以前にも幾度か書きましたが、今回事に関係するので敢えて、分かり易さを優先にしました。

幼稚園・小・中・高校を通じて、運動会には、体育実技時間には、殆ど出ていません。

 

生まれ付き、光の調節機能が無い事と、極強度の弱視(最前列でも、教室の黒板の字すら見えない)を考慮しての、教師判断からでした。

 

少々の異論抱えながらも、懸命な方法なのかもと、従う事にしました。

因みに現在は、両目に死角部分が点在し、歩けば景色の揺れ激しく(眼振)、視野は並の3分の1。そして色見分け不可(色盲)と、なりもした(笑)。

 

小学校の頃、月曜の朝は、全校生徒が校庭(運動場)に集合する、朝礼システムがありました。

 

時間迫る校内放送が流れると、全員が脱兎の如く教室を後に、飛び出して行きます。

校舎内はどうにかクラスメートに付いて行けますが、外に出ると、僕の視界は光に強奪されます。

運動場に出ると殆ど、何も見えなくなるので当然、自分の行き場所(定位置)を探せなくなります。

 

小学一年生の頃は、一番端の子辺りから順番に『ここは何組?』と聞き続け、自分のクラス列を探し、友達の声を頼りに、定位置にも着けました。

しかし高学年に近づくに従い、現在位置を聞く度毎に、プライドを運動場に投げ捨てながら、『ここは何年生?』『ここは何組?』と渡り歩き、定位置に着く事毎回。

その頃にはいつも、校長の挨拶の真っ最中になっていました。

んな毎回の光景故、クラスメートに、鈍重感を笑われていました。

しかし、負けじと懸命に、平気武装をしてたのを、覚えています。

その上、何故か教師にも、一目瞭然な事情が伝わらず、不本意なる叱りを受けてもいました。

 

本心は、情けなさを幾重に纏っての、月曜毎を、虚しく悔しく刻んで行きました★

今も事ある毎食い下がる、苦いチェーン記憶のひとつです。 

 

 

さて、山笠話。

誰も、僕の手を引いてはくれなくなる、子供中期からは、実は、山笠には出ていません。

再び山笠に出たのは上京後だったりします。

あの神通力(度付きサングラス)が登場してからの事です。

度サン(超濃い昼用と、普通に濃い夜用)の力を借りてやっと、山笠での自分の大人の居場所(山をカク事が可能になった)が見つけられるようになってから、です。

 

今回、8年を経て山笠へ復帰(西流れ冷泉三区さんのご厚意)した今でも、同年代な辺りなら、足腰だけだと充分に渡り合える気分でいますが。

夜用(度サン)での限界、昼用レンズの限界が以前よりも、早く深く訪れるようになりました。<br />網膜剥離と黄班変性と、生まれ付きが結託し始めたのです。

 

素敵な出会いもあり、山笠仲間との旧交を暖め、詰め所の直会で‘奇跡の扉(博多小の校歌)’をアカペラで歌わせて頂いたりと、総括では豊富な良き出来事多き山笠となりましたが。

追い山終わり、山崩し後に、試練が控えてました。

夜用度付きサングラスでは対応出来ない、眩しい朝太陽の登場でした。

 

次第に視界は、きらめきばかりの無の視界に包まれて行きました★

自分が何処にいるのかも、仲間の法被も、帰りの詰め所への道も全て、判別出来なくなって行きました。

途方に暮れる中、他の町の何人かの方達から「お疲れさまでした」と声をかけられました。

が、しかし、お返しのお辞儀ついでに「すみません、僕が帰る方角は?」と、誰もが不思議がる、博多での当たり前事は、聞く事は出来ず。

 

あの小学校の運動場にいる気分を再び、味わった次第。厄介♪

 

 

 

 

 

 

 

 

まさとし