「申し訳ございません」
「申し訳ありません」
という言葉を使用した事が人生において無いという人間は
恐らく限りなく、少数派かと思われる。
少なくとも社会に出れば必ずと言っていい程、使用する言葉だ。
これを使わずして出世が出来る人間がいるのであれば
既に1つの社会を作る力を持っているのではないだろうか。
ところが、上記の2つの言葉は実は誤用であったりする。
一見、「申し訳ない」を丁寧に表現しているように思えるが、
そもそも、「申し訳ない」という言葉自体が
一つの形容詞であり、言葉の意味をなす。
例えば、「危ない」という言葉がある。
「危ない」の「ない」は有無の意味をなす言葉ではないのは
当然の事で、「危ある」、「危ございません」といった表現が
間違いであることと、「申し訳ございません」が
誤用である事が一緒であると言えば分かりやすいのではないだろうか。
「申し訳ないです」
もしくは丁寧に表現するのであれば
「申し訳ないことと思います」
などという表現が
一番正解に近いと思うのだが、
実際に社会に出て「申し訳ないです」を使って注意されたことがある。
「申し訳ございませんだろうが!」と叱咤を頂いたものだ。
確かに丁寧に表現されてはいなかったものの、
まさか誤用で正されるとは思いもしなかった。
しかし「申し訳ございません」「申し訳ありません」
という表現のうが、実のところは正しくないにしろ、
一般的でかつ、丁寧な印象を受けてしまうのもまた事実である。
そんな訳でこの件から得た僕の教訓は、
「誤用も広まれば正用となる。社会において正しさとは
1つのルールではなく、大多数の流れの中において決められるものである」
といったところだろうか。
新年早々何故こんな話をしているのかというと、
正月になんとなく昔の自分というのをふと振り返ってみて、
思うところがあった。
昔から僕は、僕という人間を肯定されたことがほとんどない。
小学生の頃から(あるいは園児の頃から)
「変人だ」「変わっている」と言われ続けているのである。
それは友人に限らず、教師にさえ言われ続けていた。
「お前は普通じゃない」
「その事を自覚しろ。普通の人と混ざれるように努力をしろ」とも、
何度も(しかもそれぞれ別人に)言われた事がある。
元よりそういった言葉を受けて落ち込むといったことも一切無かったが、
高校に上がる頃には「へえ、そうなんだ」と
受け入れる事が出来るくらいに自覚はあった。
とはいえ、自覚があったのは漠然と「周りとは違う」といっただけで、
その答えを教えてくれる人間は現在に至るところまで誰もいなかった。
おかしい=間違いであるという解釈を受けていた僕は、
正しくあろうと周りの人間と自分との違いを分析を行ったこともあったし、
直接気の置けない友人に問いただしたこともある。
その時の僕は、どこかこの世には絶対の正しさというものの存在が
ある事を信じていたのである。
しかし高校しかり、大学生の頃の僕の周りの人間というものは、
僕以上に個性の強い(というよりはアクの強い)人間で溢れていた。
友人も皆、いざ問われると言葉に詰まるようで、
あまり参考になることはほとんどなかった。
周りから見る自分の雰囲気等は鏡には映らないし、
他人を寄せ付けない雰囲気があると言われても抽象的で理解しづらい。
かくして僕は、どこか人とは違うまま、
「大半の流れの中から外れている正しくはない人間」のまま
24年目の人生を迎えようとしている訳だ。
けどそれは、今にして思えば
正しくあろうとしていた頃の自分が
それほど必死ではなかったのかもしれない。
今でも今の自分が一番正しいとさえ感じているし、
今も昔もそれは多分変わらないだろう。
結論からいえば、開き直りで良かった。
大多数が決めた正しさに乗っかる必要は無いし、
自分がおかしかろうと、間違っていないと信じるのであれば
何を言われようと堂々としていれば良い。
勿論、先述の言葉の誤用のように
合わせるだけで済む話なら、それはそれとしてだ。
僕のような「間違っている」人間を、
どこかのでは肯定してくれる社会も
世界中のどこかを探せば存在するのかもしれない。
もし僕が何らかの偉大な功績を残せば、
僕という人間が肯定されてそれが「普通である」とされるのかもしれない。
そんなたらればの話ではあるが、
詰まる所「正しさ」なんて指標は非常に曖昧で、
多数決で決めてしまえるほどの価値で、
目指す必要なんてどこにもなかったのである。
そんな訳で依然と僕は今のところ
自分を崩す事なく開き直って新年を迎えるのだった。
以上、正月の暇つぶしというか、
徒然に書いた自分の指標の備忘録のようなものでした。
最後に遅くなりましたがあけましておめでとうございました。
今年もどうぞ宜しくお願い致します。
三浦
