桜色の恋
ここぞとばかりに満開に咲き誇る染井吉野を背景に、女性は柔らかな表情を浮かべる。
悠大はファインダーを覗きながら、軽く息を止めてシャッターを切った。
〝カシャ〟
透き通った空に、乾いたシャッター音が響いた。
それから一年が経ち、悠大は一つだけ後悔していることがあった。
それは、別れ際に彼女の名前や連絡先が何処なのか、何ひとつ聞けなかったことなのだ。
だが、あの時の悠大にそのような精神的なゆとりなどあるはずもなく、ゆえに一年後のいま、この桜色の町を一人歩いているのである。
花見客でごった返す細い通りを歩いていると、突然、車のクラクションが何度も繰り返し鳴らされた。
驚いた悠大は、その音の鳴る方に振り向くと、その人込みの中に見覚えのある姿を見つけた。
それは、悠大が何度も何度も繰り返し見続けたポートレートの可愛らしく微笑む彼女の姿であった。
悠大の鼓動は高鳴った。
彼女は一年前となんら変わりのない優しい雰囲気を纏っていた。
悠大は直ぐにでも彼女のそばに駆け寄りたい衝動に襲われて走り出した。
人の波を掻き分けて、ほんの数メートルの距離まで近づいた悠大は、彼女が母親らしい年配の女性を乗せた車イスを押していることに気がついた。
その車イスは決して真っ直ぐに進むことが出来ずに、辛抱強くゆっくりと押し進められていた。
車イスの女性が、彼女に見えるように両手で車の存在を伝えた。彼女は振り返り車を避けるように車いすを道の端に寄せた。
車が窮屈そうに通り過ぎていく。
そんな様子に、悠大は声をかけられずにいた。
そこで止むを得ず、そっと彼女に気付かれないようについて行くことにした。
悠大は淡紅色に彩られる奈良の景観を背景に、母親であろう女性に優しく接する彼女の姿をカメラに収めていった。
彼女たちは時がゆっくりと流れていくのを楽しんでいるかのようだった。
猿沢池でにわか画家の水彩画に感嘆し、
東大寺の参道では鹿に襲われそうになり、
奈良公園でのんびりと満開の桜を愛でた。
そんな彼女たちの楽しむ姿を眺めながらも、ふと悠大には、あることが気になりだしていた。
それは、
「彼女はなぜ、あまり喋らないんだろうか?」
そのことが急に不思議に思われて、一年前のことが走馬灯のように浮かんできた。
「そういえば、あの時も彼女・・・」
そんな疑念を抱きつつも、ただ時間は過ぎていくのだった。
そのうち日も暮れだし、空の色も濃くなり始めていた。
ふいに、悠大は背後から声をかけられた。
振り返ると、そこには大柄の制服警察官二人とその傍らに見知らぬやや小柄の男性が一人いた。
突然のことに戸惑う悠大は、もう一つ自分に注がれる視線があることに気がついた。
それは携帯を片手にした彼女のものだった。
その不安げな表情が、男性の肩越しに見え隠れしていた。
どうやら、自分たちの後をつけてくる悠大の存在に気付いた彼女が、不審者がいることを兄である男性に連絡したらしかった。
その周りでは、家路に急ぐ家族たちが職務質問を受ける悠大に好奇の視線を投げかけている。
悠大がどれだけ身の潔白を唱えて、嫌疑を否定しても彼らの視線の先には、ただ怪しげな不審者が一人いてるだけであった。
悠大は自分が不審者でないことを証明する唯一の物が、背中のリュックサックにあることを思い出した。それは、満開の桜を背景に優しく微笑む彼女のポートレート写真であった。
それまで悠大を見ても全く気付く様子のなかった彼女は、そのポートレート写真を見て、一年前の出来事を全て思い出した。
そして悠大がずっと気になっていたこと
「何故、彼女はあまり喋らないのだろうか・・・」
という疑問について、一つの事実を知ることとなった。
彼女は幼少の頃の病がもとで、両耳の聴覚を失っていた。相手の話しは、口話法によって唇の動きで解釈しているのだという。
その事実を知った悠大は、今までのことに納得が出来た。
彼女と初めて出会った時のこと、そして今日ずっと気になっていた疑問のこと。
だが、悠大の彼女への思いに全く変わりはなかった。それどころか、より一層彼女への愛おしい思いが増すのだった。