今年も、3月27日がやって来ました。


毎年、この日が来る度、「夢であって欲しい!」と思う自分がいます。

しかしながら、事実は変えられませんし、あの日から25年という月日が経っても、完全に受け入れられていない自分が、やっぱり居ます。


「桜の日」の1999年3月27日の午後、僕の携帯に訃報の電話が入りました。

最初、僕は、一足早い、エイプリル・フールだと思いました。

電話の主は、父方の遠縁だった、沖田浩之さんのマネージャーさんでした。

僕は「〇〇さん、エイプリル・フールには、まだちょっと早いですよ!」と、軽い冗談で返しました。

しかし、マネージャーさんは、深刻な声で「事実なんです! 今夜中に速報が出るかもしれませんので、驚かれないようにと思い、ご連絡させて頂きました」と、僕に告げられました。

その後も、マネージャーさんと、色々と、お話したと思うのですが、僕自身、頭の中が「真っ白」になってしまい、それ以降の会話は、あれから25年という長い時間を経ても、やっぱり思い出せません。

この電話を頂く、数ヶ月前に、マネージャーさんから、沖田さんの体調が、あまり良くないと、お電話で、お聞きしていたのですが、「まさか? 嘘やろ?」という思いしかありませんでした。



と言うのも、この訃報の数日前に、TBS系で放送された、高橋克典さん主演のドラマ「サラリーマン金太郎」で、沖田浩之さんは、企業乗っ取りを図る悪役・富岡修平役を好演したばかりでした。

僕と、沖田浩之さんとの詳しいエピソードは、以前から度々、このアメブロで、書かせて頂いておりますので、詳細は割愛させて頂きますが、この前日の夜に、偶然にも「3年B組金八先生」の第2シリーズのVTRを見ていたので、その翌日に飛び込んで来た、沖田浩之さんの訃報は、かなりの衝撃でした。



お通夜と告別式は、年度末だった為、どうしても仕事が休めず、マスコミの報道が、少し落ち着いた、GWを利用して、沖田浩之さんのご自宅に弔問に行かせて頂きました。



しかしながら、遠縁とはいえ、手紙のやり取りしかしておらず、沖田浩之さんと直接お会いした事は無く、御自宅も手紙に書かれた住所だけが頼りで、神奈川県の土地勘などは、まるで無く、地図を頼りに車を走らせていると、以前、沖田さんから送って頂いた著書に写っていた、沖田さんの御自宅近くの公園を見つけ「この近くや! 間違いない!」と、必死で探すも、なかなか見つからず、偶然見つけた酒屋さんに行き、沖田浩之さんの遠縁だと身元を明かし、沖田浩之さんからのお手紙を見せて、御自宅を尋ねると、まさかの目の前という返事!



まさに「これは、沖田さんが道案内をしてくれた!」と確信し、お店の方に丁重にお礼を述べ、沖田さんが好きだった、バドワイザーを1本買い、御自宅へ行きましたが、お留守だったので、しばらく時間を空けて、再度訪れ、奥様に「自分は、遠縁の者で、度々、お手紙のやり取りをさせて頂いていた者です」と、丁寧に説明し、沖田さんとのやり取りの手紙を見せた後、御自宅へと上がらせて頂き、お供えをさせて頂き、御仏前に手を合わせ、奥様と、しばらくお話しをさせて頂き、肩身分けの台本など数点を頂き、大阪への帰路に着きました。


大阪に帰った、その日の夜、夢の中で、沖田浩之さんにお会いしました。


僕が、何故か、劇場で出待ちをしていて、そこに沖田浩之さんが現れ、「今日は遠いのに、悪かったね!」と声を掛けてくれ「本当に、わざわざ、ありがとう!」と言ってくださいました。


あれは、沖田浩之さんからの弔問へのお礼の言葉だったと、僕は、今でも信じています。

弔問に伺った際、沖田さんの幼い娘さんが、僕に言ってくれた「お兄ちゃん、上がって行きなよ〜!」と言う声は、あれから25年という時間が流れても、僕の胸で、鮮明に響いています。


あの頃は、まだ3歳くらいだった娘さんも、今では素敵な女性に成長され、ご結婚されて、お子さんがいらっしゃるかもしれません。



沖田浩之さんの訃報から、早や25年、僕の胸の中では、今でも、沖田浩之さんは生き続けており、沖田浩之さんのお陰で、良い縁を繋いで頂いています。


今頃、沖田浩之さん、尊敬されていた、事務所の社長の津川雅彦さん・朝丘雪路さんご夫妻や、山本陽子さんらと、お酒でも飲みながら、芝居談義をされているんでしょうか?



最近、僕自身も体調が思わしくないのですが、沖田浩之さんのご縁から繋がらせて頂いている皆さん、ブログの読者の皆さん、フォロワーの皆さんそして、FBや、InstagramなどのSNSで繋がって頂いている皆さん、今後共、よろしくお願い致します。