言えません。 

ヴィオール族では5弦、6弦、場合によってはそれ以上の弦を持っている楽器もありました。

むしろ、弦の数も調弦法も非常に多様だったようです。


17世紀は、ヴィオローネから大型バス楽器へ移行します。

バロック時代になると、オーケストラの低音を支える楽器として大型のヴィオローネが重要になりました。


この時代の楽器には、現代のコントラバスにつながる特徴と、ヴィオラ・ダ・ガンバにつながる特徴が混在していました。

たとえば、ヴィオール的特徴はなで肩で平らに近い裏板、そして、多数の弦です。
4度・3度などを組み合わせた調弦が主流です。


ヴァイオリン族の特徴は4弦でフレットがありません。

そのためコントラバスは、チェロのように「ヴァイオリン族がそのまま大型化したもの」と説明するには少し無理があります。
ヴィオール族とヴァイオリン族双方の特徴を受け継いだ混血的な楽器というのが近いと思います。


バロック時代は、「何弦か」が統一されていなません。
17~18世紀には、地域によって非常に多様な低音楽器が存在しました。
4弦だけでなく、3弦、5弦、6弦などがあります。さらに重要なのが調弦です。


現在のコントラバスは基本的にE-A-D-G(ミ-ラ-レ-ソ)と4度ずつですが、昔はこの調弦に統一されていませんでした。
この「4度調弦」は、コントラバスに残ったヴィオール系の伝統の一つとも考えられています。

18世紀には、なんと「3弦コントラバス」が大活躍しました。ここが意外なところです。
18世紀後半になると、特にイタリアなどでは3弦コントラバスが非常に重要になります。
代表的な調弦の一つが、A-D-G(ラ-レ-ソ)です。3本しかありません。


しかしガット弦の時代には、弦を減らすことで楽器をよく響かせられるという利点もありました。
18世紀末から19世紀初頭に活躍した名コントラバス奏者のドメニコ・ドラゴネッティ(1763–1846)も、3弦コントラバスの伝統を代表する人物です。

彼は超絶技巧でコントラバスの地位を大きく向上させました。

ウィーンでは「5弦」がすでに18世紀に登場しています。

18世紀後半のウィーンでは、5弦のヴィオローネ/コントラバスが盛んに使われました。

しかし、現在の5弦コントラバスとは発想が違います。

代表的な「ウィーン式調弦」は、F♯-A-D-F♯-A(ファ#-ラ-レ-ファ#-ラ)。
これは4度調弦ではありません。
この調弦ではニ長調やイ長調の和音が開放弦を利用して非常によく響きます。

この楽器のために「ディッタースドルフ」「ヴァンハル」「ホフマイスター」といった作曲家がコントラバス協奏曲を書きました。


すなわち、「5弦コントラバスは19世紀に初めて生まれた」訳ではありません。
これはコントラバスの歴史を語る上で重要です。


19世紀――3弦と4弦が併存
19世紀になり、オーケストラが大型化すると、低音に求められる音量・音域も拡大します。


しかしヨーロッパ全体ですぐ4弦に統一されたわけではありません。
特にイタリアやフランスなどでは、かなり長い間3弦コントラバスが使用されました。
一方、ドイツ・オーストリア圏では4弦楽器が発達していきます。

そして次第に、E-A-D-G(ミ-ラ-レ-ソ)という現在につながる4度調弦が標準化していきます。


注目です。

ベートーヴェンがコントラバスを変えたといっても過言ではありません。
オーケストラの歴史ではベートーヴェンが非常に重要です。

 

それ以前はチェロとコントラバスがほぼ同じ低音ラインを演奏することが多かったのですが、ベートーヴェンはコントラバスの音色や重量感を積極的に利用します。
特に有名なのが《交響曲第5番》《第9番》などです。


さらにドラゴネッティの演奏能力を知ったことも、ベートーヴェンとコントラバスの関係を考える上で大変重要です。
19世紀後半、「もっと低い音が欲しい」と作曲家が思い、ここから現代の5弦コントラバスにつながります。


4弦コントラバスの最低音は通常E(ミ)です。
ところがチェロの最低音はC(ド'なので、チェロの旋律を1オクターヴ下で完全に重ねようとすると、コントラバスにはC(ド)まで必要になります。

E(ミ)よりさらにE (ミ)→ E♭ (ミb)→ D (レ)→ D♭ (レb)→ C(ド)と低い音が必要なのです。


19世紀のオーケストラが巨大化すると、この問題が目立ってきます。
そこで5弦コントラバスが、19世紀後半から、低音域を拡大するために5弦コントラバスが重要になっていきます。


