わが師、尾上氏を悼む | やせ我慢という美学

やせ我慢という美学

夢はきっと叶う ひとつだけきっと叶う
そのために何もかも失ってかまわない
それほどまでの夢なら叶う
一生にひとつだけ
夢はきっと叶う 命も力も愛も
明日でさえも引き換えにして きっと叶う

大学を出て一年間ブラブラしていたところをコネ入社した先が市内西部にある障がい者の入所施設だった。その施設長が尾上さんだった。僕と20歳、年の離れたこの人にぼくは随分ひいきにされた。一年後には指導主任に任命された。仕事ができたんだ。(自分で言うな)年上の同僚からはかなりいじめられたし、同期入社した奴らからもひがまれた。仕事ができる奴は辛いんだ。(また自分で言う)それでも僕を引き上げてくれた恩を感じて僕はこの人のために頑張ろうとずっと思いながら働いた。考え方が柔らかで革新的で行動的で、障がい者のボランティアサークルを一緒に作っては休みの日は方々へ出歩いた。金銭に清潔で、不正を何より憎んだ。勉強家であらゆる文献を読みこなしていた。福井達雨、近藤原理など有名な障がい福祉の開拓者を姫路に呼んで講演会を開き、その後深夜まで飲み明かしたこともあった。よく一緒に泊付きの出張に行った。結婚式の仲人を快く引き受けてくれた。

働き出した頃、学生時代の素行をわざわざ姫路の警備警察が職場に来て福祉法人の理事長に告げ口するという今では考えられない違法な個人情報をまるまる入れ込んできたのをいい事に「そんな赤い色のついた職員はいらんで、尾上さん」と理事長が園長の尾上さんに何度も何度も圧力をかけたが、そのたびに尾上さんは「思想信条は何でもいいんです。あの子は一番仕事ができるから三恵園に必要なんです」と理事長に言って体を張って僕を守ってくれた。きっと板挟みになって辛かったろうに、ずっと味方をしてくれた。この人のためにぼくは命かけて頑張りたかった。

6年は頑張ったが、自分の夢を追うという名目と共に職場を去った。これ以上、尾上さんを苦しめたくなかった。その一年後に尾上さんもその職場を去った。もうしんどすぎて体力の限界を感じたと言っていた。

ぼくが無認可の作業所をつくるのを誰よりも支援してくれたのも尾上さんだった。物心共に支えてくれた。起業を不安がるうちの両親にも尾上さんは我々の仲人という立場から説得してくれた。

出会いから40年。ずっとずっと僕はこの人に支えられて生きてきた。節目節目に出会って施設見学したり、お茶を飲みながら福祉のことや世の中の不条理を話したり・・・今年の春まで一緒に行動していたのに、6月頃から音信が途絶えた。どうしたんだ、と思いながら、また、いつものように近いうちに長い電話がかかってくるだろうと、呑気に構えていた。尾上さんが死ぬとは思わなかった。今日、長女さんから訃報が届いた。『自分が死んだらこの人たちに連絡して欲しい』というリストが五人あり、一番最初に連絡してくれたとのこと。それを聞いてむせび泣いた。

まだ、心の整理ができていないが、尾上さん無くして今の自分はない。まったく存在しないんだ。

そんな人が亡くなった。去年の12月24日に…。