上京時の塊は、不思議な事だらけの土地で寝起きし。

何処へ行くにも、いつも一緒の連なりでした。

当時の行動範囲の殆どが、神田ヤマハの練習スタジオと、淡路町の事務所と、溜池の東芝のレコーディングスタジオの何れかと、生演奏会場でした。

 

混迷期間の泣き笑いを経て、ヒットの勲章曲を頂き。南青山ハイツでの合宿も終盤な頃。

 

恵まれし仕事は増えはしても、共同生活での疲労気は蓄積。

休日に全員がアパートに揃うなんて事等は、殆どなくなりました。

友人達との時間や、ひとりの時間や、外出泊等で息抜きを、ワタシはしていた記憶があります。

 

そして、彼方の事件♪

‘パンツ泥棒’が入ったのも、この時期です。

穏やかな空気だったので、友達が遊びに来てたのかと、思いましたが。

僕ら(姫野と)が帰って来た時 吉田さんは、犯人が熱り立たないよう、優しく説教をしている最中でした(笑)♪

 

ひとり暮らし前の、ワンクッション、2・2・1制で、

僕は吉田彰さんと一緒に暮らした時期があります。

前回書き(昔々あるところに‥)と前後しますが、その辺りの事を少し書き留めてみる事にします。

 

アパートは確か、吉田さんが探してくれたと思います。

 

僕も他を当たってたので、不動産屋に二人が案内されたのは日没後でした。

 

物件紹介では、駅から徒歩十分、と書かれていました。

しかし、それを立証する為、やたら急ぎ足の不動産屋に、「徒歩十分は、小走りでも着けば違反にはならない」と言い放たれ!!

改めて、東京生活再スタートの不安を、煽って頂いた印象でした(笑)。

 

四谷三丁目の駅から歩いて、実際は十七・八分の、四ッ谷坂町にアパートは、ありました。

それまでは合宿だったので、荷物少なく。僕の引っ越しは、タクシーの二往復だけで済みました。

 

自衛隊の市ヶ谷の駐屯地に向かう方向の坂道を、下りきる少し手前を右に曲がると現れる、当時でも、かなり年季の入った建物でした。

 

入口付近が暗いのは、下見が夜だった所為だと思ってましたが。住み始めると、リビング?と寝室共々、一日中薄暗い事を知らされました。

 

薄い板の、玄関代わりの合板戸を手前に引き、中に入ると半畳程。

下駄箱無しなので、靴はここで脱ぎっぱなしでした。確か?

上がって左横に、ガス台と流しだけの小さなキッチンがあり。

天気良い朝は、その前の小さな窓の磨り硝子から、一筋の朝日がさし込むだけで、後は。

雨音を聞かない限り、外の天候が全く分からない部屋でした。

下見の時に蛍光灯下、とても明るく感じてた、リビングの白い壁は、ほんの一週間程で、湿気を吸って全体がウロコ状にめくれて出して行き、ダマされた!と二人呟いたものです♪

 

部屋中央を占拠する風呂場の風呂桶は小さく。体格勝る吉田さんの後、お湯が、つかれる程残っていない時もアリ、足して沸かした思い出アリ♪

 

奥へ向って右側、白ウロコ壁♪の下部分は板張りに切り替わっており、鬱陶しさを軽減する役割を果たしていました。

その板壁に接するように、白ペンキ塗り木製の、屋外用のテーブル(隙間を空け、板を渡しただけ)と、角張った二つ椅子(セットは知り合いからの引っ越し祝い)が、二人の唯一の落ち着き処で。

バンド・事務所・レコード会社・異性関係等話の花咲き処でもありました。

 

奥の八畳が僕らの寝室でした。得体知れない床の間の掛け軸と、勝手の悪い押入れが、長居は無用!を教えてくれてた気も。

 

そのアパートの、唯一利点は、文化放送へ歩いて行ける距離でした。

文化放送の夕方からの生番組、おそらく‘ハローパーティー’だったと、思います?(パーソナリティーは、みのもんたさんや、土居まさるさんの印象)に生出演・生演奏後、タクシー乗車五分で、部屋に戻れた快感も覚えています。

帰りタクシーで一緒だった、泉谷しげるさんに飲みに誘われた事がありました。が、引っ越し直後だったので、早く部屋に戻りたい気持勝り、お断りを入れた、残念記憶アリ。

 

八畳の硝子戸の鍵が壊れていて、雨戸をしっかり閉めて出掛けました。が、全国ツアー中に二度も、泥棒に荒らされました。

ステージ衣装や、大切なレコードをゴッソリ持って行かれてて、その都度、タップリ凹みました。

あっ、下着も、何故か、かなり持って行かれ、即日困り(ノーパン日♪)まいた♪

 

五人から解き放たれし二人♪

四ッ谷坂町のアパートには、書けない青春ドラマ、てんこ盛り☆

 

 

取りとめ無くダラダラ書いて、申し訳ない。

 

また!

 

 

まさとし