今回はチャイコフスキー作曲、交響曲第4番が作曲された時期について語ります。
チャイコフスキーが1877年に完成させた交響曲第4番ヘ短調 作品36は、彼の人生の中でも最も激動の時期に書かれた作品です。
この交響曲を理解するためには、「結婚」と「メック夫人」という二つの出来事を抜きに語ることはできません。
まさにこの二つが、作品の精神的背景を形作っているのです。
1877年、チャイコフスキーはモスクワ音楽院で作曲を教えていました。
その頃、彼はある女性から熱烈な手紙を受け取ります。
差出人は元教え子のアントニーナ・ミリューコワでした。
彼女はチャイコフスキーに深く恋をしており、「あなたを愛しています。結婚していただけなければ私は死んでしまいます」といった激しい内容の手紙を送り続けます。
当時のチャイコフスキーは、社会的な孤独と精神的な不安に悩んでいました。
さらに、彼は自分の同性愛的傾向を隠さなければならないという強いプレッシャーも感じていました。
そのため、社会的体裁を保つための結婚という考えが頭をよぎります。
そして1877年7月、彼はほとんど愛情のないままミリューコワと結婚してしまうのです。
しかし、この結婚はすぐに破綻します。
結婚生活はわずか数週間で耐えがたいものとなり、チャイコフスキーは精神的に追い詰められてしまいました。
あまりの苦しさに、モスクワ川に入水して自殺を図ろうとしたとも言われています。
結局、彼は妻と別居し、その後二人は事実上の離婚状態になります。
この結婚は彼に深い精神的打撃を与えました。
ところが、この絶望的な時期に彼を救った人物がいました。
それがナジェジダ・フォン・メック夫人です。
彼女は大富豪の未亡人で、音楽をこよなく愛するパトロンでした。
メック夫人はチャイコフスキーの音楽に心酔し、1876年から彼に多額の年金を送り続けるようになります。
その額は年間6000ルーブルとも言われ、これは当時の作曲家にとって非常に大きな援助でした。
この支援によって、チャイコフスキーは音楽院の職を辞め、作曲に専念することができるようになります。
メック夫人とチャイコフスキーの関係は非常に特別なものでした。
二人はおよそ14年間にわたって手紙をやり取りし、その数は1200通以上にも及びます。
しかし、二人は「決して直接会わない」という奇妙な約束を守り続けました。
偶然顔を合わせそうになると、お互いに避けたとも言われています。
精神的には非常に親密でありながら、現実には距離を保つという不思議な関係でした。
チャイコフスキーは交響曲第4番をメック夫人に献呈しています。
彼はこの作品について手紙の中で詳しく説明しており、冒頭の金管楽器による強烈な動機を「運命」と呼んでいます。
彼はこう書いています。
「これは幸福を妨げる運命の力であり、ダモクレスの剣のように頭上にぶら下がっているものです」。
この「運命」のモチーフは、交響曲全体を支配する象徴として登場します。
第1楽章では圧倒的な力で鳴り響き、第2楽章では孤独な感傷が広がり、第3楽章ではピッツィカートだけによる幻想的なスケルツォが現れます。
そして終楽章では、ロシア民謡「白樺は野に立てり」を用いた祝祭的な音楽の中で再び運命の動機が現れます。
つまり、この交響曲は「人生の苦悩の中でも人々の中に入れば喜びを見いだせる」という思想を描いた作品なのです。
このように交響曲第4番は、破綻した結婚という個人的悲劇と、メック夫人という精神的支援者の存在の中から生まれた作品です。
もし結婚の混乱がなければ、このような激しい運命の音楽は生まれなかったかもしれません。
また、メック夫人の支援がなければ、彼はこの作品を完成させる精神的
余裕を持てなかった可能性もあります。
つまり交響曲第4番は、チャイコフスキーの人生における苦悩と救済のドラマがそのまま音楽となった作品と言えるでしょう。
結婚の破局による絶望と、メック夫人との精神的な友情。
その二つの出来事が重なり合って、この激しくも感情豊かな交響曲が誕生したのです。
まさにこの作品は、チャイコフスキー自身の魂の告白とも言える交響曲なのです。
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