昨日、8月14日に、NHKの「ファミリー・ヒストリー」は、特別編として、俳優・草刈正雄さんのルーツを辿る内容で「初めて知る米兵の父、97歳伯母が語る真実とは?〜」と題し、草刈正雄さんの実父を追う内容でした。



草刈正雄さんは、アメリカ軍の兵士だった、ロバート・H・トーラーさんと、日本人の母、スエ子さんとの間に生まれたハーフです。


草刈正雄さんの子供の頃は、ハーフに対して偏見が多い時代でした。


スエ子さんからは、父・ロバートさんは、「朝鮮戦争で戦死、写真は焼いた」と言われていて、草刈正雄さん自身も、父親について深くは追求しなかったそうです。


しかし、戦死したはずの父親は、実際には、朝鮮戦争から生還し、10年前まで生きていたという事実を知らされます。



草刈家は、福岡県行橋市がルーツです。


5代前は利久蔵、高祖父が勝蔵、曽祖父、高蔵、

祖母イシ、5代前までは、お米や菜種などを生産する農家だったそうです。


曽祖父の代になると、天ぷらかまぼこ製造業兼小売店を自宅を改装し始めました。


母親のスエ子さんは、バスの車掌さんをしていました。


草刈正雄さんは、生まれた時から、母子家庭で育ちました。


父は、日本に駐留していたアメリカ兵でしたが

「朝鮮戦争で戦死した」と、母から、ずっと聞かされていて、父の写真も無く、存在自体も知りませんでした。


母からは、冗談で「(父は)あなたより、ハンサムよ」と、よく言われたそうです。


母は、父親について多くを語らぬまま亡くなり、13年の歳月が経ちました。


ファミリー・ヒストリーのスタッフは、ロバート・H(ハンター)・トーラーさんの足跡を、半年掛けて辿り、ノースカロライナ州に住む父親の親族に出会いました。


97歳になる、ロバートさんの姉により、真実が語られました。


朝鮮戦争で戦死したはずのロバートさんは、朝鮮戦争から生還し、10年前まで生きていたという事でした。


そして、草刈さんは初めて、父の顔写真と対面して、父親の姿を知ります。


ロバートさんの姉からは、父の容姿や性格、母との出会い、そして「何故、父は母の元を去ったのか?」という真実が、70年越しに明らかになりました。


ロバートさんは、福岡の築城空軍基地に駐留し、母のスエ子さんと偶然出会い、二人の間に生まれたのが、草刈正雄さんでした。


ジャニタさんによると、様々な事情が絡み合い、スエ子さんは、正雄さんを一人で育てると決意し2人は別々の人生を歩む事になりました。


ハーフの子に対する偏見が根強い時代、スエ子さんは、何度か心中を考える程、苦しみながらも、正雄さんを守り抜き、真っ直ぐな人間に育てようとしました。


両親の別れの背景には、ジャニタさんにも、2人の別れに責任を感じる理由があったという事を知らされます。


草刈正雄さんは、その告白に衝撃を受けますが、

「父と母が愛し合っていた事が分かって、良かった、長い間の謎が全て解けた、僕が思い描いていたような父で良かった」と語り、昔からよく

「僕は親父を知らないから、親父の役を演じるなんてね」なんて言ってきたけど、ああ言う方だったのかって、顔を見るだけでイメージが湧きますしね、70歳過ぎになりましたが、これから、また新しい自分に生まれ変わったような感じになりました」と涙を流されました。


アメリカのファミリー・ヒストリーのスタッフが親戚にあたるジェイさんを突き止めました。


「5代前はロバート・モンローさん、祖父のゼブロンさんは郵便局員、祖母はアメリアさん、父はロバート・H・トーラーさん、母はスエ子さん

(義母がヘルガさん)


