decent

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夢はきっと叶う ひとつだけきっと叶う
そのために何もかも失ってかまわない
それほどまでの夢なら叶う
一生にひとつだけ
夢はきっと叶う 命も力も愛も
明日でさえも引き換えにして きっと叶う

なんかねえそれがダメなんよね。偏差値の平均値のような生き方がいい、と思うそれがアカンねん。

一人ひとりの人生って一つの物語で、死んだら一冊の本になっている、と仮定しよう。

そこそこうまくやっている生き方って、その物語の何が面白い?人生の途中経過に何もないやん。適当に遊んで、適当に仕事して、世間体を気にして外見のきれいな人と結婚して、生まれてきた子どもには自分たちができなかった夢を託して共依存で支配して、定年までソツなく、波見風立てず働いて、社会的な正義感もなく体制に順応して凡庸この上ない「賢い」正義を貫いて、うまく世の中渡って、友達にも恵まれて、いつも間にか死んで行ってました・・・って言われても読むほうは退屈過ぎて魅力なさ過ぎて苦痛でしかない。そんな人生の物語を最後まで読む人はいない。そんな本焼き捨てる。時間の無駄だから。

死んだ自分の一生が一冊の本になって自分の人生の物語を手に取った時、こんな恥ずかしくて恥ずかしくて読みたくもない、というような物語にはしたくない。その思いが今の退屈極まりない同じことの繰り返しの日々のルーティーンを支えている。今、楽しいからやっているのではない。死後出版される自分の物語の中味を楽しい読み物にするためにやる気を出して頑張っている。

きっとみんなそう。他人を蹴落としてでも自分の利益のためだけに生きてきました。ってそんな中味にしたくない。

極端がいい。上か下か。闘うのか闘わないのか、その中間は要らない。そのどちらかでいい。

若い人を見ているとそうしてもっと頑張らないのか、と思うことはたくさんある。」彼らの中に死後の物語を完成させるという思いがないからだろう。そんな気がしてきた。

その物語には他人には言わなかった内証もあるし、人知れず行ってきた善行も蛮行も書かれている。

そんなもの誰も見ていないから、という人生送っていると物語の中味がもうどうしようもなく下品になるしかない。

そうしないための毎日だ。

ううん、色々あるけど(いろいろあるから人生は面白いんだけれど)その人生を彩ってくれるはずの色々に疲れ果ててしまうことってある。

「いろいろあるけど、頑張って乗り切っていこうぜ」という元気が出ない。そういう時、究極の状態に置かれて、命の危険が目の前に迫ってきて、それでも最後まで命と引き換えにしてでも前を向いて生きていった先人たちを思い出そうとする。昨日はヒットラー暗殺計画を実行して未遂に終わったナチスの将校たちを見て自分を奮い立たせていた。大谷翔平なんぞ足元にも及ばないし。ワールドカップの喧騒などハエが鳴いているようなもんだ。そういう姿に感動などするな。頼むから「感動した」とか言うな。

今の時代がしんどいのは、「未来が見えない」からだ、というより「未来がを見ようとしない」からだと思う。僕は毎日、ほんとに毎日、「死ぬこと」というより「死んだあとの自分」というものを考えている。生きている間の瞬間瞬間はそれがどういう意味か分からない。ただ、時を経て「あ、あのときのあの行動はここに結び付いたのか」ということが後からわかる。すべてそうだ。青春時代だけがその良さが後からわかるものではなくて人生すべての意味は後からしかわからない。「自分はどうしてこの人と一緒になったのか」今考えてもわからない。絶対に答えは出ない。現在進行形の感情を整理して俯瞰してすべてが終わっていないときに検証するのは無理だ。

「生きる意欲」は「死ぬことへの覚悟」と同じ意味だ。僕が言う「未来が見えない」という文脈の中の「未来」は「死んだ後のこと」と言い換えてもいい。

「生きることの意味」が身に沁みて感じないのはきっと「死ぬことの意味」についてまだまだ深く考えていないからだ。現にお金が欲しいと思い、いい生活がしたいと思うし、カッコイイ異性とときめきたいとも思う。その心の奥には「死んだらそんなもの何の価値もないのに」という本質をまだまだ実感として捉えていないからだ。

