住むほどに馴染み、環境が好みと分かり。天空部屋とは、十年を共にしました。

 

前期tulip在籍当時、ひとり暮らしを始めてからの、疲労放電・活力充電は殆ど、この部屋が基盤となってくれました。充電リビングは幾度か、雑誌にも載せて頂いた事があります。

 

オリンピック公園の周回ジョギングコース(一周2キロ)が直ぐ近くにあり。

仕事午後な朝に、休日の昼に、呑み事前の夕刻に、仕事終えた晩飯前にと、時間問わず使える、重宝な走路でした。

 

その他、環七・環八・246・甲州街道・青梅街道等を繋いでの、自在多彩にコースは豊富。

長期レコーディング(WELCOME、辺り?)終了の勢いで思い立った、真夜中出発。中原街道へ回る未知のコースは30キロを越え、夜明け時刻な帰宅。

身体が意外に歓迎しない、朝ビールの奇妙な味?覚えてます♪目白のスタジオから都心抜け走って帰った事も。

 

毎年クリスマス時期には、当時としてはチト珍し気な、千五百球以上電飾を、リビングに施している噂が仲間に広がり。

12月25日ギリギリ、仕事終わりに、シーズン気分を味わいにタクシーで駆け込んだ人達も、いました(笑)♪

居心地に触れた友達達は、遠い街からでも遊びに来てくれたりで。

天空での休日は、自炊や掃除(洗濯は備え付け大型乾燥機で苦にならず)の面倒以外、気まま快適に過ごせた記憶です。

 

遅刻エピソードの種となる交通渋滞のドキドキは、1977年春の新玉川線開通までは、ちゃんと(笑)、続きました。

 

頃は定かではありませんが、ある数年、夏場は毎年、甲子園と被る、長い暑い九州ホールツアーに出ました。

故郷近くをコンサートしてるのに、望郷心に似たものが、主人留守の部屋に注がれるのが、妙な感じでした。

 

時を経て、オーディオ革命が天空部屋にも訪れました。

チト高級オーディオセットの購入を境に、五畳和室の、襖を取っ払った押し入れ位置から、存在を部屋のコタツ横に移しました。

レコード全盛時代、聴き終わる度毎、次の時の為に、スプレーをかけ、ほこりをクリーナーで、きれいに拭き取り、ジャケットにしまい込んでたものです。

しかしラジカセから始まった、オーディオカセットの出現は、音創り業界でもインパクト絶大でした。

☆話・時は前後しますが。

ラジカセ隆盛期に、イギリスでの録音(ぼくがつくった愛のうた)話。

録り後の、音チェック用に持って行ってた、当時最高音質♪な僕のSONYラジカセ☆

成り行きで。僕は会う事叶わなかったけど(笑)奴は(ラジカセ)幸運にも♪

ポール・マッカートニーへの、プレゼントと、なりにケリ(笑)☆

 

オーディオラック枠の真ん中に、賑々しく鎮座した、カセットデッキ。

ソニーのウォークマンが登場し、世界を驚かせ、状況は一変。

LPレコードや、シングル盤は、全てカセットテープに録音して、持ち出せるようになり。好みな曲を、どこででも自由に聴ける、夢のような時代(世間様と共に)へと移って行きました。

 

購入直後の新譜LPも、カセットへの移し替え(ダビング)聴きの後は、レコード盤を、聴く度に傷付けたくないと言う、どこか本末転倒な、大切の偏りが、解らない習慣を生んで行きました。

 

レコードを、当時の最良音質で聴ける状況が出来てたにも関わらず、明らかに劣化した音と知りつつ、部屋でもカセットデッキで曲を聴く。何故かそれが新しい事のように。

アナログのオーディオ技術が、成熟期を迎えた頃。

大切だから聴かない等の、勿体ない選択をし。レコードジャケットをオブジェとして部屋を飾り、中身に触れないと言う不思議な時代。

スティーリー・ダンのAjaに、針を落とした時の衝撃を知りつつ。

まァー、自分達のアルバム(テスト盤)は、かなり普通に今まで通りに、針を落としてましたがね(笑)♪

 

そうそう!

天空部屋で、料理雑誌の取材を受けた事があります。

確か、僕考案な‘蕎麦粉のパンケーキ’作り(笑)♪

 

だらだら長過ぎたので、この辺で。

お付き合い、ありがとう。

 

 

まさとし