マーシー山本教授のゆるゆるクラシック日記

マーシー山本教授のゆるゆるクラシック日記

マーシー山本のお仕事の報告やクラシック音楽の豆知識をお届けします。

皆さん、明けましておめでとうございます。
今年最初のおはクラの放送になります。

今年1年もよろしくお願い致します。

 

今回は1/1に行われたウィーンフィルニューイヤーコンサートについてまとめてみたいと思います。
第1部
    1.    ヨハン・シュトラウス2世:序曲《インディゴと40人の盗賊》
    2.    カール・ミヒャエル・ツィーラー:ワルツ 「ドナウの伝説」
    3.    ヨーゼフ・ランナー:ギャロップ 「マラプー」
    4.    エドゥアルト・シュトラウス:ポルカ 「ブラウステウフェルヒェン」
    5.    ヨハン・シュトラウス2世:《こうもり》カドリーユ
    6.    ヨハン・シュトラウス1世:ギャロップ 「パリの謝肉祭」

第2部
    7.    フランツ・フォン・スッペ:序曲《美しきガラテア》
    8.    ヨゼフィーネ・ヴァインリッヒ:ポルカ=マズルカ 「セイレーンの歌」 (初演)
    9.    ヨーゼフ・シュトラウス:ワルツ 「女性の真価」
    10.    ヨハン・シュトラウス2世:ポルカ 「外交官」
    11.    フローレンス・プライス:レインボー・ワルツ(Rainbow Waltz) (初演)
    12.    ハンス・クリスチャン・ロンビ: コペンハーゲン蒸気鉄道ギャロップ
    13.    ヨハン・シュトラウス2世:ワルツ 「南国のバラ」
    14.    ヨハン・シュトラウス2世:エジプト行進曲
    15.    ヨーゼフ・シュトラウス:ワルツ 「平和の棕櫚の葉」

アンコール
    •    フィリップ・ファールバッハⅡ:ポルカ 「サーカス」 (アンコール)
    •    ヨハン・シュトラウス2世:ワルツ 「美しく青きドナウ」
    •    ヨハン・シュトラウス1世:ラデツキー行進曲


●特徴・聴きどころ
伝統的なシュトラウス一家のワルツ&ポルカに加え、5〜6曲ものニューイヤー初演作品が登場しました。
特に、女性作曲家の作品が2曲(ヴァインリッヒ、プライス)含まれた点が大きな話題となりました。

これは同コンサートで女性作曲家を複数扱うのは極めて珍しい試みです。 


また、アフリカ系米国人の作曲家フローレンス・プライスのワルツは今回の大きなハイライトで、国際的にも高い評価を得ました。 


●全体の感想は
ネゼ=セガンの指揮はエネルギッシュで新鮮な感性と評され、伝統を守りつつ現代的なダイナミズムを作品に吹き込みました。
一部の演出面や構成に「個性的すぎる」「伝統からの逸脱」する傾向でしたが全体としては「活気と希望に満ちた演奏」として好感がもてました。
伝統的なウィーン舞曲に加えて、「平和」「多様性」「共感」を象徴する選曲が意識されたプログラム構成で特に最後のワルツ 「平和の棕櫚の葉」 は、世界に向けての平和への祈りとして象徴的でした。


皆さんは1/1の夜、ご覧になりましたか?

 

今回の動画

https://youtu.be/g_F42bVS47o

今回は2025年最後の放送でした。

今年はショパン国際ピアノコンクールがありましたので、コンクールで使われたピアノについてお話しします。

2025年10月2日から20日まで、ポーランド・ワルシャワの国立フィルハーモニーを舞台に、第19回ショパン国際ピアノコンクールが開催されました。

バロックや現代曲ではなく、ショパン作品のみを演奏するこの世界最高峰のピアノコンクールは、5年ごとに行われ、世界各国の精鋭ピアニストが集います。

 

今回は162名が予備審査を通過し、66名が本選に進出。

第一ラウンドから熾烈な競争が繰り広げられました。 


コンクール参加者は、自身の演奏を最大限に引き出すため、どのグランドピアノを選ぶかという重大な決断を迫られます。

2025年大会でも、出場者はSteinway & Sons(スタインウェイ)、Shigeru Kawai(カワイ/シゲルカワイ)、Fazioli(ファツィオリ)、Yamaha(ヤマハ)、そしてC. Bechstein(ベヒシュタイン)という5ブランドから選択可能でした。 