現在よく見られる5弦は、C(ド)-E₁(ミ)-A₁(ラ)-D(レ)-G(ソ)です。
つまり普通の4弦の下にLow C(低いド)を追加します。


特にドイツ・オーストリア系オーケストラでは5弦コントラバスが発達していきました。
ワーグナー以降、低音拡張がますます重要になります。


ワーグナー、ブルックナー、マーラー、リヒャルト・シュトラウスなどの巨大なオーケストラ作品では、コントラバスの低音がますます重要になります。


そのため、5弦コントラバスあるいは4弦の最低弦をCまで延長するCエクステンションという二つの方向が生まれ、現在まで続いています。

 

今回の動画

https://youtu.be/OE6qPASBipw

今回は最後に取り上げた「ピーターと狼」についてお話しします。

作曲者はセルゲイ・プロコフィエフ、ロシア出身の作曲家です。


「ピーターと狼」は1936年に作曲されました。
初演は、同年の5月2日モスクワで行われました。
指揮はプロコフィエフ自身 です。


作曲の動機は、モスクワ中央児童劇場の責任者だったナターリヤ・サーツがプロコフィエフに作品を依頼しました。
サーツの発想は、子どもたちが物語を楽しみながら、オーケストラの楽器の音色を聞き分けられる作品を作りたいというものでした。


プロコフィエフは自分の息子たちを連れてこの劇場を訪れており、このアイデアに強い興味を示します。 
最初は別の児童文学作家が韻をふんだ台本を書きましたが、プロコフィエフは韻を踏んだ言葉や決まり文句が音楽教育の邪魔になると感じて気に入りませんでした。


そこで「それなら自分で物語を書いてしまおう」と、台本まで自分で作ってしまいました。

「ピーターと狼」は、音楽だけでなく物語もプロコフィエフ自身の作品なのです。 


しかも作曲が猛烈に速く、台本とピアノ・スコア(オーケストラにする前のスケッチ)を数日ほどでまとめます。

その後すぐオーケストレーション(オーケストラで演奏できる楽譜)を完成させています。 


プロコフィエフは単に「鳥だからフルート」というだけではなく、
①登場人物
鳥(フルート)・アヒル(オーボエ)・猫(クラリネット)・お爺さん(ファゴット )・狼(3本ホルン)・狩人の鉄砲場(ティンパニ)
②楽器の音色
③音域
④旋律の動き
⑤性格
にこだわり作曲しました。


これを機会に全曲鑑賞してみてはいかがでしょうかか。

 

今回の動画

 

https://youtu.be/2ADGe8Kgc5M

おはようございます。

おはクラは13年目に入りました。


今までに撮り溜めたプライベート写真から

何枚かをご紹介いたします。


①2015年に愛知県芸術劇場コンサートホールで

行われた第1回おはクラ公録の舞台裏

ちなみに佐井ちゃんはマリーアントワネットを意識しています。


②2016年の収録後の一コマ


③2017年 佐野屋さん

番組が始まった当初で昼に収録が終わり

佐井ちゃんも私もオフだったので

JR鶴舞駅から大曽根まで行き

名古屋でも有名な角打ちの佐野屋さんに出かけ

昼間から呑んだ時の写真


④2017年 初めてスタジオを飛び出して

リュニューアルした地下鉄伏見の地下街

飲みながら収録した時の写真。

(FM愛知社長もいらっしゃいました)



⑤2018年 佐井ちゃんの結婚式の披露宴の一コマ


⑥2019年 佐井ちゃん第一子ご懐妊記念


⑦2025年 学校訪問の際の休憩中


2019年頃までの写真には

「前髪あり」の佐井ちゃんが見られます。


動画に出演し始めてくれた2020年の年末には

現在の髪型に近い「おでこを出した」スタイルに

変わっていました。

どちらもステキですね。


これからも「おはクラ」を

よろしくお願いいたします。

今回の「おはクラ」は、「佐井さんにぜひ聴いてほしいクラシック」をテーマにお送りしました。

その中でご紹介した一曲が、スコットランドの名歌 『アニー・ローリー』です。
放送では時間の都合でお話しできなかった、この曲に秘められた素敵なストーリーをご紹介します。

