おはようございます。

昨日、誕生日だった加藤です。

気づけば38歳で、もうすぐ40代に突入です。いやあ、年齢を感じますね。

 

今日は、運命を信じる、というテーマです。

 

ちょっと宗教とかスピリチュアルな感じのテーマですが、実際私は特定の宗教に対する信仰は全くありません。宗教に関する知識も全然ありませんが、非常に重要なテーマではないかと考えています。

 

 

死や自然災害、運など、人間が自分自身ではコントロールできないものが生きていく上で身の回りにはたくさん存在しています。それらをどのように捉えるかということが宗教に繋がっているのではないかと思います。

 

人間はいつ死ぬか分からない。めちゃめちゃ金持ちだろうが、悪いことばっかしていようが、だらだら生きていようが、基本的には死ぬタイミングを選ぶことはできない。

 

死という、自分にはコントロールすることができないものがあるということを受け入れ、そこに向かう態度を明確化することが、宗教的な信仰に繋がっているのではないでしょうか。

 

翻って、自分自身が目標や夢を持った時に、それが実現可能なのかどうかということは、誰も明確に答えることは出来ない。しかし、それを実現するのだと無条件に信じるということこそが、その目標と夢に対する一番の近道だと思います。

 

これは説明不可のものを無条件に受け入れる、ある種の自分と人生に対する信仰心を持つことと同義と言えます。

 

しかし、これを単なる楽観主義と区別する必要があります。ただ、上手くいくであろうと考える楽観主義がダメだとは言いませんが、宗教的な強さとは明確に区別されるべきです。その一番の違いは、死を代表とする自分でコントロールできない事象を受け入れた上で、自分にこれから起こることを無条件に受け入れる姿勢があるかどうかです。自分にはコントロールできない領域があることを認識しつつ、それでもより良い自分の姿を信じ追求する強さを持つことができるかどうかではないでしょうか。

 

子供の頃や、若い頃は死というものについてあまり深く考えないもの。少なくとも小さい頃の私は、「自分は300歳まで生きるのだ」くらいに思っていました。それは、生の価値が非常に薄いことを意味しています。つまり、生の重要性に対する認識が低いということです。しかし、年齢を重ねていくうちに、老いという体に変化が起こることで、死に近づいている感覚が誰にでも生まれてきます。

 

一方で、若い頃はあまり深く考えることなく、夢や目標に対してガムシャラに向かっていくという経験を多くの人がします。プロのサッカー選手を目指して頑張り、その後指導者としてプロの監督を目指すといった具合です。しかし、年齢を重ねることで、上手くいかないことを経験し、自分の目標や夢に対して変化や可能性を追求するということをしなくなりがちです。

 

運命を信じるとは、生の有限性を理解した上で、自分が成し遂げたい目標やビジョンに対して、日々力強く進んでいく生き方ではないかと思います。

 

九死に一生というような経験をした人が、そこから全く違った人生を歩み始めるのはまさにそうではないかと思います。

 

年齢を1つ重ねて、より一歩死に近づいたわけですが、限りある生を最大限に謳歌し、その中で自分の可能性に日々チャレンジする。そして、その先に待っている運命に向かって、力強く進んでいく。そうした生き方や在り方を日々積み重ねていきたいと思います。

 

それでは皆さま、良い一日をお過ごしください。