逢うことさえない友人たちと | 服部政行オフィシャルブログ「唄はセリフのように」by Ameba

逢うことさえない友人たちと

玄関を出ると飛び石が数個あって、側溝を渡す鉄板があって、そこの左の方にのっかると「バヒーン!」と音がする。元気な時は遠慮なく音をたてて、そうでもないときはやはり右のほう、自信をなくしているときはまたいで渡った。

逢妻町の坂の上にあるうちは、一カ所を除いてどこから帰っても上り坂だった。だから、自転車を降りずに帰ることができるようになったのはだいぶ大きくなってからのように思う。
マニュアルのカローラだったと思うけど、警察官だった父親は、堅物というよりは几帳面な人で、いつも車で帰って来る時にギアをたぶん4速くらいで登っていたのだろう、「ぐぐぐぐ」という少しかみ合っていない音がしていて、
「あ、帰ってきた!」と気がついた。18年間運転をしていて、36年間彼の息子をやっていると、3速だとパワフルに登ることができるところを、近所だから4速で控えめに登ろうという感覚だったのではないだろうかと想像ができる。


東京に来てからぼくは新聞配達からミュージシャンまで、ご縁をいただいたいろんな仕事をしている。それ以上に、身分不相応な「遊び」というか生きる知恵を学ばせてもらう場というか、仕事とは言えないようなことをさせてもらって来たようにも思う。
誰もが納得してくれるような話で言えば、品川の桐ヶ谷寺という曹洞宗の寺のご住職との忘れることのできない失敗の話がある。

その時自分がやっていたバンドの名前「南無」という名前についてご住職から
「いい名前をつけたね!」
という言葉をいただいた。また、
「南無という言葉の意味をしっているかい?」
と問いかけもいただいた。
その頃ぼくは、究極的に精神を集中して唄を紡ぎ、最大限のエネルギーをもって発音することが音楽であるのに、その形態に名前などいらない、、、などと真剣に思っている時であったことと、そうは思いながらも、もし本当にそうであったなら自分自身のことを納得できないいろんなほころびがあったことに気がついてもいたことで、自分でも耳を疑いたくなるような言葉を次の瞬間発していた。
「知っています」


今も、書きながら顔が変になるほど嫌な記憶で、そのまま嫌な記憶として蓄積されるところでした。ご住職はぼくに、
「そうかぁ!知っているかぁ!知っているとは思うけれど、わたしが思う南無という言葉についての話を聞いてくれるかい」
と言ってくださった。80過ぎのご住職がそう言ってくださるものだから、今はその時の感情、感覚を冷静に見つめているけれど、その時は全てにもやがかかって重なりあっていたものだから、涙がびっくりするくらい出てきた。痛いのをがまんして帰って母親を見つけて泣いてしまう歳でもないので、その涙には自分の中で理由を言葉で欲しかった。
結局ご住職に甘え、その涙の理由を説明した。そうして、ひとつ大きな学習をさせてもらえることになった。
「南無」という言葉の意味知ってます?想像以上に面白い言葉なんですよ。



そういうことが、ここ東京に来てから異様にたくさんある。東京がそうなんじゃぁなくて、ぼくの岐路だったのだと思うし、またやはり東京がそうなんだとも思う。


今ぼくは毎日詩を書き、数日に一度メロディをつけてそれらを唄にして録音する、という日々を過ごしている。音楽をつくるようになって16年ですが、この1、2年でぼくは初めての体験をしていると思う。NYにツアーで行った時にぼくが見る限り、寝ている時以外ずっと踊っているように見えるダンサーの友人がいた。ぼくは最初その男が本当に嫌いだった。だって食事をする時も話している時もずっとだから。なんか気持ちが悪いと思った。正確に言葉にするならば、気持ち悪いと思いたかった、のだろうと思う。自分はミュージシャンでありながら、ずっと唄っているわけではなかったわけだから、彼に何か劣等感を感じていたのだと思う。  だと思うではなく、劣等感を感じていた。一ヶ月のツアーの中だいたい一緒に居た友人のひとりだったからか、自分達のツアーも充実した自信からか、後半逆に好きになっていた。でも、やはり自然に好きになれていた理由は、自分が充実していたからという後ろめたさがあった。
彼のその行動くらい、今ぼくは唄について、音楽について脳みそのすべてを、時間のすべてを向けることができている。
それはありがたくもあり、同時に実生活を圧迫し、家族に心配をかけるから、同じような創作活動にはげむ方々に「今がいいよ!」とは全く思えない。むしろバランスをとりながら長く丁寧に出来ることの方に憧れをもつくらいだし。


毎日そんな時間を過ごして、毎日何か言葉を書いていてようやく思うことがある。毎日書いているとあっという間に何もなくなるように思っていたし、常にその不安はあるものの、二人の古い友人たちの言葉と、今の創作の源泉を重ねてみると、不安よりもまだ書けていないことを書かなくてはという焦りの方が募って来る。
ミュージシャンになって有名人になって金持ちになるんだ!という気持ちも心の中に無いではない。でも同時に、これだけ多くの人たちに甘えさせてもらって学んできたことがあるならば、ぼくはそれを唄にしなければ、という使命感というよりはケツを叩かれる感覚が、心地よく心の中を占領している。


名古屋の鶴舞のあたりにちょっとした伝説になっている自然食と瞑想の店「This is it」という店があった。ジャーイッシュというかっこいい名前のひげのおじさんが、その名前を永遠に覚えれなさそうなぼくに、
「炊飯ジャーのじゃー、運転免許の一種二種のいっしゅで、じゃーいっしゅ!」
と丁寧に教えてくれたから、今でも全く忘れることなくそのすべてをシナプスが繋いで思い出す。彼をどんなだと想像しているのかわからないので、簡単に言うならば、綺麗好きで格式高い感じの方の仙人のあの感じ。
彼は、確か25、6歳くらいのぼくに、
「おまえの唄はホンジャラケ~が足りないなぁ!ホンジャラケ~だ!」と言った。仙人の言うことは・・とは思いつつ、綺麗好きの格式高い感じの方の仙人だからなぁ、と心の中に入ってきた。誰しもそうかはわからないけれど、その年齢の頃は、何か面白いこと意外の言葉が、特に助言のタイプの言葉が心にすんなり入ってくることはあまりないでしょ。それなのに、あれは入ってきた。
ただ、意味が全くわからなかった。


もうひとり、那須の山の上に「春のうらら」、みんながうららさんと慕うひとがいた。毎年夏至の日に彼のつくる火に囲まれて唄をうたいに行っていた。行っていたというのも、彼は東北の震災の直前に九州に拠点を移して、その後静かに死んだ。
彼との話はあまり人には言いたくないので簡単にだけども、彼はぼくに
「まぁよぉ、自分のことなんぞを唄にせんでくれぇ。」
と静かに言ってくれた。
大切な人過ぎて、思い出すと泣けるから、書かなければ良かったと思ったけど。


それ以来ジャーイッシュとうららさんにはもう逢うこともないけれど、今ぼくは身の回りの大切な人たちの言葉を、唄にしている。他力のように思う時もあるけれど、やはりそういう話を聞かせてもらえた自分の役割がこれなんだ!と強く思う。



昨日は贅沢にノート2冊と、書きやすそうなペンを2本買った。
今日もこれから始めます。