グネウス・ドミティウス・コルブロ | しろグ

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西暦7年~67年に生きた古代ローマの武将。
第3代ローマ帝国皇帝カリグラの治世に執政官になったが、カリグラが暗殺されクラウディウスが皇位に登ると彼の官位は止まったままになったが、クラウディウスが低地ゲルマニア軍団の司令官に任命し、本部をコローニア・アグリッピネンシス(現ケルン)に設置。当地の統治にあたる。

その後、属州アジアの総督に任じられて、皇帝が第5代のネロとなると東方属州に派遣される。ローマ帝国の東方政策の要の中の要であるアルメニア・パルティア問題にあたらせるためだが、この時はネロ……そして彼を補佐していたセネカ……が指揮系統を二分するという誤りを犯したため、充分に能力を発揮することが出来なかった。

時代が下り、ついに東方総司令官に任じられたコルブロは、大軍を率いてパルティア(ペルシャ)に進攻。パルティアは和平を選択。この結果、ローマはティリダテス1世をアルメニア王として承認するが、ローマに赴いてそこで皇帝ネロの下で戴冠を行うという、ローマにとって大いに面目を保てる内容となる。ティリダテスは旅路で大歓迎を受けつつローマへ赴き、以後親ローマの立場を取り続ける。これ以後アルメニア、パルティアとローマとの間は50年以上、第13代トライアヌス帝の時代まで平和が保たれた。そのためネロ死後の内乱でも、東方から介入されることも防がれた。。。というのが教科書に出てくる史実である。

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 ※コルブロ

このコルブロという武将だが、兵士たちに大変人気があった。温厚で人なつこく優しいからではない。彼は兵士たちには極めて厳格で、鉄のようなローマ軍規が服を歩いているようなものだったという。それでいて、兵士たちからの人望も厚く、慕われていた。それどころか、敵の兵士たちからも敬意を払われていて、冬でも短衣姿で腕も足も剥き出しにし、寒風に髪をなびかせたコルブロが戦場に姿を現わすと、味方だけではなく敵兵たちも口を閉じてその姿を畏怖の念で眺めたという。

コルブロがパルティアと結んだ和平は、当時の皇帝ネロや元老院の意表を突くものだった。古代ローマには、一度指揮権を委ねて送り出した司令官には、一切口を出さないという伝統がある。戦争のやり方、支配した街の処遇、対戦国との条約締結など、全て司令官に任されていた。それでも、戦勝報告と和平条約(ローマでは条約とは戦いに勝って結ぶものだった)の報告が来るものと信じていたネロたちは、大いに驚いたという。なにしろ、それまでのローマの対パルティア政策を180度転換させるものだったからである。パルティアとの勝利という名誉ではなく、コルブロが任命されたシリア属州総督(事実上の東方総司令官)として、東方を扼すことでローマ帝国の安全保障を確立しようとした結果である。2,000年前ではなく現代でも50年間の平和というものがどれほどの価値を持つか、世界各国の人々が証言してくれるに違いない。

臣下の功績はそれを取り立てた主君の功績である。コルブロの政策がいくら素晴らしいものでも、皇帝であるネロが承認しないことには発効しない。ネロは承認した。何かと問題の多い皇帝だったネロだが、外交に関しては及第点以上とされる所以である。

ところが、コルブロは、国家にこれほどの貢献をなしながら、ネロの命によって自殺を命じられた。67年、ネロ暗殺疑惑が浮上。その際にどこから流れてきた噂か知らないが、コルブロが連座しているということを聞きつけ、疑いもしないで信じたらしい。コルブロは任地から召還されて、ネロに自裁を言い渡される。コルブロは抗弁もせず、従容として自殺したという。この一件はネロの名望失墜の最後の一撃となって軍からの反感は決定的になり、元老院からも市民からも見放されて、ネロは自死した。

その後のローマ帝国は、第9代皇帝のヴェスパニアヌスが登位するまで、「もう少しでローマ帝国最後の1年間半になるところだった」とまで言われた内乱時代に突入する。