「アニー・ローリー」は、世界で最も有名なスコットランド歌曲の一つ。

日本でも明治時代から学校教育に取り入れられ、多くの方が一度は耳にしたことのある名曲です。

美しい旋律はもちろんですが、この歌が300年以上も歌い継がれてきた理由は、その背景にある切ない恋物語にあります。


実は、アニー・ローリーは実在した女性です。

1682年、スコットランド南西部の名家・マクスウェルトン家に生まれ、その美しさは広く知られていました。

歌に登場する「マクスウェルトンの丘」も、現在も残る実在の風景です。


17世紀の終わり頃、若き軍人であり詩人でもあったウィリアム・ダグラスは、このアニーに恋をします。

二人は互いに愛し合ったと伝えられていますが、家柄や政治的な事情から結婚は許されず、悲しい別れを迎えます。

その叶わぬ恋への思いを詩にしたものが、「アニー・ローリー」の原点となりました。


ところが、現在私たちが耳にする美しいメロディーは、その当時のものではありません。

約150年後の1834~1835年頃、スコットランドの作曲家・詩人レディ・ジョン・スコットがこの詩に感動し、新たな旋律を作曲します。

さらに歌詞にも手を加え、第3節を書き加えました。

つまり今日歌われている「アニー・ローリー」は、17世紀の恋物語と19世紀の音楽が結びついて生まれた作品なのです。


歌詞には、恋人への限りない愛がスコットランドの美しい自然とともに描かれています。

「朝露に輝くマクスウェルトンの丘」「雪のように白い額」「白鳥のように美しい首」「夏風のように優しい声」──こうした詩的な表現は、恋する人の姿を自然の美しさに重ね合わせています。

そして最後には、「愛するアニー・ローリーのためなら命も惜しまない」という、一途な愛が歌われています。


この歌が世界中に広まるきっかけとなったのは、19世紀半ばのクリミア戦争でした。

故郷を離れたイギリス兵たちが、この歌を口ずさみながら故郷や愛する人を思い続けたのです。

その後、第一次・第二次世界大戦でも兵士たちの愛唱歌となり、「故郷」と「愛する人」を思い起こさせる歌として世界中に広まりました。


日本には明治時代に伝わり、西洋音楽教育の教材として採用されます。

当時の文部省は、歌いやすく美しい旋律、そして品格ある内容が教育にふさわしいと考えました。

日本語の訳詞も作られ、恋愛色を抑えながらも郷愁を感じさせる歌として、多くの子どもたちが歌うようになります。

そのため、今でも「スコットランド民謡」として親しまれています。


音楽的にも魅力がたくさんあります。

素朴で覚えやすい旋律、ゆったりとした流れ、無理のない音域。

だからこそ独唱にも合唱にも親しまれ、さまざまな楽器で演奏され続けています。

何よりも、このメロディーにはスコットランド特有の哀愁が漂い、一度聴くと心に深く残ります。


「アニー・ローリー」は、単なる民謡ではありません。

実在した女性への純粋な愛、スコットランドの雄大な自然、そして故郷への限りない思いが込められた、永遠のラブソングなのです。

 

今回の動画

https://youtu.be/4_U4bNP7JU0

2014年8月2日にスタートした「ダイドー おは・クラ・サタデー with セントラル愛知交響楽団」。

本日の放送で、おかげさまで12周年を迎えることができました!
そこで第1回から第20回までの放送内容を振り返ってみます。

🎼 No.1 モーツァルト vs ベートーヴェン
(「フィガロの結婚」序曲、「フィデリオ」序曲 ほか)

🎼 No.2 モーツァルト
(「レクイエム」より、「尻を舐めろよ」ほか)

🎼 No.3 ベートーヴェン
(「エリーゼのために」、「運命」ほか)

🎼 No.4 バッハ
(「主よ、人の望みの喜びよ」ほか)

🎼 No.5 ヘンデル
(「私を泣かせてください」ほか)

🎼 No.6 シューベルト
(「魔王」、「野ばら」ほか)

🎼 No.7 日本人作曲家
(「ゴジラ」、「大河ドラマ『武田信玄』」ほか)

🎼 No.8 ワーグナー
(「結婚行進曲」、「ワルキューレの騎行」ほか)

🎼 No.9 ブラームス
(交響曲第1番、「ハンガリー舞曲第5番」ほか)

🎼 No.10 シューマン
(「トロイメライ」ほか)

🎼 No.11 ドヴォルザーク
(交響曲第9番《新世界より》)

🎼 No.12 エルガー
(「愛の挨拶」、「威風堂々」ほか)

🎼 No.13 ホルスト
(組曲《惑星》)

