今回の個人的アルバム・レビューは1981年に発表された、浜田省吾さんの「愛の世代の前に」というアルバムを。
このアルバムは、1981年の夏、わずか2週間で作られたアルバムであり、武道館公演に向けて、まだ若かった浜田省吾さんが、エネルギッシュに満ちて作られたアルバムです。
前作「HOME BOUND」の成功を受け、製作サイドの要請もあり非常に短期間で完成したアルバムです。
「愛の世代の前に」とは、1945年、日本に原爆が投下され、それ以前とその後は、地球レベルで全てが変わりました。
核が脆い生命体をいつでも打ち砕きます。
核と言う猛威ある存在が無くならない限り、本当の「愛のある世代は来ない」と言う意味を表しています。
福島原発事故が今でも記憶に新しく、今の現代社会でも、とてもリアリティーがあり、浜田省吾さんが、原爆を投下された広島県出身である事も、影響している楽曲でもあります。
世界平和を願う、浜田省吾さんなりのプロテスト色の強い楽曲になっています。
バラードの「愛という名のもとに」、「陽のあたる場所」等も、浜田省吾さんのバラードの名曲であり、バラードアルバム「Sand Castle」でリメイクされていますが、オリジナルのこのアルバムに収録されている方が個人的には好きです。
「ラスト・ショー」も、まるで青春映画を描写させるような、未だ色褪せない名曲であり、浜田省吾さん本人も絵の見える曲が好きだというほど、リスナーの脳裏にそのシーンの1つ1つが頭に浮かんで来るような素晴らしい楽曲だと思います。
「悲しみは雪のように」は、浜田省吾さんを知らない人でも、この曲だけは知っていると言う人も多いと思います。
後にリメイクされ、ドラマの主題歌で170万枚の大ヒットにはなっていますが、自分はこのアルバムからこの曲を知っているので、個人的にはこのアルバムのオリジナルの方が好きですが、リメイク後の「悲しみは雪のように」しか知らないリスナーの方には、サウンド的にもアレンジ的にも、このアルバムの中のこの曲には、古臭さを感じるかもしれませんが、基本的な楽曲の良さは失われていません。
ラストの「防波堤の上」は、孤独な虚無感の向こう側に、死生感を反映させた、浜田省吾さん独特の楽曲です。
「人間は色んな深い悩みが出てきた時、1人では、自ら命を投げ出す勇気もなく、波狂う海辺での嵐が、主人公の背中をポンと押してたなら、もしかすると、その深い海に一歩足を踏み入れるかもしれない」と言う事を思わせる楽曲です。
まさに現代人も通じる、人間の生き様の中で生まれる、人生の苦闘や悩みや葛藤、そして孤独感や、虚脱感等を実に上手く表現している楽曲です。
愛奴の頃はオールディズに傾倒したサウンドもありましたが、前作「Home Bound」あたりから、ロック色を深めていった浜田省吾さん。
ハードでメッセージ色が濃い作品をとらえて和製スプリングスティーンと形容されましたが,本人は不本意であったようで、某誌のインタビューでは「そんなに似てますか? むしろビリー・ジョエルの方が近いのでは?」と答えていました。
浜田省吾さんの音楽には、確かにロックに対する強い情熱も感じられますが,それと同様にリズム&ブルースやソウルなど、黒人音楽への強い憧憬が感じられます。
それは「センチメンタルクリスマス」を聴けば一目瞭然です。
これは、どうみてもドゥワップか、スウィート・ソウル。
タイトなビートの「土曜の夜と日曜の朝」は一昔前でいう「ジャンプ・ナンバー」か?
「悲しみは雪のように」も、ヴォーカル・アレンジはソウル的。
その意味では「グッドナイト・サイゴン」のような反戦歌を歌う一方で,「ロンゲスト・タイム」のようなア・カペラ・ソングも歌うビリー・ジョエルにイメージが近いと思います。
本作は,そんな浜田省吾さんのルーツを知ることのできる傑作です。
冒頭のタイトル曲は典型的なハードR&Rですが、先述の3曲は黒人音楽への傾倒がうかがえます。
メロウでセンチメンタルな「ラストショー」は、AOR的。
そして「愛という名のもとに」と「陽のあたる場所」の2大バラード。
楽曲の粒がそろっていてバラエティーに富んでいて歌詞が素晴らしいです。
「陽のあたる場所」では,不倫という許されぬ愛への断ち切りがたい思いを切々と歌い上げ,「土曜の夜と日曜の朝」では,様々なストレスの中であえぐ現代人の心境を「レールの上,車輪の下」のわずかな隙間に喩えています。
「J-BOY」も傑作ですが、浜田省吾さんを聴くなら本作も忘れて欲しくないと思います。
間違いなく不朽の名作だと思います。
収録曲
- 愛の世代の前に
- モダンガール
- 愛という名のもとに
- 独立記念日
- 陽のあたる場所
- 土曜の夜と日曜の朝
- ラストショー
- センチメンタルクリスマス
- 悲しみは雪のように
- 防波堤の上