「両天秤に掛ける」というと、調子の良い人の口上のようだが、なんとかして両天秤に掛けたい出来事がある。 先日、子どもの学校で、全国の盲学校PTA連合会の会報が配られた。内容は視覚障害のある子の親が行った活動の報告で、放置自転車を辞めるよう呼びかける運動、視覚障害の理解を深める啓発のポケットティシュ配り、パラリンピックに出場した視覚障害者の支援など。 そのなかに、黄色い点字ブロックの設置を促進しようという運動もあった。 4歳になる私の息子は弱視だが、道を歩くには不自由しない視力がある。それでも彼は点字ブロックが大好きで、歩きはじめたころから黄色い線を見つけてはその上を伝って歩くのを遊びにしていた。最も見えやすく、安全と思えるのだと思う。 意外に知られていないことだが、全国の盲学校に通う生徒の9割は弱視である。いかに視覚障害者のなかで全盲の割合が低いかが分かるだろう。それでは点字ブロックはその1割の人にしか役に立たないかといえば、そんなことはない。あのビビットな黄色は最も明度が高い色であり、白杖を使わない多くの弱視者にとっての目印になっている。 去年、体調不良で入院した祖父が、車いすの生活になった。車いすを押すようになって気付いたことがある。点字ブロックの点々が邪魔なのだ。点々をまたぐたびにボコボコとお尻を打つらしく、祖父の顔が曇る。 都合の悪いことに、点字ブロックは危険な箇所は沢山の丸い凸点で、方向を示すのは縦一本線で表されているから、横断歩道の渡りはじめと終わりなど、停まった車いすを押すのに力がいるポイントと、点字のボコボコの位置がみごとに重なるのだ。 車いすを押すとボコボコをもうちょっと平らにして欲しいと思う。けれども視覚障害者にとっての道しるべであることを、息子は日々示してくれる。 両天秤。どちらにとっても心地よい打開策はないのだろうか。 PTAのお便りに、1つの策が紹介されていた。 「周りを気にかけ、声をかけ、手伝ってくれる人を増やすこと。そういう優しい社会を目指すこと」。 道に迷っている視覚障害者に声をかけること、段差が乗り越えられなくて困る車いすの人に手を貸すこと。ハード面の限界は、ソフト面で補う。 さて、もう一つ両天秤に掛けたくなった。 ハード面とソフト面。どちらも向上して欲しいと願う私はワガママだろうか。

エミールの会 創作 2013.5.30

 

 3歳の息子と89歳の祖父を見ていると、つくづく似ていると思う。3歳の息子とは私の1人息子で、弱視と発達遅滞のある、体は至って元気な男の子。祖父は息子から見ると「ひいおじいちゃん」で、加齢に伴い、私たち夫婦+息子が祖父の家に転がり込むかたちになった。

私の母が生きていれば祖父の介護が直接私に回ってくることはなかったかもしれないが、母は先日7回忌を終えたところである。他の兄弟もすでに他界、祖父の兄弟は同じく高齢となると、頼るところは私たち孫、ということになる。

私は2人兄弟で弟がいるけれど、築地市場の仲卸を営む父の元で修行中の身となると、そう介護のお願いをするわけにもいかない。起きるのが夜の12時で夜中の2時から仕事をしている。日本の働く男は辛いね、とこれでは寅さんである。

そんな祖父の調子がおかしくなってきたのが昨年の7月。膝が痛いと言って自ら主治医に志願して入院した。CT、MRIと一通りの検査をしたが「加齢による膝関節症」だそうで、特別な治療はないと2週間あまりで退院になった。

9月になるとまた、祖父が「膝が痛い」「入院させてもらえるなら入院したい」と訴えだした。前回の入院で筋力が落ちたことを感じていた私は、「長く入院すると歩けなくなるから、できるだけ入院しないほうがいい」と主張し、入院に反対した。

私に頼んでも無理だと思ったのだろうか、祖父は出入りのマッサージ師にチップを払って病院に付き添ってもらい、狙い通り「入院」に成功した。

積極的治療の何もない入院である。よく急性期病院が受け入れてくれたな、と思ったら祖父が医師にチップを弾んでいた。

「歩けなくなっても知らないよ」という私の予言通り、病院での「安静」状態によって祖父の筋力は急激に衰えた。歩行器で5メートルがやっとの状態になったところで、退院の通達がやってきた。

