ごみ問題を考えると人間について考える事になる!

 スティグマ11月号の巻頭文の「循環の思想(万物は循環することが好ましいあり方という思想)」を繋げていく・拡げていく事から見えてくる事柄は、宇宙の、地球の、全てが繋がっている事に気付く事ではないでしょうか?

 そしてその思想は敗北したのではなく、捨ててしまったものでもなく、スピード・効率という時空間の中に置き忘れてきてしまったものではないでしょうか?

 だからこそ、明治以降作り上げてきた「近代社会」を深く<反省>しなければならないのではないか?という命題を突きつけられるような、現代社会の様々な問題の噴出があるのではないでしょうか?

 人類にとって災害という現象、取り分け自然災害で現れる現象は、地球も生きている生命体であるという事の叫び、いえ人類に対する警鐘としてある事に、私たちはきちんと耳を傾け、向き合わなければならない事を啓示していると思います。この事は多くの方々があらゆる角度から語っていらっしゃると思います。ですからこの場においては、その事の論を深める事はやめます。

 この地域活動集団は、組織をつくる事を目的化しているのではありません。「個」という小さな点が寄り添い合いながら、それぞれの思い・考える「ごみ問題」を共有化し、暮らし易い社会・地域づくりの為に、自分たちで出来る活動を通して、「輪」になっていく繋がりを自分の暮らす地域において作っていく事を目指す物としてあります。「始めに組織有りき、その組織のための活動有り」では無く、個々の多様な思いの連動をどう組織化していくのかという、ある意味新しい組織づくりのワークショップとしてもあります。私たち「日本人」が、苦手な仲間作りを模索する集団でもあります。

 仲間を作っていく時の、「個」として踏み越えていかなければならないハードルを研鑚・共有し、「議論」の出来る自立する「市民活動活性化集団」を目指しています。それを支えるお互い、メンバー、仲間であってほしいと思っております。事務局は、地域でなかなか仲間を作れなくてその地域で活動する「小さな点」として居る事や、時期が来て仲間が増えていく事や、そして地域において仲間同士の活動がすすんで行く事、それら全てを支えていける、バックヤードの事務局としてありたいと考えています。そのお互いの活動を支える「運営会」という組織があり、毎月最終日曜日に、運営に関わろうと思うメンバーが集合し、活発な会議をしております。

「ごみ問題」は「物事を見つめる力」が要求される

 活動の主軸の「ごみ問題」についての私見を述べると、「ごみ問題」は、地球環境問題を考えていく時に、人類の生活の倫理観・モラルを問い掛ける最も端的な鋭い問題としてあると考えます。人類が生活者として生きていく為に、最も地球に対して作用を及ぼす行為ではないかと考えるからです。

 もちろん「環境問題」と言われる時に、現状の人間社会が生み出した、地球環境に対する弊害を克服する為の方策の切り口は、様々な問題意識の基で様々な在り様、取り組みが行われています。そのどれをも否定するつもりはありませんが、私見としては、「ごみ問題」こそ、人類に突きつけられた環境への配慮や気配りの足りなさを自然の現象として明示され、人類に対して自問できる問題と考えています。そしてもっとも気付き易く、取り組み易い問題ではないかと考えるからです。しかし実は、奥深い、最も難しい問題として在るとも思っています。

 「ごみ問題」の奥の深さは、「ごみ」とは何ぞや?という自問から始まり、「ごみの分別の仕方」「ごみの出し方」等を考え、行動しようとする時に、「観察力」「洞察力」が問われます。つまり、「物事を見つめる力」が要求されます。「ごみ」と名付けられてしまう事になる理由や、「この物体」をどう「処分・処理」して「自分の目の前から無くすか」を考える事は、「今目の前にあるごみと思われる物体」を<分析>しなければならなくなります。

 こういう事を日々日常の中で、何気ない無意識で行っているのですが、一応人間として、考えて行動していると思います。自分の目の前から物体を無くす為にどうしたら良いかと。猿のように食べたそばから食物の皮を落としているという行為ではないと思います。別に猿だって落とそうとして落としている訳では無く、「食べられるか、食べられないか」という物体の判別をしているだけで、「その後の処理」までは考えていない、考えられないのだと思います。

 ところが人間は、何であれ、自分と関わった「物質のその後の姿」にまで責任を持たなければならないのです。それが、人間、人類としての地球に対する責任だと考えます。本能としてではなく、意識を持って道具を使い、加工できる生物としての、地球に対する使命、役割ではないかと考えます。「処分・処理」という概念を持っているのは、人類だけではないでしょうか?