従兄弟にあたるジェイさんが、草刈正雄さんの名前で検索し、ロバートさんの10代の写真を見ると草刈正雄さんが、あまりにお父さんにそっくりで驚いたそうです。


祖父のゼブロンさんの4女が、ジャニタ・カラハイムさんで、その息子さんが、ジェイさんで、三男が草刈正雄さんの父親のトーラーさんです。


ジェイさんと、草刈正雄さんのDNAの遺伝子の鑑定をした結果、97%という高い数値で、血縁関係が証明されました。


ジャニタさんによると空軍に属し、日本に駐留していた事が分かりました。


南北戦争の時代から、ジェイさんまで、軍人の家系でしたが、祖父であるゼブロンのみが、郵便局員でした。


貧しい人達が住む地域(ブレーデン郡・ターヒール)では、子供達の為に、パンや牛乳を買う様に母親達に金を与えていたそうです。


50代になると「ペラグラ」という難病に罹り、自ら命を断ったそうです。


その3か月後の1930年2月23日に、草刈正雄さんの実父、ロバート・H・トーラーさんが誕生しました。


生活は困窮していて、自宅の2階を向かいの学校の若い先生達に貸出し、家賃収入で、何とか暮らしていたそうです。


トーラーさんは、家計を助ける為、18歳で空軍に入隊。


配属は、福岡県築城空軍基地の第1航空郵便隊 第24分遣隊。


祖父の影響だったのかも知れません。


1950年に朝鮮戦争が勃発すると、金浦空軍基地へ配属。


1951年、福岡県築城空軍基地に帰還し、仕分け作業を担いました。


そして、スエ子さんと出会います。


2人が出会ったのは、川に架かかった橋で、そこは、1人しか通れない幅でしたが、スエ子さんにロバートさんが優しく道を譲ったのが2人の出会いだったそうです。


それから、二人はアパートを借り、同棲が始まったそうです。


ロバートさんは、1951年の4月13日に任期満了で除隊になりましたが、翌日の14日に再入隊しました。


スエ子さんの傍を離れたくなかったのでしょう。


そして、極東空軍羽田基地に移動となり、スエ子さんは、バス車掌の仕事を辞めて、一緒に東京に引っ越しましたが、家族に知らせず、密かにスエ子さんは、九州に戻り、1952年の9月5日に草刈正雄さんを地元の福岡で出産。


スエ子さんが東京から密かに九州に戻っていて、ロバートさんが出産に立ち会わなかったのは、ロバートさんは将校になる為に、陸軍に編入し、幹部候補生の学校に行く事になり、アメリカに帰国していたからでした。