そういう世俗の垢にまみれながら生きているうちは人生を前向きに…というのは無理だろう。

そんなに遠くない時期に僕はどんな風に老化し、衰え、耄碌し、徘徊し、試行錯誤し、病み衰え、どんな最期を迎えるんだろう。そんなことをもっともっと考え、想像し、そのためにこの瞬間どういう生き方がいいのか、想像することだ。まだ想像力が足りないんだ。そんな死ぬことなど忘れてその日その日を好きに生きよう、という人を僕は全く信じない。繰り返し繰り返し、死んでいく自分を想像することだ。それしかない。生きるのがしんどくなるのは「死んでいく未来を見ようとしないからだ」そう思う。目先のどうでもいいことに心奪われてばかりいて、もうすぐ死ぬことを忘れてしまった毎日を送っているからだ。

毎日が愛おしい・・・・本気でそう思いたいなら明日死んでも後悔しないぐらいのエネルギーを今使おう。

遅かれ早かれあなたも僕も土に帰る。

人は死ぬ。今、生きているうちにできることはなんだろう。失敗しても死ぬだけのことだ。大したことではない。

ヒトラー暗殺計画 (5) ナチス人民法廷

僕は高校時代からナチスの蛮行、とりわけ強制収容所の本や映像を結構目にしてきた。この映像は見るたびに身が引き締まる。人間の尊厳とか、良心とか何のために生きているのかとかを考えさせられる。

こんな生き方がしたいと思いながらできそうにない。

ヒトラー暗殺計画を企てて処刑された数百の良心的ドイツ人がいたことも忘れずにいようと思う。日本にも戦争中、事実上生命刑に等しい長期投獄、身の毛もよだつ拷問で虐殺された幾多の愛国者がいたことを忘れずにいようと思う。「戦争反対」と言っただけで殺された時代に勇気を振り絞って反抗していった人たちに気高さをどうして嘲笑することなどできようか。中には未だに「共産党は人殺し」と叫んだり、書き込んだりしている恥ずかしい人種がある。本当に人民を守ろうとしたのは誰なんだ。考えて欲しい。

 

もう死刑になることがわかっていながら、ヒトラーの蛮行を糾弾し、裁判長にまで大声で罵倒されながら自説を曲げないこの人たちの勇気に僕は勇気をもらう。いったい自分の人生は何だったのかと。

この逃げない顔。うつむかずにしっかり前を向いて正義を主張する世界で一番素晴らしい凛々しさを胸に刻む。

必要なのは優しい笑顔ではない。逃げない顔だ。

 

 

 

『未来のある時点までにそれはもう完了しているだろう』という言い方をよく使う。それが未来完了形。

『〜してしまっているはずだ』と未来がほぼ確実に予測できる時に使う文。

僕は僕の人生をいわば未来の自分を予測しながら、間違いなく失われ、喪失していく自分を残酷に見つめながらその自分の物語を眺めている。

『未来のある時点』とは自分が死んでいくその時でもある。その「ある時」がそんなに遠くない時期であることも日々感じながら息をしている。

老年を生きるということはほとんど残酷なことである。「もうすぐ死ぬんだ」と否が応でもに認めざるを得ない状況下に置かれている。

『あと10年後には働いでいないであろう自分』『あと20年後には体が十分動いていないであろう自分』『あと30年後には死んでいるであろう自分』『あと40年後には生きている者でさえ誰一人振り返りさえしていないであろう自分』

 

もうそんなふうにほぼ予測できる未来の中に自分の毎日がある。

毎日、顔を洗い、歯を磨き、健康に注意し、ご飯を食べ、ランニングし、政治に怒り、不正に怒り、仕事のことで悩み、人間関係で悩み、居場所のないことにイライラし、好きな人のことを考え、子供や孫のことに悩み喜び・・・毎日生きていく中でそれらを重んじるのはそれらが必ず失われることが確実だからだろう。自分の命を愛おしいと思うのはそれがこの瞬間も一秒一秒喪失していっていることを自覚しているからだろう。