今大会の上位入賞者について、メーカー側発信や現地レポート等で「使用ピアノ」が比較的はっきりしているものをまとめると、次の構図が浮かびます。


    •    第1位:Eric Lu(エリック・ルー)— Fazioli
スペイン紙の報道では、ルーはより“飛び”を狙ってファツィオリを選んだとされています。 


    •    第2位:Kevin Chen(ケヴィン・チェン)— Steinway
現地記事・レポートでスタインウェイ使用として言及があります。 


    •    第3位:Zitong Wang(ワン・ズートン)— Shigeru Kawai(SK-EX)
シゲルカワイ公式が「第3位がSK-EXを選択」と明記しています。 


    •    第5位(同時):Piotr Alexewicz/Vincent Ong — Shigeru Kawai(SK-EX)
同じく公式発表で、両者がSK-EX選択とされています。 


今大会で面白いのは、いわゆる弦切れや鍵盤故障のような派手な事故よりも、“選定の緊張”そのものがハプニング級にスリリングだった点だったようです。


1) 試奏・決定が短時間で、取り返しがきかない
メーカー側の解説記事では、出場者が複数ブランドから選ぶにあたり、試奏に与えられる時間が非常に短いことが強調されています(「短時間で決める」こと自体がプレッシャー)。 


そのため、
    •    「安全牌=弾き慣れたスタインウェイ」
    •    「音色の個性に賭けてファツィオリ/シゲルカワイ」
    •    「ホールでの投射や透明感を狙ってベヒシュタイン」
といった“戦略”が生まれ、しかもラウンドが進むほど判断がシビアになります。 

2) 結果が「必ずしも多数派ピアノ=上位」にならない
外部レポートでは、ラウンド初期はスタインウェイが多数派になりがち、という観測も出ています。 
一方で最終的には、優勝がファツィオリ(報道ベース)、上位にシゲルカワイ勢が複数、という構図。
「多数派=勝ち」ではないことが際立ちました。 


3) 審査が大接戦で、議論が長引いた
今大会は、審査団の議論が長く難航したことが報じられています。 
「明確な本命不在」「最後まで評価が割れた」という空気の中では、なおさら“音の出方=ピアノ”が話題になりやすく、SNSでも「同じ曲でもピアノで別物に聴こえる」という議論が増幅しました。


2025年は「決勝でポロネーズ=幻想曲Op.61が課される」など、課題の置き方でも注目を集めました。大規模ホールで、この作品の和声の陰影・低音の芯・ppの伸びをどう届けるかは、タッチだけでなくピアノのキャラクターにも絡みます。 
だからこそ、第1位のルーが“より投射のため”にファツィオリを選んだという報道は、単なるメーカー話ではなく、作品解釈の延長として読めるのが面白いところです。 
 

今回の動画

今回は2026年1月4日に愛知県碧南市のエメラルドホールで行われるニューイヤーコンサートについての告知です。

新しい年の幕開けを、オーケストラの華やかな響きとともに迎えてみませんか。
2026年1月4日(日)、碧南市芸術文化ホール・エメラルドホールにて「ニューイヤーオーケストラコンサート あけましてオーケストラがやってくる!」を開催いたします。

