三井高利と越後屋 今回紹介するのは「三井グループ」似たような財閥「三菱」もありますが、体質は全然違います。三井家のルーツを探ると、藤原道長に行き着くらしいが、戦国時代に近江の武士から伊勢に移って伊勢松阪で質屋兼酒屋を開いた。質屋でお金作り、そのままお酒で使ってもらう?そんなスタイルだったよう。

 

 1622年その家の8人兄弟の末っ子として誕生したのが三井家の元祖的存在、三井高利。この高利は14歳で江戸に出て、兄の店で働き28歳で再び地元の松阪へ戻った。高利は母親の面倒を見ながら金融業に励み、武士や農村に貸付を行っていたようだった。

 

 それで、高利は力をため、金融業でお金を貯めながら子供達は江戸に出して修行をさせた。1673年、高利が52歳の時に江戸、現在の中央区日本橋に出店し呉服の販売を開始、この店の屋号が越後屋。さらに京都にも出店。京都の店で仕入れ、ここに長男を置いた、直接仕入れ中間マージンをなくした。京都の呉服を安く仕入れ利幅が大きく儲かったようだ。

 

 しかし、それが同業者の反発を招き「店の台所に向けて便所が作られた」などの嫌がらせを受けた。大火事になったのがきっかけで店を少し移転、そこでも越後屋は成功して大繁盛したようだ。

 

 越後屋の成功は、店先現金掛け値なしがあたった。それまで呉服は適正価格というのが分かりにくく購入するには知識と交渉力がないと難しかった。それがどんな客でも同じ値段に買える方式にした。それまでは、武士などの一部の富裕層をターゲットにして商品を持参して都度交渉それで値段を決めて期末に一括支払い、これで店側は配送・回収・支払いまでのコストを商品に上乗せしなければならない。それを店先でニコニコ現金払いにすることによってコストを削れる、結果安く呉服を提供できる。

 

 他には切売り、当時は一反単位での販売しかダメで、切売りは商慣習で禁じられていた。これにより越後屋は奉行所に罰金を支払ったが、大衆を味方につけることができた。他には、買って直ぐ着られる仕立て売りやチラシみたいな宣伝活動も行っていた。当時の江戸は新たな中心地で人口が急増していて、庶民が増えて呉服の需要が高まった。

 

 越後屋は出店して10年で売上が5倍伸びた。そのおまけで付いてきたのが同業他社の反発だった。越後屋は呉服屋のほかに両替店を始めた。金・銀・銭とかの両替はもちろん、貸付や為替業務も行うようになった。為替本来の意味は「現金を直接使わない支払いのこと」江戸時代に多かったパターンだと、大阪で商人に売って江戸にお金が集まることが多くあったが、当時は現金輸送が主にリスクがあった。それで現金を使わずに為替手形を大阪で発行してもらい、江戸で現金化した。この両替店は貸付も行なっていて、大名が相手のケースもあった。三井は大名だけでなく幕府も相手にした、いわゆる御用商人だった。

 

幕府御用 大阪にも店を開き、為替御用方となって儲かったそうだ。その後、大きな成功を収めた高利は1694年に亡くなった。それで、高利は子供達に遺産の配分を指示したが、子どもたちはその配分を無視した。

 

「商売が拡大したので店を統一した方が良い」

 

各家の持ち分を決めたり、決まりごとを作って財産を共有、そのために大元方という組織を作った。各店はこの大元方に上納される仕組み、今で言うホールディングスみたいな仕組みだった。子どもたちはそれぞれ北家・伊皿子家・新町家などと名乗った。これがのちに十一家となり、通称三井十一家と呼ばれるようになる。この大元方という存在が三井の特徴だ。

 

幕末の大勝負

 時代はペリー来航後の幕末。外国との貿易が増え、幕府は三井に横浜の出店と輸出関連のお金を任せることに。しかし、この頃不良債権や貨幣改鋳でインフレを起こしていて、三井の経営状態は悪かった。それで、この頃三井をさらに悩ませていたのが、幕府から課せられていた御用金。御用金とは、例えば幕府からこんな依頼が来る。

 

「今度京都守護職に就くので、屋敷作るからお金出して」

「家の将軍が上洛するのでお金出して」

「長州征伐しに行くからお金出して」

 

と、度々臨時でお金をせびりに来る、その額3年で266万両。幕府は三井横浜店が赤字なのを知ってて、預かり金の全額没収、あるいは財産没収をチラつかせてた。当時の三井の番頭は江戸の両替商、美野川利八に依頼して御用金減額を依頼。彼は幕府勘定奉行と縁が深く、頼みを聞いてもらえると思った。その結果、段階的に御用金は減っていき、その後せびりにも来なくなった。この功績により美野川は三井に入ることになり、名前も三野村利左エ門となった。

 

 1867年大政奉還が行われた、この後旧幕府軍と新政府軍が激突する戊辰戦争が起きるわけだが、問題は三井がどうするか?300年続いた幕府の御用商人という立場の一方、薩摩藩の御用達でもあった。ベットする方を間違えたら三井家が消滅する。それで、三井北家が情報収集を実施、その結果、新政府軍側に就くことにして千両を献金。その後三井は部下を新政府軍に随行させて、

 

「米を用意しろ」

「分かりました。千俵用意します」

 

「お金を用意して」

「2.5万両用意しました」

 

新政府軍に全面協力したことにより、三井は明治政府も有力な商人としての地位を維持した。明治政府からも租税の送金納入を行うなど、金融業務を任されていた。

 

また明日も紹介しますので、良かったらチェックしてみて下さい。

 

 

 

 

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