帰国したロバートさんは、日本での事は、誰にも話しませんでしたが、困惑し、神経衰弱になっていたそうです。


祖父に似て繊細だったロバートさんは、日本に恋人が居て、子供を身籠っているという事実を、誰にも話せず悩んでいたそうです。


ジャニタさんは、落ち込んでいるロバートさんを励まそうと「陸軍に移動したのだから、ドイツへ行きなさい!」と助言。


ロバートさんが軍隊の生活に戻れば、シャキッとすると思ったのだそうです。


そして 西ドイツへと赴任したそうです


その頃、日本にいるスエ子さんは、渡米を考えていたそうです。


その為、1953年頃、ロバートさんから聞いていた住所に手紙を出しました


受け取ったのは母と姉達だったそうです。


その手紙を読んで、祖母のアメリアさんと、ジャニダさんの姉のマーガレットさんが呆然と立ち尽くしていたそうです。


稼ぎ頭のロバートさんが、西ドイツにいる為、 家計が苦しく、スエ子さん親子を援助する術が無かったそうです。


認められた手紙には、ハーフであるという事の偏見から、草刈正雄さんを守るのが大変であった事が受け取れたそうです。


しかし、ジャニタさん達にはお金も無く、親子の無事を祈る事しかできなかったそうです。


弟に西ドイツ行きを進めてしまったが為に、アメリカに居れば、ロバートさんは家族3人で過ごせたのにと後悔したそうです。


スエ子さんに返事を書いたのはマーガレットさんでした。


わずかなお金を同封し、事実を伝えました。


返事を受け取ったスエ子さんは全てを悟り、草刈正雄さんと二人で生きていく事を決断しました。


当時、ハーフに対する偏見は強く、親も職に就けず、児童養護施設に預けられるケースが多かったそうです。


世間の目が厳しく、親戚は表立っての援助は出来ませんでしたが、お米や野菜の中に紛らせ、僅かながらも、お金の援助もしてくれていたと言う事でした。


しかし、スエ子さんは柵(しがらみ)の無い、小倉に引っ越しました。


仕事を掛け持ちして、家計を支えました。


母親はとても厳しく、草刈正雄さんが、やんちゃな事をすると、野球のバットを持って追いかけた事もあったそうです。


世間からの偏見が大きかった事も影響し、恥ずかしくないように、草刈さんを育てたのでしょう。


草刈正雄さんが、定時制高校に通っていた時、モデルの仕事で東京に行くと、忽ち、日本人離れした、甘い顔立ちが話題となり、モデルとしてだけでなく、俳優としても人気者となりました。


そして、東京に母親を呼び寄せました。


ロバートさんの面影を受け継ぎ、活躍する草刈正雄さんの姿。


それを見た母は少しずつ、昔の事を話すようになったそうです。


どんな時も、ロバートさんの悪口は決して言う事が無かったそうです。


平成22年に脳梗塞で亡くなられます。


享年78歳。


息子の為に生き、息子に救われた人生でした。



一方、ロバートさんは、1953年に西ドイツに赴き、その後、ヘルガ・ラサートさんと結婚。


除隊して、婦人服を販売する会社を立ち上げました。


7店舗を開店し、しばらくは上手く行っていたのですが、手を広げ過ぎて、最後は失敗したそうです。


別の仕事を始めるも、再起は叶わず、2013年に癌で、この世を去りました


享年83歳。


最後まで、日本での出来事は語らなかったそうです。


その後、ジャニタさんは、草刈正雄さんに手紙を書きました。


「あなたを見つけられた事が、私にとって、どれだけ嬉しいか言葉にならない、70年間、あなたの事を、ずっと思い続け、心配してきました、あなたのお母様が私達に書いた手紙には、戦後間もない日本で、アメリカ人との間に生まれた、あなたを育てていく事への不安が綴られていました、その事を、私はずっと、心の奥にしまっていました私は、今97歳です、あなたの素晴らしいお母様があなたを立派に育ててくれた事を知り、心から嬉しく思っています、私の家の廊下には、全ての親族の写真が飾られている、思い出の壁がありますあなたとご家族の写真を、ここに加えられたら嬉しいです、これからも、あなたに幸せと成功があることを願っています、どうか、どうか私たちに会いに来てください、みんな心から喜ぶでしょうら、あなたの事を思って、涙を流す日々は、もう終わり、これからは笑顔だけです」あなたの叔母・ジャニタよりと綴られた長文の手紙でした。


現在、ジャニタさん家の壁には、ジェイさんが、インターネットで検索した、草刈正雄さんと、母のスエ子さんの写真が、トーラ家の一族として飾られています。


この写真を見たジャニタさんは「私にそっくり!」と喜んでいました。



番組のラストでは、草刈正雄さん自らが渡米し、ノースカロライナ州にある、ジャニタさんの自宅を訪ね、ジャニタさんとハグを交わすシーンもあり、とても感動的なシーンになりました。


まさに神回と呼べる内容でした。


僕が、俳優である、草刈正雄さんを知ったのは、1981年に、日本TV系で、藤竜也さんと共演されていた「プロハンター」という探偵ドラマがキッカケでした。


当時、11歳でしたが「こんなカッコいい俳優さんが居るんだ!」と衝撃を受けました。


その後も、1985年にNHKで放送された「真田太平記」や、1997年の大河ドラマ「毛利元就」、2016年の大河ドラマ「真田丸」などでの、重厚かつ、コミカルな幅広い演技力を発揮されている名優で、個人的に好きな俳優さんなんですが、今回の「ファミリー・ヒストリー」で、実父の存在と父と母の数奇な運命や、自身の出生後の真実を知り、度々涙する場面を見て、益々、草刈正雄さんのファンになりました。



父親を知らないからこそ、理想の父親像を「真田丸」や「なつぞら」などに反映させて、演技をされていたのだろうなぁ〜と感じました。


今回の「ファミリー・ヒストリー」は時間を追う度に、熱いものが胸にこみ上げて来ました。


素晴らしい内容でした。


再放送を熱望します。