「まだ生きている私」を毎日自覚しながらこの私は「間違いなく死に向かっている私」でもあることを知っている。「未来完了形」という視座を有する人間だけがまもなく迫ってくる「死」を思い、自分が死んだ時に「その瞬間に立ち会っている」かのように俯瞰して見ている自分を見ている。残酷である。

ただ、「火の鳥」のように不死の存在なら人生は色褪せてしまう。死ぬから、儚いから人生は価値を持つんだろうなあ。けど、残酷だ。

死にゆく道、という一択しかないこの先のレールに乗るしかない。そしてそれは具体的な未来完了形の中にタイムテーブルに上がってきている。

考えてみてくれ、10年前なんてついこの間のことだ。20年前なんて昨日のことのように鮮明に覚えている最近のことだ。それと同じ時間が経過したら、僕は今のままの僕とは全然質的には違う機能低下の生を生きている、もしくは死んでいる。

何を毎日そんなに恐れているんだ。毎日だ。誰もかれもだ。何もかもだ。片時もだ。もう怖い人ばかり。怖いことばかり。その反動で暴れたくなる。予定調和を乱したいと思う。

落ち着く場がない。しいて言えば事務所のパソコンの前だけが心の中のベッドルーム。

近い嘗て、遠い嘗て、ぼくは自分の愚かさ、至らなさ、幼さ、未熟さ、傲慢さゆえに立てなくてもいいさざ波を大きく大きくしながら周りを不快に思わせながら生きてきた。その時のトラウマが疼く。他人と対立することの後始末のしんどさをことが始まる前から考えてしまう。ぶざまでしんどくて・・・そんな思いをしたくないがゆえに何もしない人間になってしまった。

覚悟を決めて死んでもいいと思うぐらいの勢いで頑張らないと。ホントにそう思う。

これだけ面白みのない人生に落ちぶれてしまうと何の発信することも無くなる。

しかし、面白みのない自画像が鏡に映っている。堪えられないぐらいに。

 

しかし酷い話だ。

これは他人事ではない。

我がことである。

ただ怯えることではない。

どうしたらこの落とし前をつけられるのか、だ。

人殺しやないか。

 

 

いつも思うんだ。自分だけ幸せになってはいけない、と。

みんなで幸せな状況にならないとね。

他人をほったらかしにしておいて、自分だけいい思いをするなんてダメですって。

他人の不幸を一緒に悲しもう。他人の怒りに一緒に怒ろう。他人の淋しさに一緒にいて励まそう。

「今この瞬間自分が生きていると思っているこの自分の心は幻想なんじゃないか」と思う瞬間がある。

命はリレーしていくものだ。次の世代はまたその次の世代へ・・・それがつながって人類は続いていく。よりよき未来へリレーしていくためにも今生きている僕たちにできることを最大限努力しようとする人は一定数いないと人類は滅びる。少なくとも経済学的に正しい、というようなことをやっていったら一刻の猶予も許されない環境問題など解決できずに人類は滅亡へ一直線に進むだろう。「今の自分の幸せが大事」とか、「自分の好きなことを優先して行う」のが自分の生き方、とか「目の前のことが忙しくて環境問題とか戦争のこととか考える余裕がない」という人が結構いるけれど、そんなことやっていたら本当に人類は滅びの方向へ行ってしまう。そうなると自分の幸せも何もないんだ。

結局自分第一に考える人が多くなるということは自分の幸せにさえたどり着けないうちに死んでしまうことになるということを考えないということになる。

老後は楽しく過ごしたい、という気持ちはわかるがそうこうしているうちに戦争が始まってしまうかもしれないし、凶暴な資本主義社会は全生物の命である地球環境を破壊してしまう恐れだってある。

