中国の歴史 今回は「中国の経済の歴史」について紹介します。1949年に中華人民共和国が成立。清の時代の後半は外国に食い物にされて厳しい時代が続いた。日清戦争で負け、その後、辛亥革命が起きて内部が混乱したところで日中戦争が起き、そのまま戦争に。中華民国という国になるが、戦争で疲弊して国内の産業は失敗、物資が高騰。

 

 それで内戦が起き、ハイパーインフレ、内陸農村部は戦争続きで食料・兵役でボロボロ。当時、政権を担ってた国民党は支持を失い、出てきたのが共産党だ。共産主義とは「財産をみんなのものにして、貧富の差をなくそうというもの」。この頃、掲げていたのは新民主主義という概念で、社会主義を強烈に推し進めるという方針ではなかった。

 

 当初は一応条件付きで民間の経済の保護・奨励が謳われた。トップの毛沢東が52年9月に、

 

「社会主義へ移行する」

 

翌年から社会主義の先輩であるソ連を見習い5加年計画を開始。重工業の発展や農業の集団化を実行していった。農業の集団化とは農民が集団で耕作する。当時の中国は8~9割が農民だった。一応、個人が出資する企業があったが、それも強制的に公的資本との合子形態に改造され、個人の出資者は経営に関与することができない。あと出資額に応じて5%程度の利息が払われる程度だった。60年代には全て国営企業になったが。

 

 工業に関してはソ連の支援を受けたが、スターリンが亡くなって批判されたのと、路線変更で中国はソ連と対立するようになった。第1次5ヶ年計画はある程度成功した。

 

 

大躍進政策 しかし毛沢東はこのあと最悪な政策「大躍進政策」を出した。1958年に独自の社会主義路線を歩むために毛沢東が、

 

「鉄鉱と農作物の生産量を大幅に増やす」

「15年で世界第2位のイギリスを追い越してアメリカに追いつく」

 

まず、鉄を作ろうとしたわけだが、政府は6000万人の人民に100万基の土製の溶鉱炉を作らせた。ちなみに、この時必要なレガを作るために、歴史的建造物の塔・寺院などのレンガを使った。それで当時、農業の生産量を増やすために人民公社という組織を作った。農業経営と行政を合わせて農業を集団化して管理するが、当時、中国では鉄鉱石が不足していた。一方で上からは鉄をたくさん作れと命令される。なので、家にある鉄製品を溶かし始めた。ちなみに、クワなどの農具とかも溶かしたらしい。

 

 今度は火が必要になるので森林を伐採、それで禿げ山にして水害が起きやすくなった。それでできた鉄は使えない粗悪品だった。そもそも金属の専門家がおらず思いつきでやってた模様。一方農業では、毛沢東が、

 

「農作物を食い荒らすスズメを駆除しよう」

 

そしたらスズメが食べてた害虫が大量に発生、鉄製の農具も減った上、人民公社で働く気が失せて生産量が激減。その結果、大飢饉になって餓死者は1500万~5500万人と言われている。そもそも毛沢東などの指導部は農業が素人だったらしい。さすがの毛沢東もこの失敗を認めざるを得なかった。

 

 その後毛沢東は失脚するが、文化大革命で復権を目指した。毛沢東が亡くなったのもあり、66年に始まった文化大革命は77年に終了。ここで登場するのが鄧小平。この人が中国を大きく変えた。

 

 

 

門戸開放 以前から中国はソ連と仲悪く、代わりに70年代初頭は米中が接近。72年にニクソン大統領が訪中して、さらに日中国交正常化した。これによりプラント輸入、生産設備を輸入して資本主義国との貿易が増え、貿易額が急激に拡大。文化大革命が終了するとさらにその規模を拡大、さらに鄧小平が改革解放を打ち出した。

 

 改革解放とは、既存の計画経済から市場経済へと以降、つまり自由な資本主義的なものを導入していくというもの。さらに重工業を重視していたのを農業・軽工業にも投資した。軽工業で輸出して必要な外貨を獲得、これを元に資本設備を輸入した。

 

 他には深センなどの経済特区や上海・天津などの沿岸部の都市に経済技術開発区を設置。外国企業が優遇条件で工場を立てることを認めた。鄧小平の基本的な考え方はこうだ。

 

「先に豊かになれるものは富ませ、貧困層は富裕層が援助することを義務にする」

 

これらにより中国は力を着実につけていった。しかし、90年前後になると問題が浮上した。中国における格差の問題は、都市と地方と言われることが多いが、都市とは主に東南側で中国の人口のほとんどを有している。特に広東省はここだけで人口1億人を超えている。

 

 内陸部になるほど地方と呼ばれ人口も少ない、特に西北側になると少数民族、乾燥地帯で厳しいという形だ。国民のほとんどが農民だったが、政策で重厚量を強化しようとした。そのため、地方の農民の農作物を国が安く購入。それを都市部に流すことで、地方政府は穀物の生産を最大化するように命じた。

 

 しかし改革解放、人民公社の解体で農村部の所得が増えていた。一方で都市では生活水準の高くて開放性もあった海外事情を知って不満が高まった。賃金は高くなったがそれ以上にインフレを起こし、若者の就職も期待できない状況だった。それが89年のデモ、天安門事件につがったと言われている。この事件があって以降、都市部の生活水準向上を目指すことになった。

 

また明日も紹介しますので、良かったらチェックしてみて下さい。

 

 

 

 

 

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