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岐阜県せ○市から揖斐郡大○町へ引っ越してきて約半年、下の娘達3人を
施設から引き取って約3か月、やっと生活のパターンが出来てきて
少し落ち着いてきたかな~。

今年3月末で26年間務めた会社を退職して自営業を始めて約半年、
客先との関係も何となく形になってきて毎日、忙しい!!
まぁ~まだまだ先は見えないですけどね。
まさか僕がサラリーマンを辞めるなんて考えてなかった。
今、180度違う人生を過ごしています。


5年前の平成20年12月9日に妻がくも膜下で倒れて翌日10日に亡くなった。
当時、千○小学2年生8歳、有香○小学1年生6歳、彩○幼稚園年中4歳。

到底、僕一人で下の娘達3人を抱えて会社勤めをするなんて不可能な状況。
市の母子家庭支援員へ相談して県のこども相談センターへお願いして
こども養護施設へ入れてもらえるように手配した。


施設の場所は問わないから娘達3人が一緒の施設に入れる事を条件に。

妻の葬式の最中に妻の両親から孫達の面倒は見れないと釘を刺されたが、
もっともそう言われるのも判っていたし頼るつもりも無かったので
相談もしないで先に施設の手配をしていましたけどね。


あの時の決断は間違っていなかったと思っています。


その年の年末に下の娘達3人を説得して施設へ入寮しました。

それからが戦いでしたね~毎週末、土曜日の朝に娘達3人を施設へ
自動車で片道1時間と少しかけて迎えに行って帰省させて、
日曜日の夜に施設へ送って行く、連休は初日の朝に迎えに行って
連休の最終日の夜に施設へ送って行く。
出来る限り仕事の調整をして土日は休めるようにしましたね。


亡くなった妻とはお互いに子供を連れての再婚だったんです。
妻が娘を1人、僕が息子と娘の2人、付き合い始めて半年間は
毎週末の土曜日に子供を連れて合流して一緒に合宿みたいに
過ごして準備をしたんだけどね。


いざ結婚すると少しずつ何かが崩壊して行く、よほど人間が出来てないと
無理だと言う事に気付いた時には、もう遅かったんですよね。
結婚してから1人目の千○が生まれた頃位から、僕の連れてきた子供2人に
対する妻の嫌がらせが始まっていて、息子の圭○が中学校へ進学した頃に
娘の裕○(小5年)が学校に相談して学校の生活指導が虐待じゃないかと
動き始めました。当然、中学生の圭太も中学の生活指導から事情聴取され
家庭内での妻の虐めが明るみに出ました。


その後、当然、市の母子家庭支援員と県のこども相談センターも加わり、
僕は対策会議に呼び出されて事情聴取されました。


この間、僕も緩和出来るように妻と子供たちの間を調整していたのですが、
その日は何とか収まっても次の日には又、もとに戻っていたり悪化したりの
連続で次から次へと出て来る妻からの苦情でほとほと疲れていました。


そして一番下の彩○を身籠った秋に妻が娘の裕○に暴力をふるい虐待が
起きてしまいました。その場に妻の連れ子の一○(中学3年)が、
一緒にいて見ていたことと妻が妊娠していたことで警察の介入は
されませんでしたが裕○は保護される事になってしまいました。


いきなり、こども養護施設へ入れるのも抵抗があったので、
一時、大阪の実家へ預ける事にしたのですが年老いた父と毎日通って
面倒を見てくれる姉では負担が大変だと言う事で半年で、
帰って来る事になり、娘の裕○は自宅へ戻るのは許可出来ないと
施設へ入寮する事になりました。


この時点で市の母子家庭支援員から妻へ虐待の告知があり、
今後どうするかを話し合い、いったんは離婚する方向で調整していたのですが、
妻をカウンセリングしていた母子家庭支援員から小さい娘達もいるのだから
やり直してみたらと説得されて妻からカウンセリングを受けながら、
裕○を施設から引き取れるように自分自身を改善して、やり直したいとの話があり、
僕は承諾しました。


しかし、人間とはなかなか変われないものですね。
と言うより、時間が経てば経つほど自分のやった事は仕方なかったんだ、
相手の裕○が悪いから虐待してしまったんだと思うようになるんですね。
結局、6年経っても改善はしませんでしたね。


それどころか裕○が中学から高校へ進学するのを機会に自宅へ引き取る話が
出た時に学力の問題が有り学区が違い過ぎて進学する高校が決めれないと
いう理由で高校3年間も施設へ残留すると決まったら、妻の態度は更に悪化して
毎晩、毎晩、自分の上の娘と下の娘達3人を連れて遊び回る毎日でした。


夕方くらいから出かけて帰って来るのは毎晩11時で、
晩御飯は毎日、すき家の牛丼やコンビニのお弁当。
千○が小学校へ入学しても、この生活は変わらず、
有香○が小学校へ入学しても毎晩、毎晩、遊び歩く。
子供達は学校の宿題も出来ない毎日。