ぼくは目先の幸福や自己利益を追求する生き方が好きでない。それは利己主義だからである。世の中の矛盾を見ないようにして、自分さえよかったらという世界に入り浸っていたいという偏狭な自己中心主義が人類の進歩に損害を与えてきた歴史を今もう一度振り返るべきだ。

死ぬまで世界平和と環境問題と差別偏見のない世界のために生きたい。

休みは要らない。堕落した無駄な時間を過ごすくらいなら闘いの中に身を置きたい。太ったブタとして生きるよりも人類の進歩のために死んでいく変わったジジイとして最後まで生きていたい。

 

突き抜けた仕事には必ず「強固な基礎」がある。基礎を徹底的に学ぶことがなかった人間がどんな見せかけの仕事をしても全部ニセモノでしかない。なぜか?血が通っていないからだ。特に障がい者支援の仕事なんて相手の痛みや苦しみを理解し、一緒になって地獄を見ようとする意志のあるなしにかかっているからだ。基礎と格闘せず、現実の世の中の問題と遊離して障碍者問題を語ったり、障がい者の置かれた在りようを論じてもそこには一切の重みや真実性がない。

基礎と格闘することだ。真剣に学ぶものだけが真剣にたたかわざるを得なくなるし、真剣にたたかうものだけが真剣に学ばざるを得なくなる。その基本的な弁証法がわかっていなくてこの仕事が十分できると思っている人が多すぎる。障がい者とその家族に共感しろ、とは言わない。むしろ共感は邪魔な時が多い。

本を読まないスタッフが増えた。

専門書を1ページも開かずに障がい者支援ができると思うその頭を何とかしないといけない。考えない人がたくさんいるからたくさんのマニュアルがいる。本当は基本を越えて自分のオリジナルのやり方で勝負しないといけないのに、いつまでも基礎がないから突き抜けたことができないんだ。ピカソの絵が確固たる基礎デッサンの上に成り立っているように、基本がない人間がいきなりオリジナリティのあることなどできやしない。

運もよかったけど、僕はこれほどの努力をしてここまで来た。その礎は本をたくさん読んできたこと。休日にはたくさんの施設見学や講演会に自費で出かけて行ったこと。多くの先達の話を聞いてきたこと。

イライラしながら僕は死ぬまで、後輩が決して追いつけないぐらいの本を読んで突き抜けた実践をしたいと今でも真剣に思っている。

よく言うでしょ。

『これからは自分が動くのではなく、人を動かさないとだめだ』って。ウソですよ。そんな楽したらあかんで。圧倒的に努力するんです。少なくとも現場の感覚を忘れては勝負にならない。楽な方へ行ったらアカンねん。

「自分はまだやれる」と現場に降りて行って実感することが死ぬまで大事で、仕事のモチベーションになる。名誉とか金銭などのご褒美が欲しいから仕事をしているわけではない。そんなことを思いながら生きていたら仕事のみならず生きていくためのエネルギー弱めてしまう。「机上」っていうその姿勢がだめです。降りて行かないと。

そして何か大きな仕事を終えたら、黙って次に取り掛かる。「まだやれるやん」と自覚すること。そして「よし、次も頑張ろう」と思うことだけが正しいし、うれしいし、仕事の醍醐味だ。他者から何も期待しないこと。

「この仕事ってうまくいくかなあ」の連続で過ぎてきた。ぼくは「極端」「無理」と世間が言うことに無謀に挑んできた経緯がある。無認可でほぼ収入がなく、職員も夫婦二人(途中家計を支えるため一人離れて一人で全部やった)、利用者は強度行動障害多数、場所は自宅と兼用、収入ないから深夜、早朝、休日のアルバイト、その上、緊急一時保護事業、乳飲み子抱えて・・・今から考えたら(今から考えなくても)無謀の二文字しか思い浮かばない。けど、死なずに、やってきた。基本は無償だったからだ。

今の若いスタッフに言ってはいけないことばかりやってきた。

とにかく働いた。褒めてもらうためではなく、評価されたいためでもなく、何かにせかされるように働いたという事実だけは本当だ。

 