今年は新年のお祝いにふさわしく、エメラルドホールに本格的なオーケストラが登場。

年の始まりを音楽で寿ぐ、家族みんなで楽しめるニューイヤーコンサートです。

演奏はセントラル愛知交響楽団。

指揮には躍動感あふれる音楽づくりに定評のある柴田祥を迎え、さらに透明感と華やかさを併せ持つソプラノ歌手・松永萌が出演します。

そしてナビゲーターには私、マーシー山本教授が登場します。

クラシックの名曲を、笑いと驚き、そして深い音楽愛で包み込み、初めての方にも思わずうなずいてしまう“爆笑ナビゲート”で会場を盛り上げます。

第1部は「有名曲オンパレード編」。

クラシックに詳しくない方でも一度は耳にしたことのある名曲が並びます。

ベートーヴェンの交響曲第5番《運命》のあの有名な冒頭、モーツァルト《フィガロの結婚》の華やかな音楽、そしてお正月に欠かせない宮城道雄《春の海》。

西洋と日本の名曲が一堂に会し、新年にふさわしい晴れやかな音楽絵巻を描き出します。

マーシー山本教授の軽快なトークとともに聴けば、「知っているつもり」の名曲が、ぐっと身近で新鮮に感じられるはずです。

第2部は「ウィーン・フィル ニューイヤー編」。

世界中の音楽ファンが毎年心待ちにするウィーン・フィルのニューイヤーコンサートをイメージし、ヨハン・シュトラウス2世の名作をお届けします。

《トリッチ・トラッチ・ポルカ》の軽快なリズム、《美しく青きドナウ》の優雅な流れ、そしてソプラノ独唱が華を添える《春の声》。

新年ならではのきらびやかで幸福感あふれる音楽が、会場いっぱいに広がります。

クラシック初心者から音楽通の方まで、年齢を問わず楽しめるこのコンサートは、「新年にまず一本、いい音楽を聴こう」という方にぴったりの一日です。

笑って、聴いて、ちょっと賢くなって、そして心が温かくなる——そんなニューイヤーの午後を、マーシー山本教授とともにお過ごしください。


2026年のはじまりは、オーケストラと一緒に。芸文ホールで、皆さまのお越しをお待ちしております。

 

今回の動画

https://youtu.be/xVYTkJ_JR5Q

ラフマニノフ作曲《交響的舞曲》とサクソフォンの関係について説明いたします。

 

ラフマニノフ作曲《交響的舞曲》(1940年)にサクソフォンが用いられている理由は、単なる珍しさや流行ではなく、作品の性格や作曲家の晩年の精神状態と深く関係しています。


まず、音色上の必然性が挙げられます。

サクソフォンは第1楽章の中間部で、非常に印象的な旋律を受け持ちますが、その音色は木管楽器とも金管楽器とも異なり、柔らかく、どこか陰影を帯びた「人の声に近い響き」を持っています。

この旋律には、回想や郷愁、孤独感といった感情が込められており、クラリネットでは明るすぎ、オーボエでは鋭すぎるため、サクソフォンの持つ中間的で歌うような音色が最もふさわしかった言われています。


次に作曲された時代と場所の影響です。

《交響的舞曲》はラフマニノフがアメリカ亡命後、晩年に完成させた作品です。

当時のアメリカでは、サクソフォンはクラシック音楽に限らず、ジャズやポピュラー音楽の分野で広く使われていました。

ラフマニノフ自身はジャズ的な語法を積極的に取り入れた作曲家ではありませんが、新大陸の音楽文化に触れる中で、サクソフォンという楽器の表現力に注目したからです。

 

今回の動画

https://youtu.be/ELdNETxjZko

今回は、R.シュトラウスが晩年に書いた2つの協奏曲、オーボエ協奏曲 ニ長調(1945)と、ホルン協奏曲第2番 変ホ長調(1942〜43完成 / 1950初演)について語ります。

いずれも 80歳前後のシュトラウスが、混乱の時代に見せた“優雅な晩年” を象徴する名作です。


◉オーボエ協奏曲は、アメリカ兵の一言から生まれた…

第二次世界大戦終戦直後、ガルミッシュの自宅に滞在していたシュトラウスをアメリカ軍楽隊の若いオーボエ奏者ジョン・デ・ランシーが訪ねた時、「あなたは80曲以上も作ってきたのに一度もオーボエ協奏曲を書いていませんね」と言って書き上げたのがオーボエ協奏曲です。


しかし、シュトラウスは出来上がっても特に連絡はせず、デ・ランシーが楽譜出版で存在を知るまで知らなかったということです。

その後デ・ランシーはフィラデルフィア管の首席オーボエ奏者となり、念願の録音も果たしました。まさに運命のエピソードです。


◉ホルン協奏曲第2番
シュトラウスは生涯ホルンが大好きでした。
なぜならば、父親はミュンヘン宮廷歌劇場の名ホルン奏者でした。シュトラウス自身、幼少期からホルンの音に囲まれて育ちました。
初期の傑作に第1番ホルン協奏曲(1883)があります。

