月刊誌『北方ジャーナル』の2017年9月号からエッセイを書いてます。

1年一区切りということで全12回くらいにしようと執筆当初から考えていて、さきほど最終回(2018年8月号掲載予定)の原稿を書き終えてホッとしているところです。

 

今回、編集長の許可を得たのでこれから不定期でそのエッセイを掲載時の画像と原稿(加筆修正の可能性アリ)をこのブログでアップしていきたいと思います。

 

その前になぜエッセイを書こうと思ったか。

 

2017年はいろいろなことがありすぎました。

僕は精神的にかなり参っていました。

僕は社会人になってから物を書いて生きてきました。

今置かれている状況は書いておきたいな、と職業人として思いました。

また、どこまでいっても書かないと考えが整理できない人間というか、書かずにいられないと感じていました。

僕が長年籍を置いている北方ジャーナルでは、これまでいろんな記事を書いてきましたが、私的なことを書くことには少々抵抗がありました。

そこで、私的ハンドルネームである「まさぼん」で今の自分の状況を書いて、僕と同じような世代の人たちに何か伝えられないかと編集長に相談しました。

編集長は「好きにやってみなはれ」と快諾してくれました。それがエッセイをこの書き始めた経緯です。

エッセイでは僕と妻のことを主に書いてますが、最終回を前に妻が「この記事、とっておいてある?」と言ってくれました。僕はこれまで長年書いてきた記事を途中まで取って置いたけど、その量に辟易してこれじゃあキリがないと、雑誌や書籍そのものはもちろん記事のスクラップもすべて処分することにしていました。ブログにアップしたらデータでなら取っておけるかもしれないね、と話したら「それならこの病気のこともいろんな人に知ってもらって何か感じてもらえるかもしれないね」と言ってくれました。エッセイを書いてよかったなと感じました。それが今回、このブログにエッセイを転載する経緯です。

 

前置きが長くなりました。

では、そんなことで第1回、こちらになります。

第1回

 

「乳がんです」

 2017年7月14日、妻の診断が確定した。

 診察室で担当医師がパソコンのディスプレイを見て、ときおりこちらに向き合いながら淡々とさまざまなことを話していた。しかし、不思議と何を言っているのか耳に入ってこなかった。すぐ傍にいる妻の様子さえうかがえなかった。自分のことで精一杯だった。

 しっかりしなければ。男であり夫である自分がしっかりしなくてどうするんだーー。そんな思いが力なく頭の中をくるくると回っているだけだった。

 

妻は乳がんと縁遠い人だと信じていた

 

 僕(41)と妻(42)は結婚して17年になる。「ポスト団塊ジュニア」と呼ばれる世代の前半で、大学卒業と同時に就職したのは超氷河期と呼ばれた2000年。就職とほぼ同時にインターネット時代が到来し、08年には世界同時不況も経験した。僕らの世代には非正規雇用から抜け出せない人も多く、同級生には浮気など浮わついた理由ではなく、夫の失業・不労といった経済的理由による離婚が多い。

 将来への不安や生活防衛のために独身を選ぶ人や結婚しても子供を作らない同世代が多いなか、僕ら夫婦は4人の子供に恵まれた。同世代が日々の生活に苦しむなかで僕が抜きん出て経済的に成功したわけではない。収入は20代の新人の頃から平行線もしくは下降線でむしろ「負け組」だ。僕の人生はどうやら財産を築くことは無理なようだし、そもそもお金を墓に持っていくこともできない。それならばせめて子供をできるだけたくさん育てて、自分の人生に価値を見出したいなと、夫婦で開き直って子だくさんになっただけだ。周囲の親類や友人、職場の上司はそんな僕ら夫婦を呆れながらも暖かく支えてくれて、僕らは「貧乏子だくさん」の典型のような暮らしをなんとか続けて来た。お金はなくとも仲良く助け合い、周囲に感謝しながら生きていければ幸せだと考えていた。それが子供たちが自立するまで続くものだと当然のように考えていた。

 妻が身体の異変に気付いたのは5月末だった。「胸にしこりがあるんだよね」と寝る前に僕に見せてくれて、子供らと一緒に「どれどれ」と確認した。大きくはないけれど、たしかに触ってわかるほどのしこりがあった。とはいえ、妻は乳がんのリスクとはかなり縁遠い人だと思っていた。

 乳がんの発症リスクにはさまざまなものがある。まずは家族歴。妻の親族に乳がんを患った人は一人もいない。次に出産経験。5回以上出産した人は出産経験のない人に比べて、乳がんの発症リスクは半分になるといわれている。妻の場合は4度の出産を経験しているのでリスクは低いと考えるのが自然だ。喫煙や飲酒もリスク要因になるが、妻はどちらもやらない。肥満はリスクを確実に高めると言われているけれども、妻の体重は平均より軽めで発症リスクを考えれば考えるほど縁遠い人だと思えた。

 妻は末娘(7)の授乳期に乳腺炎に悩まされたことがある。それが今になってしこりになってしまったのかもしれない。僕と妻は漠然とそんなふうに思っていた。しかし、これまでまともに乳がん検診を受けたことがないし、これをいい機会だと思って一度検査を受けたほうがいいだろう。そう思って乳がん検診のことを調べてみると、どうやら生理後4日過ぎの検診が勧められているらしい。そのとき妻は生理中だったので、病院へ予約を入れるのは生理が終わって4日後に考えようということにした。

 6月に入り生理はいつも通り何事もなく終わったらしいのだが、今度は僕の方の仕事が忙しくなってしまい妻を病院に連れていくことができないまま瞬く間に日々が過ぎていった。下旬になってようやく連れて行けるかなと思った矢先、妻の生理が始まった。予定より数日早かった。なかなかうまくいかないものだ、これはまた翌月かなと思っていたら、生理開始から数日経って妻が痛みを訴えるようになった。

「これはまずいのかもしれない」

 なぜかわからないけれども嫌な予感がした。生理後4日などと悠長なことを言ってられないのかもしれない。僕は慌てて6月30日、札幌市にある麻生乳腺甲状腺クリニックに予約を入れ妻を連れて行った。院長の亀田博先生は乳がん検診・治療の大ベテラン。多くの患者を診察してきた先生に診てもらえば見落としはないだろうと考えて病院を選んだ。

 検査はエコーとマンモグラフィーが行なわれ、しばらくして診察室へ呼ばれたので僕も付き添った。パソコンのディスプレイに映るマンモグラフィーの画像を亀田先生がしばらく眺めていた。僕が見た感じだと、なにか白く表面がつるりとしたような塊が妻の乳房の中に写っていた。僕は以前、仕事で医療系の記事を数年書いていたことがあった。そのなかで何度かいろいろながん細胞の画像を見てきたのだが、がん細胞というのは表面がざらざらとしていていびつな形をしているという印象を受けていた。だから、画像を見るかぎり妻のしこりは良性のものかもしれないなと感じた。

 亀田先生は書類と画像を交互に見て口を開いた。

「五分五分ですね。組織を取って詳しく調べましょう」

 先生の顔がこころなしか険しいように僕には見えた。妻はすぐに処置室で組織を取るために針生検を受けることになり、僕は廊下に出た。

「五分五分」

 椅子に座って先生の言葉を繰り返す。さっきまで良性だと思っていたしこりが、僕には悪性である可能性のほうが高いような気がしていた。

 

(『北方ジャーナル2017年9月号』掲載)

※無断転載を禁じます。(C)Re Studio 2017年

 

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