自分が関わった映画が二本続けて公開されます。一本は脚本を書いた「結婚」(6月24日公開)、もう一本は監督・脚本の「世界は今日から君のもの」(7月15日公開)です。今回はこの二本の映画の脚本について書いてみたいと思います。
自分にとってこの二本の大きな違いは、「結婚」の方は原作もので脚本の依頼を受けて書いたもので、「世界は今日から君のもの」(以下、「せかきみ」と略します)はオリジナルで、自分が監督するために書いたものだということです。
どちらが難しかったかというと、「結婚」の方です。井上荒野さんの原作は連作短編というような形式のもので、映画にするには原作をほぐしてひとつの物語にして行く作業が必要です。もちろんその過程で原作の本質を壊さないようにしなくてはいけません。
またこの作品はディーン・フジオカさんが主演することが決まっており、主人公の古海を彼が演じたときに魅力を放つようなキャラクターにしなくてはなりません。つまりある意味では自分の外に存在するものを取り込んで、咀嚼するようなことが必要なのです。これは原作ものをやるときには一般的なことです。
結果的には井上さんもディーンさんも脚本に対してOKしてくれたので、うまく行ったのではないかと思います。
一方、「せかきみ」は、オリジナルだし、自分が監督する前提だし、割と気軽に書くことの出来る作品です。しかも主人公は心情的に自分の分身のようなキャラなので「このシーンで彼女はどんな気持ちだろう」などと考える必要はほとんどありません。
だから脚本を書いたときのことを思い返すと、「結婚」の方は打ち合わせで話したことなどを割と詳細に思い出すのに対して、「せかきみ」の方はほとんど思い出すことがありません。「せかきみ」は監督するということが自分にとってまだ非日常なので、そちらの記憶が強烈過ぎて、脚本を書いた記憶がその分薄れてしまったということもあるかもしれません。
ここでちょっと脚本教室にみたいな話になりますが、先日教室の生徒に「どうすればその人物になりきって描くことが出来るんですか」と聞かれました。「せかきみ」の方は自分の分身のようなキャラなので、「なりきる」ことは簡単です。
では「結婚」の古海はどうでしょうか。ディーンさんのような二枚目で女性をだますキャラになりきれるのか。無理です。
では脚本家は自分と全然違うキャラをどうやって書いているのでしょうか。改めて考えると「そう言えば、どうやってるんだっけ」と考え込んでしまいます。ひとつ言えることは、なりきることは無理でも、理解するとか、愛することは出来るということです。
ただ、これは僕の場合なので、どんなキャラにも「なりきって」書くような脚本家の人もいるのかもしれません。たぶんこういうタイプの違いは俳優さんにもあるのではないでしょうか。
ところで全く違うように見える「結婚」と「せかきみ」ですが、共通することがひとつあります。両作とも主演が決まった上で脚本を書いたということです。特に「せかきみ」は門脇麦さんでこのお話をやりたいというところから全てが始まった作品です。
結果として、両作ともこの人以外の主演は想像出来ないという作品になったと思います。
[尾崎将也ブログ「カントクのお仕事」 2107年5月23日]
「世界は今日から君のもの」
監督・脚本:尾崎将也
音楽・川井憲次 主題歌・藤原さくら「1995」
出演:門脇麦 三浦貴大 比留川游 マキタスポーツ YOUほか
上映時間:106分
配給:アークエンタテインメント
7月15日(土)から渋谷シネパレスほかで全国公開
予告編