雨の日と月曜日は | やせ我慢という美学

やせ我慢という美学

夢はきっと叶う ひとつだけきっと叶う
そのために何もかも失ってかまわない
それほどまでの夢なら叶う
一生にひとつだけ
夢はきっと叶う 命も力も愛も
明日でさえも引き換えにして きっと叶う

カーペンターズの名曲「雨の日と月曜日は」を運転しながら聞いていた。心に沁みる。カレン・カーペンター、死んでしまってずいぶん経つ。


訳詩・・・


♪ おかしな話だけど 私がすべき事は
たった一つしかないみたいね
それは、ここを飛び出して
私を愛してくれる誰かを見つけることなの

前にも、こんな感情が私の中で
浮かんだり消えたりしたわ
だからといって
それを口に出して言う必要もない
だって 何も言わなくても
わかるでしょう

ぐずぐずと 
眉間に皺を寄せて 嫌な顔して
他には何もすることがない
雨の日と月曜日は いつも気が滅入るのよ・・・♪


ほんまになあ、そのとおり。雨の日と月曜日は気分が乗らない。

日常の生活に何かが足りない。感謝と愛が足りない。


☆仕事終わっても雨の日は走れない。月曜日は近くのトレーニング室も休み。

仕方がないから読書2時間。宮本輝「泥の河」。もう30年間で5回は読んでいる。ぼくの愛読書。小栗康平の映画もよかった。

人には言えない過去の記憶が誰にでもある。「人間の持つ哀しみ」を子どもも背負っていく姿。どう表現していいのかさえわからない運命とか宿命とかに翻弄される子ども、大人。

時代の繁栄から取り残されていく人々を半ば、怒りにも似た思いを抱きながら読む。ああ、痛切。時代から取り残されていく人々をぼくは貧乏人の一員としてものすごく共感しながら読んできた。「人には優しくしないと・・・」そう思わせる。



※ この仕事は「サービス業」だと言われて久しい。そんな風に思ったことがない。なんかいかにもとってつけたような、いかにも「やっていることに心はこもっていませんよ」と宣言しているようでいや。泥臭さが微塵もない。「金儲けと割り切ってやってます」・・・・そんな福祉はない。やめろ。

ぼくは「格闘技」や「武道」に近い職業だと思っている。へらへら笑いながら「お客様、いらっしゃいませ」なんていう精神でこの仕事が務まるわけない。ぬるいわ。

ていねいにもほどがある。中味が空っぽの奴がすぐこんなことを好き好んで言う。

医者が患者を診る時のような冷静さを保ちながら、相手の動きから一瞬たりとも目を離さないで対処する身のこなし方集中力が求められる。


「ふれあい」なんていう恥ずかしい言葉もこの業界は大好きだ。

「ふれあいの祭典」「ふれあいの旅」「ふれあいスポーツ大会」「ふれあいバザー」「ふれあいコンサート」「ふれあい喫茶」などなど。そんな言葉を嫌悪する。ふれあってばかりで嫌になる。どこか「ふれあい牧場」とか「ふれあい動物園」に相通じるものが見え隠れする。決してぶつかり合おうとしない現場でなにが生まれるというのか。

障がい者の頭をなでなでして「よし、よし、いい子やねえ」とかいうあの発想。現場を知らない役人が机上で考える福祉は得てしてそういうものが多い。

本来の目的である、その人に寄り添って発達を促すプログラムを・・・そんなことどうでもいいような雰囲気がある。

一番大事なことは一日、何ごともなく、ケガなく無事に過ぎればいい、という発想でなんかぬるくやっている人が多すぎる。その結果、手のかかる、「よしよし」と頭撫でようとしたら噛みつきにくるような人は敬遠する施設が増えた。

もう、堂々というから困る。「うちはこんな重い人には対応できません」って。もう、この仕事やめろやめろ。ぼくは本気でそう思う。

ど素人は出ていって欲しい。

気色悪い笑顔もいらん。馬鹿丁寧な言葉づかいも意味がない。不愉快になる。普通に人間らしく働ける職場であり、障がい者の自立や成長を中心に据えて働ける職場でありたいと願う。

最近、首からネームプレートぶら下げて仕事している現場のスタッフも多くなった。あれ、邪魔。なんせ格闘技の世界にあんなもん、凶器になって傷つけてしまう武器になる。あのひもで首絞められる時がある。そうか、そんな人いないからいいのか。

サービス業ではない、と何度も繰り返し確認しながら仕事に取り掛かる。

頑張るのはお金のためではない。それが人生の一コマだから、「遊び」の延長としての仕事だ、だから、一生懸命に真剣にやる。


雨の日と月曜日は考え方がやたら攻撃的になる。いけない、いけない。

穏やかに行こう。いい人指数ガタ落ちやで。


☆先日来FBの、ある人の(ある人といっても一人しかいない)写真を見ていて、2年前の残酷マラソンの写真が貼り付けてあって、あまりの美しさにぼくは毎日それを見とれて眺めている。