◆青木文蔵と印旛沼干拓工事
■青木文蔵とは
印旛沼干拓工事について色々と調べています。
そこで江戸時代中期の幕臣御家人である青木文蔵との関係性に気が付きました。
「青木文蔵」だと誰だか分からなくても「青木昆陽」であればピンと来る方も多いのではないでしょうか。
後世に”甘藷先生”・”芋神様”として語り継がれている、あの青木昆陽先生の通称が”文蔵”です。
じゃあ最初から「青木昆陽」で良いんじゃないの?と思われる方も多いでしょう。
しかし昆陽は「号」であり、文人の称号として別称で使われます。
1735年(享保20年)当時、青木文蔵は先にも書いた様に幕臣御家人です。
ちょうどこの頃、南町奉行である大岡越前守忠相の下で働いており、小石川養生所務めでした。
なので敢えて青木文蔵としました。
■享保の大飢饉と甘藷の栽培
青木文蔵(※以下文蔵)は江戸日本橋の生まれなので、36才まで下総国との直接的な関係はありません。
しかし37才の幕臣時代、先の小石川養生所で甘藷(かんしょ)の栽培を始めた事で繋がりができます。
折しも当時は享保の大飢饉により全国的に甚大な被害が出、多くの人命が失われました。
当時の主要な穀物と言えば米であった為、八代将軍徳川吉宗公は、米以外の穀物栽培を奨励。
それが甘藷でした。
甘藷は「サツマイモ」というくらいです。
17世紀初頭に琉球国や薩摩国を中心とした九州地方にまず伝来します。
特に薩摩では現代においても生産高は1位ですし、甘藷伝来以降は飢饉になった事が無いそうです。
そこに幕府は目を付け、大岡越前守忠相に命じて甘藷の栽培を始める事になります。
ではどうして「下総国」と「上総国」であったのか。
それは次の項でご説明いたします。
■江戸南町・北町奉行所与力給知でもあった馬加村
どんなに偉大な作品や発見でも最初は批判されたり懐疑的な見方をされたりします。
文蔵の甘藷に関しても同じ事が言え、江戸時代後期の思想家である佐藤信淵は批判しています。
厳密に言えば甘藷の栽培は、17世紀初頭より九州地方から徐々に本土の方へ拡がっていきました。
民間のレベルでは既に成功例もあったかと思いますが、幕府がその重要性に気付いたのが1735年。
その証拠として甘藷の試作を幕府領にて始めています。
それが小石川養生所であり、下総国千葉郡馬加村であり、上総国山辺郡不動堂村でした。
中でも馬加村では種芋17個から2石7斗6升(※約500㍑)も収穫できたそうです。
これは試作としては大成功の部類であり、馬加村が甘藷作りに適した土地と言えるでしょう。
そもそも馬加村が幕府領であった事をご存じの方ってどれくらいいらっしゃるのでしょうか。
それがどうした?と言われればそれまでなんですけどね・・・。
つまり幕府領であるという事は、幕府にとって貴重な資産であるという事になります。
おそらく江戸時代においても馬加村の田畑は良質な土壌であると認められていたのでしょう。
またもう一つ大きかったのは、馬加村が江戸南町・北町奉行所与力給知であった事。
1735年当時の江戸南町奉行は大岡越前守忠相でした。
そういう背景もあったから馬加村が試作地と選ばれ、そして甘藷作りの成功に至ったのだと思われます。
何れにしても同地での甘藷作りに成功した事で、『蕃薯考(ばんしょこう)』が発表されるに至りました。
この事はもっと評価されても良いのでは?と個人的には思いますね。
■吉宗公と享保の大飢饉
文蔵の甘藷作りと同時期に行われていたのが印旛沼干拓工事でした。
時代は少し前後しますが、享保年間に行われた第一期の印旛沼干拓工事は享保9年の事です。
甘藷作りは享保20年ですから、約11年前の事になります。
幕府はその間にも享保13年に農民に唐胡麻 (とうごま)の栽培、翌14年には菜種の栽培を奨励します。
吉宗公は将軍に就任以降、凶作や米相場に随分と苦しめられました。
この背景には江戸市中で利根川の氾濫により、人命や田畑に多くの被害が出た事が起因します。
したがって利根川が氾濫する度に凶作となり、米相場が引き上げられました。
米相場が引き上げられて困るのは町人・商人・農民たち。
享保17年の享保の大飢饉では、報告をされているだけで西日本を中心に餓死者の数は100万人。
それ以外にも250万人強の人々が大飢饉に苦しんだと言われています。
以後約50年毎に大飢饉に見舞われる事になり、江戸時代の人々は食料に窮する時代が続きます。
■大変な難工事であった印旛沼干拓工事
そういう背景もあり、幕府としても印旛沼干拓工事は早い段階で完了させておきたかったはず。
しかし昨日も書きました様に、度重なる不幸が重ねり、最終的に完成をしたのは1969年(昭和44年)。1724年(享保20年)の堀割工事開始から実に245年後の事でした。
こういう事実を知っておくと、花見川への感謝の気持ちも増すものと思われます。
そして私達がまだ知らないだけで、多くの歴史が千葉郡には残されています。