官僚制という構造は、時代を超え、国家を越え、主義を越え、立場を越え、意外とどこにでもある構造ではないでしょうか。![]()
それは…
特殊な…
『行政役所という場面』に限らず
私たち生活者の日常の中にもあると思います。![]()
どういう経緯を経て、そのような成り立ちになるのか…によるところも大きいかもしれませんが、![]()
所謂
関係における「上層部」と言われる立場と
出先と言われる「現場」の立場の違い。
実は、どこにいてもその置かれている立場にとっては「現場」はあるのでしょうが…
そして…本質的には、何が『上』で、何が『下』なのか…という議論もあります。![]()
ここではとりあえず、ある種の私たちの中にあるイメージにて状況を「限定」してみます。
否が応でも物事は全て連携し、繋がっております。![]()
その繋がりの中での、『上下の関係性』における<断絶構造>
『左右の関係性』における<不(非)連携構造>
そのそれぞれの『関係性』における、<風通しの悪さ>が
『官僚制の本質』なのです。
「官僚」というラベルを叩いたところで、
人間の心根(こころね)の中にある、
「気持ちの上下」「見え方の上下」という<シコリ>
を取り除かなければ![]()
物事、事柄に対峙し、闘っている
所謂…『現場』
の意見が反映しない![]()
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ヒアリング、調査、本質的分析、合理的配慮に裏付けられた解析の無さ、
そして、ことを運んでいこうとする時の
『傾聴』、『受容』というツールの不(非)活用が、
官僚制そのもの構造に嵌まり込んで
ミイラ取りがミイラになる。
また、
発想そのものが「官僚性的」であるという認識の希薄さを自認、自戒しないと
「官僚制という構造」からの脱却は困難かと考えます。
これは、生物として致し方の無い、「理(ことわり)」なのかもしれません。![]()
全てにおいてどうしようもなく孕んでいる
『優位性』という価値に平伏してしまう癖が、
あらゆる場面における
「官僚制」という構造を包含してしまっているように
思えてならないのです。![]()
そこで…一言
「敵は、己の中に居る」
それを乗り越え、人類を救済することの啓示の日本的(仏法的)[方便]として、
己の中に居る、「敵」と向き合うために…
目に見えない事柄・事象への畏敬を抱くために…
『仏の力は全ての人類の個々の身体の内にある。その仏の力の存在を認識すること。しかしその仏の力は、何故か「鎖」に縛られている。先んじてその仏の力を縛る「鎖」を断ち切り、仏の力を自由に動かせるようになるための、解き放つ「術」を知り、そのための行動を起こす勇気を持ち、行動に移した人間が、自らの中にある仏の力を自由自在に動かす実践を通し、個々の「幸福」と「健康」を手にすることが出来る。その実践による「個々の幸福の連鎖」が、人類救済への道を開く。』
おやぁ~
ちょっと…
抹香臭くそれちゃったかな![]()