第2番はそれから60年後の晩年の作品です。


序奏からすぐにホルンが高らかに歌い始め、若き日の自分に語りかけるような音楽です。
初演は作曲から7年後の1942〜43年頃に作曲されたにもかかわらず、戦況悪化のため 初演は1950年(作曲者死後)でした。
シュトラウスの死から半年後デニス・ブレインの独奏によって世に出て、作品が評価されます。

 

今回の動画

https://youtu.be/UUa0tJLBVDM

ベートーヴェンが唯一のオペラ《フィデリオ》(初期は《レオノーレ》)のために、4種類もの序曲を書いたことはよく知られていますが、その理由は音楽的要因だけではなく、上演状況の変化、ドラマとの整合性、ベートーヴェン自身の美学的葛藤など、複数の事情が複雑に絡み合っています。以下では、それぞれの背景と、なぜ「一つに決められなかったのか」を丁寧にご説明します。

■オペラ自体が大幅な改訂を繰り返したため
まず第一の理由は、オペラ《レオノーレ/フィデリオ》そのものが1805年初演から1814年の決定稿まで、3度の大改訂を受けたことです。

ベートーヴェンはこの作品に非常に強い思い入れを持っていた反面、初演では観客の反応が芳しくなく、また脚本や構成にも自ら不満を募らせていました。

彼は初演後も「もっと良い形があるはずだ」と考え続け、劇のテンポ、登場人物の扱い、場面構成を再検討し、そのたびに音楽を大幅に書き換えました。

このように、オペラ自体が変われば、当然ながら序曲もそれに合わせて書き換える必要が出てきます。

序曲は作品全体の“入口”であり、その性格が劇の内容と乖離してしまうと、観客に誤った印象を与える危険があるからです。

■序曲が壮大すぎて、舞台の進行と合わなかったため
第二の理由は、ベートーヴェンの性質として、序曲を単なる「導入」に留めず、交響詩のように劇的・交響的な作品として完成させてしまう傾向があったことです。
特に《レオノーレ序曲第2番》と《第3番》は、オペラの核心である「暗黒の牢獄」「レオノーレの決意」「トランペット信号による救出」「解放の歓喜」といった重要なモチーフを壮大に描き切ってしまっています。

このため、序曲だけで劇的クライマックスを描き尽くしてしまい、幕が開いた瞬間にはすでに物語の山場を体験したような印象を観客に与えてしまいました。

とりわけ《第3番》は音楽単体としては圧倒的傑作ですが、オペラの序曲としては「強すぎる」ため、劇全体の呼吸が乱れてしまうという問題がありました。

■劇場事情・客層の違いに合わせた調整の必要性
第三の理由には、当時の劇場事情があります。

1810年前後のウィーンでは、劇場規模、観客の層、上演条件が一定ではなく、特定の場に最適化した音楽が他の場では重すぎたり、難しすぎたりすることがありました。

そのため、ベートーヴェンはより演奏しやすく、場の空気にも溶け込みやすい序曲として、比較的軽やかな《レオノーレ序曲第1番》を作る必要が生じました。

これは劇場側の要望や実務上の事情が背景にあったと考えられています。

■最終的に《フィデリオ序曲》が採用された理由
1814年の最終改訂版《フィデリオ》において、ベートーヴェンは前述の交響的なレオノーレ序曲群をすべて退け、新しくより簡潔な《フィデリオ序曲》を採用しました。
その理由は明確で、
 • 序曲は劇的核心を先に描くべきではない
 • 舞台のテンポを乱さず、物語が自然に始まるための“前奏”に徹するべきである
という演劇的観点を優先したためです。

つまり、ベートーヴェンは最終的に「序曲は交響曲のように壮大である必要はない」と判断し、劇場として最も機能的な形に落ち着いたというわけです。

 

今回の動画

https://youtu.be/iF-eqoNkaxI

今回はハイドン最後の交響曲第104番についてお話しします。

ヨーゼフ・ハイドン(1732–1809)の《交響曲第104番「ロンドン」》は、1795年にロンドンで初演された、彼の最後の交響曲です。

単に「104番目の交響曲」という枠を越えて、長年宮廷音楽の第一線で磨き上げてきた技法、そしてロンドンの音楽環境から受けた新たな刺激が結実した、古典派交響曲の到達点として高く評価されています。