とにかく、学校の先生が妻に意見をしても妻は逆切れで話にならず、
怖い者無しでやりたい放題。


今度は僕の方から市の母子家庭支援員へ相談して小学校の生活指導、
教頭先生、校長先生を招集して頂いて協力をお願いしました。


僕と妻を学校に生活指導で呼び出してもらって生活態度の注意と
改善要求してもらうように手引きをしました。
学校の事情聴取に対して僕が本当のことを話て僕が改善要求を
承諾すれば妻は聞いてるだけしか出来ないのを利用しました。
僕と口裏を合わせた通りに改善されなければ子供達を強制的に
保護すると言ってもらいました。


しかし、それでも夜遊びは止まらなかったですね。


これは平成20年の春ごろの話なのですが、とうとう盆休み前に僕が切れました。
息子の圭○と妻が喧嘩をした日に「もう無理、離婚しよう!!」と妻に話しました。
「毎日、毎日、夜遊びで娘達は勉強も出来なじゃないか!!離婚だ!!」
妻は「いやだ、そんなのいやだ!!」と反論していましたが、
僕は聞く耳持たずと話を打ち切り家庭内別居へ突入。
とにかく最小限の意思表示はメールのみの会話になりました。


次の日からピタリと夜遊びが無くなりました。


不思議ですね。虫の知らせなんですかね。
それからちゃんと妻と離婚の話を再開したのは、
妻が倒れる2日前の12月7日だったんです。


まぁ~その前にも会社の行事で志摩スペイン村へ妻と下の娘達3人で
遊びに行ったのも有るのですが、離婚の話を再度、切り出したのは
この日でした。


妻も離婚を承諾してくれましたし、今後、どうするかも
少しずつ話をし始めました。


久し振りに下の娘達を連れて妻と買い物にも行きました。
まさかこれが妻との買い物が最後になるなんて思ってもみなかったですね。

次の日の12月8日の日曜日は家の外で下の娘達3人と遊びました。

そして妻は9日に倒れて10日に亡くなりました。


既に一番上の妻の連れ子の娘は彼氏と同棲して家から出てました。
僕の連れ子の息子は就職が内定していて次の年の4月には就職して
会社の寮に入ることが決まっていました。

下の娘達3人は施設へ入れました。


当分は土曜日帰省して日曜日に施設への毎日です。


そして施設に保護されている高校1年の裕○を引き取る方向で動き始めました。

先ずは今借りている自宅を掃除して娘の高校があるせ○市へ引越す事にしました。
翌年平成21年の2月くらいから片付けを始めて毎週、毎週、下の娘達を帰省させて、
こつこつと土日は片付け、終わったのは6月末だったなぁ~。

捨てたゴミは粗大ゴミが45リットル以上のゴミ袋で200袋、燃えるゴミで
100袋以上有りました。とにかく凄かった!!


3月は息子の就職で走り回り、とにかく無事に送り出しました。


7月に入って引越を実施して大きな家具は総て産業廃棄ゴミとして
引越業者に引き取ってもらった。


4tトラックのコンテナの1/3が引越荷物で、2/3が産業廃棄ゴミだった。

7月中旬くらいから裕○を施設から引き取り新生活を始めた。


会社の方も僕は管理職だったので、下の娘達3人を引き取るには
管理職では無理なのは明白だったので、部下が育つのを待つしかない。
後、3,4年で上がって来そうな部下がいたのでバックアップ
する事にした。


一番下の娘が小学3,4年になれば何とかなるかなと思っていたので
時期的には丁度良いかもしれない。


取り敢えず職場の地盤も固めつつ、引き取る方向で準備を開始した。
この時から娘達を引き取る直前までは会社に残留するつもりでした。


それから1年半が過ぎ娘の裕○が高校を卒業して就職してアパートを
出て一人暮らしへ、会社の方も3年が経過して、やっと後輩と管理職を
交代して業務のエキスパートへ転身しました。


その頃位から会社も部門毎の組織売上管理から個人売上管理へ移行して、
社員一人一人の売上採算性を向上、当然、管理職以外の課長級社員の
売り上げを強化向上とゆう体制になりました。


ようするに業務エキスパート者は組織支援による貢献は加味されず、
個人の売上のみを重視されるという体制になり、高レートによる
売上確保をするか重残業にによる売上確保をするかとなりました。


ここで娘達を引き取っての方向転換を余儀なくされましたね。
このまま会社に留まって3人の娘達を引き取るとゆうことは、
会社の仕事を放置するのか引き取った娘達を放置するのかの
どちらかしか有り得ない状態になります。


会社の仕事を放置すれば遅かれ早かれクビになることを意味するので
世の中の旦那様と同様に食べる為には仕方ないだろと3人の娘達を
放置する事になります。これでは何の為に引き取ったのかがわからない。
自分の信念を貫く為には.....と悩んだ末、たどり着いたのは
会社を辞めて自営業で生きて行く。


この結論に達したのが会社を辞めた日の6か月前でした。
辞める3か月前に辞表を提出して周りへ根回しして、
忙しい毎日でした。


まだまだ、書きたい事はたくさんありますが、
こえからの生活の中で徐々に書いて行きます。


さぁ~仕事頑張るかぁ~!!