出稼ぎ労働というのは古くからありましたね。過去を辿れば1968年に発表された「ああ野麦峠」という明治から大正にかけての女工哀史の話しですね。この物語は実話を下に書かれ、内容は岐阜県飛騨地方の貧しい山村から10代の農家の娘が冬の野麦峠を超えて長野の岡谷にある製糸工場で過酷労働に従事するという話しです。

 

 

      

 出稼ぎ労働というのは戦後において、良くなったかと言えば決してそうではありません。良く聞かれるのが東北地方や北海道の農村の冷害によるもので、都会に季節労働として働きに行かざるを得ないという話しです。しかし、これにも問題が無いわけではありません。戦後、日本はGHQの下で農地改革(農地解放)が行われましたが、これが、すべての大地主の所有地が開放されて、小作農家に行き渡ったわけではありません。国農家は平然と存在していた地域もあるのです。

 その多くの原因は仏教や神教にあると私は思います。また、これらが、昨日も少し触れましたが「同和(部落)問題」にも繋がっているのです。地方では寺や神社が多くの山林や田畑を所有して、手放さず、小作として分けて収穫分を取るのです。山林の場合は古木や雑木の伐採、炭焼きなども手間賃で小作農に行わせて寺の収益とするので、これが「坊主丸儲け」なのです。

 さて、1964年に東京五輪が行われ、それに伴い、新幹線や高速道路などの首都圏のインフラ事業が行われました。この事業にも多く出稼ぎ労働者が地方から集められ、ていの良い条件下で過酷労働により、インフラが整い、こうしたことにより、東京五輪が成功したのは言うまでもありません。

 この記事の最後に付け加えますが、五輪というのは常に軍事と政治が絡みます。1964年の東京五輪では選手村を米軍基地の一部を借り受けて利用されました。

2021年7月22日

船橋市海神:弓場清孝