ハイドンがロンドンへ招かれたのは1791年のことです。エステルハージ家の宮廷楽団縮小によって、長年務めた職務から解放され、そこへ興行師ヨハン・ペーター・ザロモンが「ぜひロンドンへ来てほしい」と声をかけました。

60歳を超えた作曲家が海を越えて大都市ロンドンへ向かうことは、大きな決断であったはずです。

しかし現地では、好奇心旺盛で熱気に満ちたロンドンの聴衆が彼を迎え、その熱狂はハイドンに強い刺激を与えました。

こうして誕生した後期交響曲群が、いわゆる「ザロモン・セット」であり、第104番はその掉尾を飾る作品です。

この作品は第二次ロンドン滞在中(1794〜95)に作曲され、1795年5月4日、キングズ・シアターでハイドン自身の指揮により初演されました。

初演は大成功で、ハイドンは日記に「これほどの喝采は生涯で初めてだった」と記しています。

円熟した作曲技法と、都市のエネルギーが完璧に噛み合った時期の成果と言えます。

第一楽章は、重厚なユニゾンによる劇的な序奏で始まります。

この“ユニゾン序奏”は当時のロンドンで非常に好まれ、ハイドンはその効果を熟知していました。

主部では軽快な音楽に転じ、厳格なソナタ形式の中にハイドンらしい機知と柔軟な構成感が生きています。

宮廷音楽で鍛えた緻密さと、大規模な公開演奏会の華やかさが見事に融合しています。

第二楽章アンダンテは、弦楽器の柔らかな響きを基調にした穏やかな楽章で、変奏曲的な構成と装飾の妙味が味わえます。

初演当時、この静かな美しさは聴衆に格別の印象を残したと言われています。

第三楽章メヌエットは、堂々とした歩みを思わせる力強い主題が特徴で、ウィーン風の舞曲というよりは、公共の場にふさわしい“コンサート用メヌエット”と呼べる風格を備えています。

一方、トリオ部分には自然の息遣いを感じさせる素朴さがあり、ハイドン本来の親しみやすい感性が表れています。

第四楽章フィナーレは、本作の中でも特に親しまれている楽章です。

フォーク風の主題を採り入れ、素朴さと精巧な構成力が同居する音楽が展開します。

主題の元となった旋律にはクロアチア民謡起源説もあり、民族的な明るさが生き生きと響きます。

推進力のあるリズム、透明感のある対位法、楽器同士の掛け合いなど、ハイドン晩年の創造力の高さが存分に発揮された結末となっています。

「ロンドン」という愛称は後年に付けられたものですが、この作品がロンドンの文化的背景と聴衆の熱狂の中で育まれたことを象徴しています。

古典派交響曲をほぼ独力で築き上げたハイドンが、60代にしてなお革新性を保ち続けた証であり、後のベートーヴェンにも大きな影響を与えた重要な作品です。

 

今回の動画

https://youtu.be/ElSjQiwrfaM

今回はハイドン作曲交響曲第103番「太鼓連打」について語ります。

フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732–1809)が晩年に作曲した《交響曲第103番変ホ長調》は、いわゆる「ロンドン交響曲」群の一つに属します。

1795年のロンドン滞在中に初演されました。

 