今のゆめさき舎ブランドはその当時の名残りで輝いている。

「重度者はとにかくゆめさき舎に相談しよう」と支援学校の進路教諭が言ってくれるまでになった。障害福祉のそれなりの地位についてる幹部がそういってくれるまでになった。

「極端」なことをやってそれらをやり通してきた姿勢が卑しくはなかったからこんなに高い評価をもらえていると思っている。

しかし、これから「とてつもない圧倒的な努力」を望むことはない。困難に打ち勝っていくにはこれからどうすればいいんだろう。それがわからない。

(大竹まことゴールデンラジオから)

高市早苗首相の政治家としての原点となった元・米連邦議会立法調査官という経歴詐称。実はその前に隠れていた悪質な経歴詐称が発掘された件!

大竹まことさん「高市政権を適菜さんはどんなふうにご覧になっているのかうかがいたい。対米、対中、対イラン、医療、経済、憲法と問題だらけですけど」

適菜収さん「最近、驚いたことがあって。高市さんっていろいろな問題を起こしてますね。総務大臣のときの電波停止発言だったり、週刊文春が報じた総裁選で対立候補を中傷する動画を作ったり、あとはサナエトークンだったり、統一教会の問題だったり。なんでこんな人間が政治家になって、ついに総理大臣になってしまったのかって」

「これが不思議で高市さんの過去を調べていくうちに、とんでもないことがわかったんですね。高市さんが最初に立候補したときから、経歴を詐称していること、米連邦議会調査官だと経歴を詐称していることは、政治に興味のある人は、みんな知ってますよね」

「実はその手前の話があって。大宅文庫(公益財団法人・大宅壮一文庫)で、過去の新聞記事や雑誌の記事という資料をどんどん読み込んでいるうちにとんでもないことがわかったんです」

「高市さんは保守でも何でもないんですが。保守の要素はひとつもないんですが、保守の仮面を被ることによって政権の中枢に近づいて行ったということが確認できたんですね」

「そのために高市さんは保守という体裁を整えていった、保守の衣装を作っていたんですね」

「高市さんは1988年1月から1989年3月まで、民主党所属のパトリシア・シュローダー下院議員の事務所にいたんですが」

「なぜその職を得られたのか、いろいろ調べてみると、下院議員の事務所に虚偽の経歴を書いた履歴書を出していたんです。肩書を得るためにもぐりこんだ事務所に入るのに、嘘の肩書を書いていたわけです」

「1992年の雑誌なんですが、高市さん、高校時代、校則で禁止になっていたバイクに乗っていたとか言っていますが。そこにシュローダー議員事務所に入り込む経緯について説明しています」

「高市さんは『シュローダー議員に、私を雇ってくれと、履歴書とかいろいろ書いたんだけど、私の英語力って大したことなかったから、その頃つき合ってた男がすっごく英語ができる男だったんで、ずいぶん添削してもらった。私、自分は日本の軍事問題の権威だって、ウソ書いたの』と言っています」

「昨年9月の総裁選出馬会見後、高市さんは記者から経歴詐称疑惑を問われ、『私が米国連邦議会のコングレッショナル・フェローであったことは事実でございます』とごまかしてますよね。実際には、下院議員事務所でインターンとして滞在し、雑務を担っていただけなのに。日本人は英語がわからないだろうと思ってなめてるんですよ」

「とにかく目立ちたい、自分が好きで、好きで、好きすぎなんです。極めて異質の人です」

「こういった発言で分かるように憲法なんて読んでないんです。憲法は国民ではなく、権力者を縛るものという小学生レベルの学もない」

「トランプに抱きついたり、ぴょんぴょん飛び跳ねたり。外交ができないから、ごまかしてるんです」

「靖国に行くと言って行かない。だまされやすい人間をだまし続けてきた詐欺師です」(文化放送『大竹まことゴールデンラジオ』から書き起こし)

 

この国の総理大臣ってすごい人なんや。