内田樹の「せんせいはえらい」の中にこんな箇所がある。
「自動車教習所の先生とF1ドライバーの話し」
なぜ教習所の先生は自動車運転という極めて有用性の高い技術と交通法規と言う価値のある情報を時間をかけて伝授してくれたもかかわらず「恩師」になりにくいのか。卒業後、生徒たちは集まって同窓会をしたり、先生を慰労したりしないのか。
逆に仮にF1ドライバーにたった半日講習を受けただけの受講生はおそらくそれから50年くらいずっと「おれはアイルトン・セナからドライブテクニックについて学んだことがある。セナは俺にこう言ったんだ“アクセルは踏むんじゃない・・・触れるんだ”」とか言って遠い日を懐かしんだり、自分の子に自慢したり、ものすごくありがたがったりする。言っていることは極めて普通のことなのに・・。
一体この差はなんなのか?両者の差異は奈辺に由来するのか・・・という話し。
教習所の先生は「これでいい」という“完結した技術”を教える。
対してF1ドライバーは「先には先があること」を教える。そして何より“この人は自分の知らないことをきっとたくさん知っているに違いない”という得体の知れなさ、勝手な思い込み、それが「えらい」と思わせるようになっている。
「先生はえらい」と感じるところから学びは始まる。教えてもらうのではなく学ぼうとする。
先生への敬意は伝える知識や技術の有用性ではなく、たとえ、自分はそれを実現できなくても、目指している境地の高さ、目標の高さが生徒たちのうちに敬意を醸成するのだ・・・という話し(だったように思う)
何をやってきたのか、ではなく何をしようと思って生きてきたのか、生きているのか、そのへんが人として一番大事なこと。
理想主義者を『絵空事のようなこと』『一切現実的でない』などと言って笑うでない。夢のない現実主義者が一番質が悪い。誰の尊敬も集めないばかりか「あなたは何のために生きているのか」と他者からも自分からも問い詰められるだろう。
人はいくら年をとっても夢のような「空文」と「絵空事」を語らないといけない。