さて、困ったのは私たち家族である。このまま1人でトイレにも行かれない祖父を自宅に引き取るか。相談したケースワーカーさんの紹介で、リハビリ病院の短期集中リハを受け、帰宅を目指す道を紹介され、そのままリハビリ病院に転がり込んだ。

このリハビリ病院がマズかった。施設は老朽化が進み、ナースも伝達が行き届いていない感じ。肝心のリハが目的と我々は目をつむったが、祖父は気に入らなかった。転院後間もなく高熱と嘔吐を繰り返し、「安静」を言い渡された。目的の「リハ」を果たせない今となってはなぜこの病院に、ということになるが、具合の悪い状態で無理に動かすのも負担がかかる。なんだかんだで「安静」の2週間を過ごし、いざ立ち上がろうとすると、もう車いすに移る筋力もなかった。

無理に立たせて転ばれても困るのだろう。リハも寝ながら足をストレッチしたり、座位で足を曲げ伸ばしする動きが中心になった。私も知らないうちにオムツ着用になり、そんな自分が嫌だ、というように本人のやる気も食欲も、生きようとする力まで弱くなっていく様子を見て、この病院もそろそろ潮時だなと思った。

少しは歩けるようになったところで帰宅しようという我々の目論みとはまるで逆効果になった今、さて、どうしようかと作戦会議を立てた。「会議」と言ってもメインは私1人で、あとは話しをうん、うんと聞く夫がいるのみである。結局、この状態で帰宅してきたら私が大変だろうと、1人で転院先を決めた。それが今入所中の老人保健施設である。

入所当時は3ヶ月程度の短期入所で、という話だったが、「次が見つかるまでは」ということで、すでに3ヶ月を過ぎているが、突然追い出される気配は今のところない。

転院する前は「もうダメだ」など弱気なことを言っていた祖父だが、新しい施設は昨年オープンしたばかりの綺麗な建物で、食べ物も美味しい。数日もすると毎食完食するようになり、最近では「ここの食事では足りない」と訴えてくる。食べる力は生きる力だな、と思う瞬間である。それにしても建物の築年数で人ひとりの寿命を延ばせるのだから、「見た目」も大事である。

雨天でなければほぼ毎日、私は息子を保育園にお迎えに行った足で老険に寄る。息子はもう勝手知ったるで、受付のお姉さんとハイタッチを交わし、エレベータに乗ると「三階です」とアナウンスを真似る。その3階に降りるとちゃんと部屋が分かっていて、靴を脱いで入室。おじいちゃんのところに行くのかと思いきや、毎日飽きることなく共用の廊下を走り回っている。

現在祖父は車いす生活も板についてきて、オムツ着用ながらトイレは尿瓶で取ってもらい、大きいときだけオムツでする。走り回る息子も、小さなオムツを履いている。トイレトレーニング中で、日中はパンツで過ごすが、たびたびおしっこを漏らす。うんちはトイレよりオムツにしたいらしく、就寝前などオムツに取り替えると、私の目からなるべく離れた部屋の隅っこのほうで元気なうんちをしてくる。

彼はやっと手づかみ食べを卒業し、スプーンフォークで食事をとるようになったが、まだまだ三点持ち(指3本を使ってエンピツのように持つ)は難しく、ひたすらグーである。それでも療育からの指示で使いはじめた柄の細い食具(大人用と同じようなかたち)を、上手に使うようになった。ところが喜んだその日に祖父の手を見ると、今度は祖父の手がグーになっている。握力が弱くなって確実に握りたいのだという。

しばらくすると祖父のリハビリ担当の方がスプーンの持ち手にミツロウ粘度を、フォークに円形の長細いスポンジをはめた祖父専用の食具を作ってくれていた。「持ち手が太いほうが安定して持てるので」との配慮である。

くしくも息子と祖父を同時に見るようになって、思うことがある。赤ちゃんが1人では生きられないのと同じように、老後はやがて誰かの手を借りる時が来る。人生をどこかにある折り返し地点で折り畳むと、ピッタリと重なり合うのが乳幼児期と要介護期なのだろう。

最初と最後に流れる時間くらい、緩やかに過ごしたい、過ごしてもらいたいものだ。