太宰の「正義と微笑」は高校時代のぼくのバイブルだった。
「なんじら断食するとき、偽善者のごとく、悲しき面容(おももち)をすな。彼らは断食することを人に顕(あらわ)さんとて、その顔色を害(そこな)うなり。誠に汝らに告ぐ、彼らは既にその報いを得たり。なんじは断食するとき、頭(かしら)に油をぬり、顔を洗え。これ断食することの人に顕れずして、隠れたるに在(いま)す汝の父にあらわれん為なり。さらば隠れたるに見たまう汝の父は報い給わん。」
というマタイ伝六章のイエスの言葉が随所に繰り返される。この言葉を呪文のように、お経のように暗唱していた
「微笑もて正義を為(な)せ!」・・・いいことをいかにも「してます」というふうな顔をするのは止めろ。その時点でおまえはアウトだ、神の祝福さえ受けることはできない、苦しくても平気な顔をしていろ、とずっと自分に言い聞かせていた。
小さい頃から目立つの大好きで他人に実物より大きく見せたいと思うことに腐心してきた人生だった。今も基本は変わらない。他人に「いい人」「すご~い」って言われたくて仕方ない性格は変わらない。
太宰はぼくにとっての正義だった。
「斜陽」の一節にかず子が上原に送った手紙の一節・・・「マリヤが、たとい夫の子でない子を生んでも、マリヤに輝く誇りがあったら、それは聖母子になるのでございます。私には、古い道徳を平気で無視して、よい子を得たという満足があるのでございます・・・」
かず子が上原の子を身ごもり、私生児として生む決意を表す言葉。まだ長々とこの手紙は続いた。十代だったぼくはかず子の生きザマに惚れていた。まだ童貞だったけど(関係ないか)
時々、気が向けばパラパラと読み直して元気にしてくれる太宰。
太宰が苦悶していた自分の姪っ子に宛てた私信「・・・自分の心さえ優しければきっといいことがある。それは信じないといけない・・・」
すねたろか、と自棄を起こしそうなときはこの言葉を心の防波堤にする。
今日もつぶやいていた。今日も苛立っていた。