🎼 No.14 リスト
(ピアノ協奏曲第1番、「愛の夢」、「ハンガリー狂詩曲」ほか)

🎼 No.15 ショパン
(「別れの曲」、「夜想曲」、「子犬のワルツ」ほか)

🎼 No.16 ドビュッシー
(「月の光」、「アラベスク第1番」ほか)

🎼 No.17 メンデルスゾーン
(「春の歌」、「歌の翼に」ほか)

🎼 No.18~20 ベートーヴェン
(交響曲第9番《第九》を3週連続で特集)

これは2014年12月13日までの放送内容です。
ちなみに、12月20日は「くるみ割り人形」、12月27日はニューイヤーコンサート予習としてウィンナ・ワルツを特集しました。

13年目を迎えた「おはクラ」。
初心に帰り、さらにパワーアップしてクラシック音楽の魅力をお届けしてまいります。

これからもどうぞよろしくお願いいたします!

 

今回の動画

https://youtu.be/-J8teMKmOuU

今回はモーツァルトの父レオポルト がモーツァルトに与えた影響を考察します。
レオポルト・モーツァルトがアマデウスに与えた音楽教育(年代順)を並べてみました。

* 1759年(3歳頃)
    * 姉ナンネルのために「ナンネル音楽帳(Nannerl Notenbuch)」を作成。
    * アマデウスは姉のレッスンを横で見聞きしながら自然に音楽へ親しむ。


* 1760年(4歳頃)
    * クラヴィーア(チェンバロ)の正式な指導開始。
    * 短いメヌエットや舞曲を暗譜し、耳で覚えて演奏する訓練。
    * 音感・記憶力を育てる教育を重視。


* 1761年(5歳)
    * 初めての作曲指導。
    * レオポルトが口述筆記する形で最初の作品(K.1)が誕生。
    * 「旋律を作る」「楽譜を書く」ことを学ぶ。


* 1762年(6歳)
    * ヴァイオリン教育を本格化。
    * 正しい弓使い・運弓・音程・歌うような演奏法を指導。
    * 自作の教育理論『ヴァイオリン奏法試論の理念を実践しました。


* 1762~1763年
    * 宮廷での演奏経験を積ませる。
    * 「舞台で弾く」「聴衆に伝える」演奏術を教える。
    * 即興演奏能力を伸ばす。


* 1763~1766年(ヨーロッパ大旅行)
    * 最大の音楽教育期間。
    * ドイツ・フランス・イギリス・オランダなど各地で当代一流の音楽家に会わせる。
    * 各国の音楽様式を実地で学ばせる。
    * J.C.バッハなどの音楽からギャラント様式を吸収させた。


* 1764~1765年(ロンドン)
    * ソナタ形式や交響曲の書法を学ばせる。
    * J.C.バッハとの交流を通じて、旋律美や形式感覚を身につける。


* 1766~1768年
    * 作曲技法を段階的に高度化。
    * ソナタ、交響曲、宗教音楽を書かせる。
    * 自作品を父が細かく添削・批評した。


* 1769~1773年(イタリア旅行)
    * オペラ教育を開始。
    * イタリア・オペラ、ベルカント唱法、劇的表現を吸収。
    * オペラ作曲家としての基礎を築く。


* 1770年頃(14歳)
    * 対位法教育を強化。
    * 古典的作曲技法、教会音楽、フーガなどを学ばせる。
    * より高度な作曲理論へ進む。


* 1770年代前半
    * 演奏だけでなく「良い音楽」と「悪い音楽」を見極める審美眼を養成。
    * 優れた作曲家は積極的に研究させ、低俗な作品には厳しい批判を加えるよう指導した。


* 1773年以降
    * 芸術家としての自立を促す一方で、作品には厳しい批評を続ける。
    * 作曲だけでなく、演奏・教育・礼儀・語学・教養まで含めた総合教育を行った。


レオポルトが最も重視した教育の柱は
* 耳を育てる(優れた音楽を数多く聴かせる)
* 技術を磨く(クラヴィーア・ヴァイオリン・即興)
* 作曲を学ぶ(幼少期から作品を書かせる)
* 世界を見る(演奏旅行による実地教育)
* 人間教育(語学・礼儀・読書・宗教・一般教養)


モーツァルトは幼い頃から各国の音楽様式を自在に吸収し、それらを自らの作品の中で見事に融合させることができました。
もしモーツァルトがレオポルト の子供でなければどうなっていたでしょう?

 

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