ローマ帝国第4代皇帝クラウディウスの演説 | しろグ

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「予の先祖の中でも、最も遠い始祖クラウススは(生粋のローマ人ではなく)ザビーニ族の出身である。しかしローマ人は彼とその一族にローマ市民権を与えただけではなく、同時に彼に元老院の議席を与え、ローマ貴族の列に加えた。この先人たちの例に励まされて、予はこれと同じような方針を国家の行政面に応用すべきだと考える。それはつまり、出身地や出身部族を問わず、皆この首都に移植させ、(敗者として扱うべきではなく)優れた者であれば、政治の中央に関与させるということである。

実際、次のような事実を忘れてはならない。われわれは(カエサルなどの)ユリウス一門が3代目の王に征服されたアルバからの移住者であることを知っている。(大カトーや小カトーなどの)ポルキウス一門の出身地が(紀元前380年になってからローマ市民権を与えられた)エトルリアであることも周知の事実だ。このように優秀な人材であれば出身地や出身部族を問わず、イタリア全土から元老院に迎えられたのがわれわれの歴史なのである。

やがて、国内に平和が確立し、外に向けて国威が発揚されると、今度はトランスパダナ地方の部族がローマに受け入れられた。そしてまた、全世界に軍団の退役古兵を入植させたということを口実にして、属州民から選抜したつわものを軍団兵に加え、こうして人的資源に欠乏していた我が国は補強されたのである。

さて、我々はヒスパニアからバルブス家を、これらにひけをとらぬ立派な人物をナルボ・ガリアから迎え入れたのを後悔しているだろうか? 彼らの子孫は今もこの首都に住み続けている。彼らの抱く、この国に対する祖国愛は我々のそれに劣らぬものである。スパルタ人やアテネ人が戦争に勝っても短期の繁栄しか享受できず、最後には破滅した理由は他でもない、彼らが征服した民族をあくまで異国人として、分け隔てしたからではないか? 

その点で、我らが建国者ロムルスは賢明にもギリシア人とは逆のやり方を選択したのであった。数多くの民族を、敵として戦ったその日のうちに、もう同胞として遇したほどである。のみならず、外来者が我々の上に立ったことすらある。解放奴隷の息子に官職を委託したこともある。これらは多くの人が誤解しているように、最近のことではない。古い時代から、度々起こっていることなのである。

なるほど、我々はセネノス族と戦いを交えた。しかし、ウルスキ族やアエタイ族が我々に歯向かって戦列を敷いたことが全くなかったというのか。なるほど我々はガリア人の捕虜となった。しかし我々はトゥスクル族に人質を与えたことも、サムニテス族のくびきに屈したこともある。それはともかく、全ての外国との戦いを比較検証してみるなら、ガリアとの戦争で費やされた期間は他のどの民族との戦いよりも短いことに気付くだろう。それ以後、ずっと両者の間の平和と友好はゆらいではいない。すでにガリア人は習慣や学芸や婚姻を通じて我々に同化したのだ。彼らの金鉱や財宝を独り占めさせないで我々のところに持ち込ませようではないか。

元老院議員諸君、現在諸君がたいそう古いと思っているものは、かつてはみな新しかったのだ。例えば、国家の要職もローマの貴族に続いて、ローマの平民が、平民の後でラティニ族が、ラティニ族の次には、その他のイタリアの諸部族に門戸が開放されたのだ。議員諸君、今われわれが議論しているガリア人への門戸開放もいずれローマの伝統になるに違いない。そして今日われわれはこの問題を討議するうえで、いくつかの先例をあげたが、この問題もいずれは先例の一つとしてあげられるようになるだろう」

1528年にリヨンで発見された碑文に刻まれていたクラウディウス帝の演説。
この演説は「ローマが人類に残した最大の教訓」と呼ばれ、虚弱な暗君とされていたクラウディウス帝の評価を一変させた。歴史家皇帝と呼ばれたクラウディウスの面目躍如たる尊厳に満ちた演説として知られ、後代の人権運動の際に度々引用された。アメリカ第3代の大統領ジェファーソンは、この演説を読んだ翌日に、所有していた黒人奴隷を全員解放したと云われる。この演説によりローマ元老院はガリア人を受け入れ、その後も次々と門戸を開き、ローマは真の意味で世界帝国になっていく。

この演説を読み、ローマの街を歩くと、ローマが《永遠の都》と呼ばれる理由がよく分かる。


※参考文献 タキトゥス『年代記』(下) 岩波書店
      塩野七生 『ローマ人の物語7 悪名高き皇帝たち』 新潮社