ハイドンが61歳の時で、作曲家として円熟期に達した彼が、当時のロンドンの熱狂的な音楽市場に応えるべく創意とユーモア、そして構築美を結集した作品です。

この曲は冒頭の印象的なティンパニの連打に由来して「太鼓連打(Drumroll)」という愛称で親しまれています。


この「太鼓連打」は、古典派交響曲の冒頭における特殊効果としては極めて斬新であり、聴衆の耳を一瞬にして引きつけます。

ティンパニは当時まだ音程が簡単に変えられず、現代のように自由に調律できる装置もありませんでした。

それでもハイドンは大胆な長いロール(連打)を指示して、重々しい期待感を醸成した。

さらに背後で響く低弦による荘厳な序奏に続き、主部では一転して明朗で快活な変ホ長調のテーマが立ち上がります。

この対比が、作品全体のエネルギーと構築性を象徴しています。

第2楽章(アンダンテ・ピウ・トスト・アレグレット)は変奏曲形式で、民謡的な素朴さと洗練されたオーケストレーションが特徴です。

特に、ハイドンが得意とした陰影豊かな和声進行や、木管群の繊細な彩りが光る楽章です。

のちのブラームスやマーラーが敬愛した「ハイドンの精神」がここに見て取れるます。


第3楽章のメヌエットは堂々とした舞曲ですが、トリオ部(中間部)では田園的な素朴さが漂い、ホルンの牧歌的な旋律が印象的です。

都市ロンドンの華やかさと、ハイドンが生涯愛した郷愁的な田園性がこの楽章に美しく同居します。


終楽章はハイドンらしい快活なエネルギーに満ち、民俗舞曲的な主題をもとにしたロンド形式です。

ここで注目すべきは、冒頭動機が実はクロアチア民謡に基づくとされています。

ハイドンがハンガリーやクロアチア民俗音楽の影響を受けていたことは広く知られていますが、晩年においてもその源泉を巧みに取り入れ、普遍的な交響曲美学へと昇華していることがわかります。

《太鼓連打》の初演は大成功を収め、ハイドンはロンドンで“交響曲の父”としての名声を不動のものとしました。

聴衆は冒頭のティンパニに驚き、終楽章では喝采が鳴り止まなかったと言われます。

 

本作は単なる奇抜さではなく、古典派交響曲の最終期を象徴する円熟と革新の結晶であり、のちのベートーヴェンにも影響を与えた。ベートーヴェン《第九》冒頭の神秘的なトレモロにハイドンの“影”を見ることは興味深いですね。

今日においても、「太鼓連打」はオーケストラの定番レパートリーとして世界中で演奏され続けています。

ユーモア、荘厳さ、民俗的素朴さ、構築美—これらを高度なレベルで融合させた本作は、ハイドンの偉大さを感じさせると同時に、交響曲というジャンルの成熟を雄弁に語る傑作です。

 

今回の動画

https://youtu.be/aPZeK7tONbY

今回はアメリカの作曲家ハワード・ハンソン1896–1981)と、サミュエル・バーバー(1910–1981)の関係とエピソードをご紹介します。


■ 関係:同時代のアメリカ音楽を支えた「先輩と期待の若手」
二人は直接の師弟関係ではありませんが、アメリカ音楽の確立期を担った作曲家仲間です。
ハンソンはより年上の世代で、ロマン主義的な響きを持つ“アメリカ抒情派”の代表。
バーバーはその次の世代で、モダンでありながら歌心を大切にした“新ロマン派”。
両者とも欧州に留学して古典的技法を身につけつつ、アメリカ独自の抒情美を目指した点で共通します。


■ エピソード1:ハンソンはバーバーを“未来の星”と認めていた
ハンソンはイーストマン音楽学校の校長としてアメリカ作曲家の育成に人生を捧げました。
その中で、若い作曲家バーバーの才能を高く評価し、彼の作品を重視したプログラミングを行っています。
ハンソンはしばしばバーバーの作品を紹介し、アメリカ音楽の希望の一つとして扱ったと記録されています。


■ エピソード2:ハンソンがロイヤル・フィルでバーバーを紹介する(1950年)
1950年、ハンソンはロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団を指揮した際、自作「交響曲第2番」のほか、バーバー作品もプログラムに採用。
これは当時、欧州音楽中心だった国際舞台でアメリカ新音楽を認めてもらうための戦略的な紹介でした。


■ エピソード3:冷静沈着 vs 内省的ロマン派
    •    ハンソン
    •    大らかで推進力あるサウンド、北欧風ロマンティシズム
    •    教育者・組織者としての役割が大きい
    •    バーバー
    •    繊細で内向的な抒情性、より感情の陰影が深い
    •    「アダージョ」「ノックスヴィル」など心に響く作品多数


ハンソンは「アメリカ音楽の外へ広げる力」
バーバーは「アメリカ音楽を内面に深める力」
という対照的な役割とも言えます。
 

今回の動画

https://youtu.be/X2s8yri9MCU

今回はラフマニノフ作曲のピアノ 協奏曲第3番についてお話しします。

ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番ニ短調 作品30は、1909年に作曲された彼の円熟期を象徴する作品です。

