【之毛豆不佐】下総国と印旛沼干拓工事 | 嶽正義 チバを盛り上げる!

下総国と印旛沼干拓工事

 

花見川の歴史を調べていく上で、周辺調査の重要性を認識しました。

歴史というのは奥が深く、断片的な調査のみでは真実は見えてきません。

周辺調査をする事によって肉付けされる情報というのもございます。

一見関係が無さそうな感じがするかもしれませんが、本市の歴史を知る上でも重要だと考えました。

そこで今回のブログは、花見川が流れる下総国というのはどの様な国なのかを柔らかく解説します。

 

 

1872年(明治4年)の廃藩置県まで、日本国には律令制(りつりょうせい)という国家制度がありました。

この国家体制下で、現在の千葉市は「下総(しもうさ)」という国に属していました。

下総国には千葉市の他に、千葉県北部や茨城県南西部、埼玉県や東京都の一部も含まれています。

これだけ下総国は広範囲にわたっていたので、国級(※等級区分)は大国として位置づけられていました。

 

■11の郡から成立していた下総国

 

下総国は11の郡から成立していた令制国です。

ご紹介すると葛飾、千葉、印旛、匝瑳、相馬、猿島、結城、岡田、海上、香取、埴生(しもはぶ)の11郡。

現在の千葉市はほぼ千葉郡の中に含まれていました。

また現在で言うところの県庁所在地にあたる国府は、市川市国府台付近に置かれていました。

 

上記から見ても、千葉市=下総国という関連性の弱さを感じます。

国府が千葉郡に置かれていた訳でも無いですし、歴史を揺るがす様な事件があった訳でもありません。

 

■都市アイデンティティとして押すには弱い千葉氏

 

また本市は千葉氏を都市アイデンティティの一つにしていますが、お世辞にも決して有名ではないです。

何より1590年(天正18年)の豊臣秀吉公による小田原征伐で本家が滅亡しているのが印象に悪いです。

これが例えば一族の相馬氏の様に「大名」として明治維新を迎えていれば話しは別でした。

 

それでも千葉氏が活躍した時代はありました。

平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて活躍をした常胤公の時代。

鎌倉幕府を開いた源頼朝公に付き従い、後に有力な御家人になりました。

しかし常胤公の子孫があまり宜しくありません。

度々お家騒動を繰り返し、内部から力を弱める結果となり、最終的には滅亡の憂き目に遭っています。

 

何か他に特別な存在があるとまた違ってくるんですけどね。

現状では6月16日に特別史跡に指定された加曾利貝塚くらいでしょうか。

もう少し本市が下総国の一群であったという誇れるものが欲しいところです。

 

■幕府にとっても重要な政策であった印旛沼堀割工事

 

話しが少し脱線気味になりました。

そうした事からも、有史の中で千葉郡が登場する機会って少ないです。

江戸時代以降で見ても、千葉郡が表舞台に登場するのは印旛沼掘割工事くらいでしょうか。

 

しかし私はある事に気付きました。

それは何かって??

この印旛沼堀割工事が如何に幕府にとって重要な工事であったのかという事にです。

 

前にも書いていますが、印旛沼では江戸時代に3回の工事が行われています。

1724年(享保9年)、1785年(天明5年)、1843年(天保14年)の3回がこれに該当します。

しかしこの3回の工事ですが、享保と天明の工事と天保の工事では意味合いが全く違うのです。

 

享保と天明の堀割工事にあたっては、最初に地元の名主や農民からの請願がありました。

当時の幕府としても、米相場は頭痛の種の一つでしたから、解消策の一手として聞き入れます。

ただ一つ名主や農民に大きな誤算があったとすれば、幕府の財政状況が著しく逼迫していたという事。

胸中には全額とは言わなくとも、幕府が相応の経費を負担してくれるだろうという腹づもりがあったはず。

特に最初の享保9年の堀割工事は徳川吉宗公の治世で享保の改革の真っ直中。

 

「工事に賛成だけど人夫も経費も地元の名主や農民で負担してね」

 

財政状況が良くなかった当時の幕閣としては、こう答えるのがやっとだったと思います。

 

一方で天明の工事は享保の時とは違う点がありました。

まず時の権力者の老中・田沼意次の命で始まった幕府による直轄事業である事。

また江戸と大坂の有力金主の後盾による資金援助という強い味方があったという事です。

この事により、2回目にして干拓工事は成功裏に終わると思われました。

 

しかしここでまたしても名主や農民に予期せぬ誤算が生じます。

翌1786年(天明6年)の大雨災害による干拓工事への大打撃と、老中・田沼意次の失脚です。

これが決定的となって再び干拓工事は中止されます。

 

そして3度目の正直とばかりに開始されたのが天保の工事です。

天保の工事は名主や農民による請願ではなく、幕府の命に基づく国策工事でした。

幕府より次の五大名に「御手伝い普請」として命が下ります。

 

  • 因幡国鳥取城主 池田因幡守慶行
  • 上総国貝淵城主 林播磨守忠旭
  • 駿河国沼津城主 水野出羽守忠武
  • 筑前国秋月城主 黒田甲斐守長元
  • 出羽国鶴岡城主 酒井左衛門尉忠発

 

どうしてこの五大名に命が下ったのか気になったので調べてみました。

結論としては林・水野・酒井の三大名は、時の老中であった水野忠邦による嫌がらせ動員ですね。

色々と調べている内に分かりました。

 

この頃の幕府は既に”外圧”に晒されており、工事の名目は寧ろ国防に主眼が置かれました。

と書いても印旛沼で外国船を迎え撃つのではなく、江戸市中までの水路を確保する為の工事です。

そういう切迫した状況下だったので、五大名に工事を急がせたのには大きな理由があったんですね。

幕府は10ヶ月で工事を終えるよう五大名に命じています。

 

とまぁ下総国と印旛沼堀割工事についてザッと書いてみました。

ここから更に書きたい事もあるのですが、長くなってしまったので明日にします。

ありがとうございました。