創業期 今回紹介するのは「住友財閥」。住友家の初代は住友小次郎正友という人物。この正友は宗教家、僧侶だった。ただ、正友の宗派が攻撃を受け解散、幹部は逮捕、正友は下総佐倉に飛ばされた。その後、正友一派は天台宗に吸収された。

 

 正友は特定の宗派には属さず、薬屋、本屋の商売を始めた。この同時期に正友の姉の婿で蘇我利右衛門という銅商がいた。この利右衛門が南蛮人のハックスレ―から南蛮吹きという技術を教えてもらった。南蛮吹きとは、銅の元となる粗銅から銅と金銀を分ける技術。ここから南蛮吹きを完成させて大きな利益を得た。

 

 利右衛門はハックスレ―への感謝を後世に伝えるため、店の屋号を泉屋とした。泉屋の泉はハックスレーを漢字にして白水、この二文字を合わせ泉とした。この利右衛門の子供の友以が正友の婿養子となって、住友家の家督を継いだ。この友以が南蛮吹きを大阪の同業者に公開した。これによって掘られた胴は大阪を経由して精錬されるようになった。それで泉屋は南蛮吹きの宗家として尊敬され力を持つようになった。この友以が銅の精錬所と銅貿易を始めた。

 

 

 

別子銅山 その後、3代目友信が登場するが、銅屋の貨物輸入が禁止されてしまった。それで銅の買付を拡大して、鉱山経営への参入を考えた。住友は後発だったから幕府直轄の領地や中小の鉱山を請け負っていた。この下積みが評価されて、1691年に住友にとって最も重要となる別子銅山の開発・経営をすることになった。

 

 鉱山はかなり博打要素が大きく、特に昔はリスクが高く危険と隣り合わせだった。鉱床を見つけてもそれがいいものかどうかというのかは掘ってみなければ分からない。なので、投機的な商売をする人の比喩表現として山師が使われている。

 

 そんなリスクが高い鉱山の中で別子銅山は大当たり、1691年に開坑して1698年には1521トン産出。当時、日本から輸出された銅の4分の1に及んで、働いてた人は約2600人。この別子銅山は1973年の閉山まで280年間掘り続けた。この別子銅山をバックに拡大し、両替商も始めた。住友は全国の銅の採掘・販売や大名に融資する大名貸をやったりもした。

 

 そんな成長した住友に大きな危機が訪れた。1867年大政奉還により江戸幕府が終わりを告げた。その後、戊申戦争になるが、大阪は新政府の支配下になった。幕府の銅関係施設などが差し押さえられ、住友の施設も対象となった。それで銅精錬は止まってしまい、コストだけがかかるようになった。なんとか銅蔵の封印は解除するが、今度は別子銅山が土佐藩に差し押さえられた。ここで動いたのが別子支配人の広瀬宰平。新政府側の土佐藩に、

 

「今後も継続して住友に経営させてほしい」

 

と嘆願した。実はこの時、土佐藩側の現場責任者が川田小一郎だった。川田は広瀬の話を聞いて鉱山を調査した結果、

 

「住友に経営してもらった方がいい」

 

と上を説得してくれて、引き続き別子銅山は住友家が経営することになった。南蛮吹きの一般公開などやそれまでの住友の鉱石も評価されての決定だったようだ。次に明治以降の住友家の歴史について見ていきます。

 

 

住友存続の危機 住友家は別子銅山を取り戻したが、貸付金が回収不能になりそうになり再びピンチとなった。貸付ていたのは信用力のある大名だったが、その大名への貸付金18万両が回収不能になりそうだった。住友の大阪本店の重役たちは、

 

「別子銅山を10万円で売却して借金返して、残ったお金で本家の維持に充てよう」

 

別子銅山の産銅高は421トンと再生機の3分の1以下に激減した。これに反対したのが別子総支配人の広瀬宰平、広瀬は政府のお雇い外国人から採鉱技術を学んだ。広瀬はこれでも足りないと思い、1874年にフランス人鉱山技師を雇った。その外国人の給料は広瀬の給料の6倍に相当した。

 

 彼らの意見を取り入れて別子純利益7年分にも及ぶ大規模な投資を実施。多くのイノベーションを導入した結果、産銅高は1883年に約2500トンと5倍になり儲かる産業へと生まれ変わった。これらの功績で評価された広瀬は1877年総代理人を委任された。総理代人は経営の全権を委任されている、一方住友家の当主を家長と呼んで経営と所有を明確にした。以降住友はいわゆる番頭政治を徹底するが、一時期問題が起きたこともあった。

 

 1890年に12台目、友親が亡くなった。さらに13代目、友忠も同じ年に亡くなった。友忠に子供がいなかったので暫定的に友忠の母親が14代目当主になった。ただ、この母親が経営に介入し始めた。それで番頭らはこの母親を幽閉、友忠の妹に公家出身の徳大寺隆麿を婿養子に迎えて住友友純となり15代目当主にした。基本的に知純は家業に興味を持たなく、事業は全て番頭たちに任せて、自らは社交パーティーに顔を出すぐらいしかしなかった。一方、番頭たちも住友家には最大限の敬意を払い、あくまで経営を委任されている立場を崩さなかった。

 

また明日も紹介しますので、良かったらチェックしてみて下さい。

 

 

 

 

 

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