 現在の様々な問題を考えてみると、文明の発達と共に「意識の退化」が進んでしまったのでしょうか?ごみ問題はまた、<新たなしつけ観や道徳観>を生み出し<訓練の場>となり、<環境教育―人権教育の世界>の内容を包含できる、正に「人間を考える事」になると思います。

 少し拡がりすぎる話になってしまいますが、「環境教育」と言うと、よく自然環境に対する一面性しかイメージしてもらえない傾向がありますが、実は本質的には、<民主主義の議論の方法を育成する場>という質があり、「アクティビティというツール」がその訓練になっている事からも伺えます。

 「ごみ」を見つめていくと生活を見つめる事になり、生活を見つめると「家庭・家族」とか「地域」とかが見えてきます。それぞれの抱える問題を孕みながら「ごみ」問題はあるのです。

 そのそれぞれの問題を見つめていく事や問題解決の方法を探っていく問題としても、「ごみ問題」はその導入にもなると考えます。<教育の場>でもあるのではないでしょうか?もちろん対象は子どもだけでは無く、大人に対しても。「家族・家庭の問題」としても。

 「ごみ問題」の難しさは、人間の「心根」に関わる問題の本質も持っていると思うのです。少々哲学的になりますが、「ごみと言われる物」の持つ姿が、人間の生き方を現していると思うのです。

 過去、ごみを処理する事や屎尿を処理する事、死体を処理する事は、「忌むべき事」として取り扱われ、仕事として従事する事への蔑みが、差別を生み出す構造の要因に成っていたのではないかと考えます。現代社会においては、これらの事が全て、環境行政の役割としてあり、人間にとって大切な事であるにも関わらず、一番日の目を見られず、蔑ろにされてきた「業」としてあるのではないかと考えます。

 市民生活の中では一番の「苦情の窓口」が環境行政です。その人間の「心根の問題」を問われるように、「地球からの逆襲」という言われ方で環境問題への啓示があるのではないでしょうか?

 今でこそ、「環境問題」として大きく取り上げられ、「京都議定書」という盟約を廻って、世界規模、国家レベルで議論されるようになりましたが、もともと人間一人一人の課題としてあった事ではないでしょうか?やっと環境行政に対する注目度も含めて、今まさに語らなければならない情況にあると思います。

 この語る場を作って行く事が地域活動集団の役割としてあると考えます。それぞれの暮らす地域の特性があり、温度差があるのですから、画一的な手法では無く、暮らす者同士の意識の共有化をはかりながら、地域を変え、社会を変えて行けるエネルギーになる活動でありたいと考えています。その為には、自分たち自身が自立し、互いを認め合いながら議論のできる関係づくりが、置いてきてしまった「循環の思想」を呼び起こし、「新たな理想郷づくり」への一歩となるのではないかと考えます。

 私たち自身が自立する事とは、上から起こる社会体制の変化(それは政治体制の変化―トップ、リーダーが変わる事であったり、行政体制の変化―担当窓口(者)が変わる事を意味します)があっても、また多数決議会制民主主義の制度上妥協せざるを得ない事があっても、その事に左右されない、動じない生活の仕組み―「真の行政の質」―「生活者(住民)自治」を作る事、育成する事ではないかと考えます。

 体制が変化しても、私たち人間は、日々粛々と生まれ、食し、暮らし、死んでいくという生活―「生命の循環」は行われていくのですから、その「生活を支える行政の質のスキルアップ」―「生活者(住民)自治の連なり」が、「新たな理想郷づくり」になっていくのではと考えるのです。

 その思いを持つこういう私を仲間として受け入れ、支えてくれる仲間たちが活動しているのが、この活動集団です。

       (月刊スティグマ 4月号の掲載文より抜粋)