昔々あるところに‥♪

 

事務所から、メンバーそれぞれが、個別に塒を構える事を許されたのが、いつだったかは、はっきり覚えていません。

 

その間に、2(吉田:上田)・2(安部:姫野)・1(財津)のワンクッション時代を挟んだ後の事です。

 

南青山のアパート(正式には、南青山ハイツ)を出る事が成り行きだった頃、スタッフから。

部屋が五つでドアも五つ。

別に集会出来る部屋がある、一軒家での共同生活はどうか?との提案がありました。

しかし、首を縦に振るメンバー等は、誰も(笑)いませんでした。

 

さて!ここで、自分記憶な為、アパートの雰囲気を記録書きしてみます。

 

二階建て4戸の右下が、メンバーの合宿の場でした。

部屋手前が、車二台の浅い駐車場(左隣も同様のスペース)でしたが、楽器車(ひと呼んでtulip号)はそこに入る事無く、仕事時に、仕切り代わりのプランター(三個?)前の道に現れ、楽器と僕らを積み下ろしするだけだったと、思います。

 

階段登り口の、一階右の鉄の扉を開けると、そこは四畳程のキッチン。

住んでる間に、本来の役目を一度も果たす事なく、メンバー在宅中は、常に楽器が積み上げられていて、いつも薄暗い印象が残っています。

 

その右隣が、茶褐色?(弱色なので?)の細かい四角なタイル床で繋がり、間を寝ぼけガラス(勝手に命名♪)板で仕切られた、バスとトイレ。

お風呂が奥なのでいつも、使う誰かの独り使用が多かった気がします。

 

奥の部屋は振り分け式で。

左は和室六畳。

 

前が駐車場のバス・トイレ側の奥右が、四畳半の和室。

 

それぞれの部屋の先は、押入(合い鍵で夜中にこっそり忍び込んだスタッフの、起床!起床!エピソード盛り沢山処♪)だったと思います。

最初のうちは、メンバー布団を押入に仕舞ってましたが、かえって湿気を吸うので、布団は外に積み重ねる様になり。

後にレコードプレイヤーやスピーカー・レコード束が、置かれていたかも?

 

左の六畳の窓外直ぐが、むき出しな崖下で、当然の湿気を2K全体に、齎していました。

 

六畳には、A・H・Z(順番の記憶無し)。

四畳半には、Y・Uが、何となくな定位置だったと思います。睡眠時間が短かめな毎日だったので、起床!電話がよく、六畳で鳴り響いていました。

 

話を戻します。

新たな住まいを探す為、東京一人暮らしの許可が出た初日休日を、丸ごと使い、何軒もの不動産屋を回りました。

 

甲斐があり、当日の夕方、要望に似合う部屋を、駒沢で見つけました。

見れば観るほど、願ってもない物件と確信出来たので、他人に渡らなぬよう、その場で、手付けを払い。その足で事務所に走り、必要資金を用意してもらい、その日の内に、契約☆

 

引っ越しは事は後回しに、その夜、空間だらけの私城で祝い酒を、ひとり。

 

解放リビングで大の字で見た、天井記憶は鮮やか。

 

 

おっ~と!

皆さんの興味共有部分が、薄くなるこの辺りで、ダラダラ書きをやめときます。

 

続きは、気が向く、いずれかの日に♪

 

 

まさとし