同時に「ピアニスト・ラフマニノフ」の名を世界に決定的に知らしめた作品でもあります。

その誕生には、芸術的挑戦と、アメリカへの旅立ちという現実的背景が密接に結びついていました。


●創作のきっかけはアメリカからの招待
1909年、ラフマニノフは36歳。指揮者としても作曲家としても名声を得ていましたが、経済的には決して安定していませんでした。

そんな彼に、アメリカでの演奏ツアーの招待が届きます。

演奏会の多くは自作を含むプログラムを希望されており、彼はこの機会に新しいピアノ協奏曲を携えて渡米することを決意します。

こうして生まれたのが《ピアノ協奏曲第3番》です。


当時、ラフマニノフは「ピアノ協奏曲第2番」(1901年)の成功によって国民的作曲家としての地位を確立していました。

しかしその名作の陰で、「もっとピアニスティックに、そして精神的にも深い作品を」という思いが募っていました。
ラフマニノフは1909年の夏、モスクワ郊外の別荘「イワノフカ」にこもり、わずか数週間でこの超大作を完成させました。

 

彼は日記の中でこう記しています。
「アメリカ行きのための新しい協奏曲を作っている。時間がないが、筆は驚くほど自然に進む。」
その作曲スタイルは、ピアノの鍵盤に向かうよりも「心の中で音を聴きながら書く」タイプの彼らしいものでした。

出発の忙しさの中、練習時間も限られていたため、アメリカ行きの船上ではなんと「サイレント・ピアノ」を使って指の動きだけで練習していたと伝えられています。

海を越える途中、波の音を聞きながら無音で鍵盤を叩く姿は、この作品の異様な集中力と精神性を象徴しているかのようです。


●初演とアメリカでの試練
初演は1909年11月28日、ニューヨークのノヴェロ・ホールにて。指揮はウォルター・ダムロッシュ、ピアノはもちろん作曲者自身でした。
初演の反応は決して良くありませんでした。

聴衆はその技巧的難易度に驚き、評論家の中には「過剰に複雑すぎる」「理解に時間がかかる」と評する者もいました。

しかし数週間後、同じニューヨークでマーラー指揮による再演が行われると、評価は一変します。

その理由は、マーラーはこの難曲を真剣にリハーサルし、オーケストラを細部まで磨き上げたことで、作品の壮大な構造と精神的深みが初めて正当に伝わったのです。


のちに、ラフマニノフ自身が下記のように語っています。
「マーラーは私の協奏曲を完全に理解してくれた唯一の指揮者だった。」
この第3番は「世界で最も難しいピアノ協奏曲」と称されることもあります。

右手はオクターブの大跳躍が連続し、左手はほとんど休むことがありません。

特に第1楽章カデンツァには2種類の版(オリジナルと拡大版)があり、どちらも桁外れの技巧を要求します。

 

だがラフマニノフ自身は単に「難しい曲」を書いたのではありません。
「私は指のためにではなく、心のために書いた。」と述べています。

 

技巧は目的ではなく、音楽の流れと感情を実現する手段だったのです。
彼にとって、この曲は単なるコンサート・ピースではなく、「魂の独白」であり、「神への問いかけ」でもありました。
当時は理解されにくかった第3番も、20世紀半ばになると次第に“ラフマニノフ芸術の頂点”として再評価されます。

 

その転機をもたらしたのが、ウラディミール・ホロヴィッツの演奏でした。

ラフマニノフ自身が彼の演奏を聴いて「まるで自分が弾いているようだ」と絶賛したというエピソードは有名です。

以後、この作品は「ラフマニノフの魂を継ぐ者」の試金石として、多くのピアニストたちに挑戦され続けています。


ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番は、単なるヴィルトゥオーゾ的作品ではなく、彼が「祖国ロシア」「芸術への信念」「自己の限界」と向き合った結果として生まれた“祈りの音楽”です。
その重厚な和声、果てしなく広がる旋律、そして孤独と希望が交錯する終結部には、彼の芸術観が凝縮されています。

異国での成功を夢見た作曲家が、ピアノという“声”を通して自らの存在を証明しようとした瞬間――それが《ピアノ協奏曲第3番》なのです。

 

今回の動画

https://youtu.be/T8DjanlJRSs