1973年に心の旅がヒットし、取材の量も半端なく増え、より忙しい日々が訪れていました。
メンバーそれぞれの母親を故郷から招いての、今は無きホテルニュージャパン(後に火災で消失)での記者会見。
そしてその場での、親子全員の集合写真の記事を、懐かしく思い出せます。
その日夜の、渋谷ジァンジァンのステージへ、全員招待の計らいをしてくれたスタッフには、今でも感謝しています。
普段から心配性で、息子のステージなど観た事のない母を、その場所に導いて貰えた事を。
有り難く、暖かな記憶として仕舞っています。
一人暮らしに馴染み出した頃。
いつも母親ばかりではと思っていたので、両親に航空券を送って、東京に呼んだ事がありました。
商売柄(蒲鉾製造・販売業)、まとめて時間が取れるのは正月休み。
父と母が天空部屋を訪れたのは、おそらく1974年☆元旦でした。
童心に戻り、空港に迎えに行くと、母に笑顔少なく?
飛行機の揺れで酷く疲れた様子の父親の体調を、気遣っていました。
母に聞くと、年末からの体調不順と過労の蓄積が、飛行機の揺れでぶり返したのだろう、との事でした。
母が、故郷で煮て来てくれたワタシ好物の黒豆と、手に入る物だけで作ってくれた博多雑煮で元旦の夜を、久し振りの親子で、味わいました。
父は、東京での正月時間の殆どを、僕の部屋で過ごす事となり、体調が戻った頃には、休み終わりを迎えていました。
息子仕切りでの、親子三人東京見物は、父の不参加で実現せず。結果、ラストチャンスを逃す事となりましたが、この事が後に好転を呼ぶ形を作ります。
仕方無く、部屋に父を残し、母と正月二日の東京に出ました。
浅草の賑わいを歩き、生まれて初めての浅草寺での初詣も親子で手を合わせれました。
勝手知ったる当時の原宿を、案内と称して連れまわす結果となりましたが、何処に行っても母は、笑顔でいてくれました。
翌日は、親と懇意な間柄の、横浜本牧のお友達のお宅へ。
子供の頃何度もご厄介になったお家なので、振り返る昔話で、花が咲き、懐かしさも満喫させて頂きました。
そんな頃の父は、息子部屋での、ひとり居残り時間に、居心地良き東京の住処を発見していたらしく♪
後に「まさとしの部屋は、ホテルのごと快適やった!」と、天空部屋を評していたらしい話が、伝わって来ました。
そして翌年早速、渋谷の東急本店で行われた、博多物産展への出店を種に、父だけ再び上京。
天空部屋を、息子が居ても居なくてもお構い無しに、自在に使うようになり。
東急本店や、渋谷109のレストランでお昼を取り、帰りは道玄坂の喫茶店で珈琲したりと、気ままに東京を、楽しんでくれるようになりました。
渋谷で待ち合わせて、喫茶店時間を持ったり。天空部屋近くで、夕食を共にしたりと、新たな父との関係が人生に加わり、新鮮を共有出来ました。
父親の、キャラクターが分かり易いエピソードを思い出したので、ひとつ♪
故郷でも、大きなホールでコンサートが出来るようになって久しい頃の話。
本番前の福岡市民会館のメンバー楽屋に、右肩に“西門蒲鉾”と名前がクッキリ入ったアルミの箱を担ぎ、父親が入って来ました。
来襲予告無く、驚いたワタシが「とうちゃん!どっから入って来たと?」と聞くと
「正面玄関からたい!」
‥??「招待券もないとに、どうして入れたと?」と聞くと
「上田のオヤジて言うて、真ん中ば通って来た」
「ファンの人達も、道ば空けてくれんしゃった」
との、信じられない行動報告★
そして、箱の中の蒲鉾の天ぷらを指差し
「さっき揚げたばっかりやけん、旨かよ~!」
「財津君!一枚食べんね!」
「安部君!吉田君!姫野君!揚げたてやら、食うた事なかろう!ものすご旨かよ!」
「遠慮せんでよかけん!」
側に居る息子が赤面しながら、「とうちゃん!本番前はみんな、あんまり食べれんとよ!」
と教えても、気にせず臆せず、「なら、ステージが終ったら腹が空こうが、そん時食べんしゃい!」と言って、楽屋のセンターテーブルに、天ぷら満載のアルミ箱を置き、さっさと笑顔で立ち去る。の巻♪
その奔放無謀な振る舞いに、メンバー唖然の(笑)微笑みシーンは、何度でも再生可能です。
そんな父が昔、藤本義一さんの11PMの、博多編に街紹介ホスト役で、二度程出演させて貰った事がありました。
仕事と重なったので、どちらも見れず終いでしたが。
その後、藤本さんの御家族が、楽屋に来られるようになり、有り難き仄かな縁を、感じさせて頂きました。
但し、博多案内オヤジと、ワタシが親子と言う事は、言えず終いでしたが‥。
-また、書きます。-
まさとし