惨めな学生生活から東大へ 今回紹介する人物「江副浩正」リクルートを創業した人物。リクルートは人事関連以外にも住宅情報をSUMOや派遣事業も行っている。

 

 江副は1936年6月に大阪市天王寺区で生まれた。父は数学教師だった。父は厳しかったが酒を振る舞うのが好きで、女性に酒を振る舞って最終電車まで帰らないということが多かった。そんな感じのため、江副の母は何回か変わったらしい。小学校では成績が優秀だったこともあり、灘と並ぶ名門私立の甲南学園に進学した。甲南は学費が日本一高いと言われ、財界の子供たちが多く通ってた。周りは金持ちだが、自分はそうではなかったので惨めな気持ちになったらしい。学校生活を充実させるため、お金のかからない合唱部に入部した。しかし顧問が、

 

「江副君、マネージャーやってくれる?」

 

たまに数合わせでステージに立っても、

 

「江副くんは口を開けるだけで声を出してはいけません」

 

それで新聞部に入っても文才がないと、すぐに退部した。あだ名が「じいちゃん」そんな感じで地味だったらしい。なぜかドイツ語だけ得意で、英語の代わりにドイツ語で受験ができる東京大学を受験し「じいちゃん」は無事、東大に入学した。

 

 当時の大学は、共産主義が広まってた時代で学生運動真っ盛り。そんな中、アルバイトに精を出してました。江副の家は裕福じゃなかった、アルバイト委員会のビラを見てバイトをチェックするのが日課だった。そんなことをしてた大学2年の夏にこんなバイトの求人があった。

 

「月収1万円、東京大学生新聞会、新規体制に向けて営業急募」

 

ちなみに当時の1万円は大卒初任給並だが、歩合制だった。それでも江副はこのアルバイトをやることにした。このアルバイトが江副、日本にとって大きな分岐点となった。

 

東京大学新聞 江副は徹底的に研究した、それで新聞を下から読むことにした。新聞の下は広告欄、それで東大新聞に予備校の広告を掲載した。当時の東大受験番号には合格者の名前が掲載される。受験生がそれを購入し、不合格者は悔しがる、それで次に予備校を考える。さらに合格者には年間購読を促す。

 

 その後、医学部百周年で医療関係の広告を集めた結果、集まりすぎて載せられなかったので3か月にわたって特集を組んだ。次の広告を検討していた時、学部の掲示板で目に付いたのが会社説明会のビラだった。それで江副は証券会社を中心に攻めた。当時、証券会社が伸びていたが、銀行などに比べたら格が落ち東大卒は来ないと思われてた。これで東大生が釣れる可能性が出ると、人気となって企業は次々と広告を出すようになった。しかし、通常の広告枠は限られてしまう。就職特集号を出して学生向け面接方法などの情報を乗せつつ、広告ページをたっぷり載せた。これは学生に大人気だった。そんな感じで学生新聞を伸ばし続けたら、歩合制の江副の月収は20万円近くなった。

 

 求人広告の仕事が忙しすぎて就活を忘れて留年した。その一方で企業からは東大だけじゃなく、他の大学新聞にも載せてくれと依頼が来た。それで江副は、

 

「月給1万円ではやってられない。大学新聞で食ってくことにする。慣れた仕事で気が楽だし、時間もあまり拘束されないし」

 

1960年4月に江副は個人商店として、大学新聞広告社を立ち上げた、これが後のリクルートだった。この企業が日本の人事を変えた。

 

スタートアップ企業日本大学広告社 江副が会社を立ち上げた年、財閥系の重厚長大産業の他に家電業界、証券業界、化学繊維などが台頭してきた。この流れで大学新聞広告社の受注は伸びた、中には7段使って目立たせるような依頼もあった。さらに、他の大学も掲載したいという要望に応えて、全国の大学にも対応、東大生のアルバイトを大量採用した。一方、顧客の中から

 

「もっと取引したいけど個人商店でしょ。法人組織にして信用力を高めてほしい」

 

それで株式会社に組織変更。他にも当時、森ビルに入っていたが、当時は森不動産という名前で小さなビルを運営してるだけだった。しかも、この屋上の掘っ立て小屋に入居してて、雨漏りしまくって「漏りビル」とぼやいていたようだ。

 

 この快進撃の中懸念もあった。学生運動が盛んで、特に安保闘争で盛り上がっており、大学全体が左傾化、企業から広告をとり続けられるかが不安だった。それで、入社案内制作や名簿事業などの小さい事業を始めた。江副はここで変なアイディアを社内で出してみた。

 

「広告だけの雑誌はどうだろうか、これを無料で配る」

「求人の情報を主に載せて、その広告費だけで利益を出すんだ」

 

広告を売り込みに行った。

 

「あそこ出すんだったらうちも出すよ」

「向こうが出すのなら検討する」

 

という前向きに善処します、という回答に終わった。無名のベンチャーが全く新しいことを始めることに信用されなかった。結果、150社掲載目標で実際に掲載できたのは69社。その中でも多くが無料で売上になったのが29社。当時、景気悪化で企業の採用活動が鈍化したのも要因の一つだった。さらに、印刷所が前金を払わないと擦りたくないと言い始めた。当時、会社はアルバイトの給料も遅延してたほど資金繰りに困っていた。この時江副の父親が現れ、お金に困っていることを聞いて江副に、

 

「これを証券会社に行ってお金に変えろ」

 

と、株券をもらった。しかし、友人の証券マンに相談すると、その株が紙クズ同然だということが判明した。それでもその証券マンが上手くやり、高値で売ることに成功した。顧客からも前金を入れてもらったり、信金から資金調達することで、なんとかお金を工面して発行できた。これが世界初の就職情報誌「企業への招待」だった。

 

 それまで就職は、新聞に広告を掲載したり、大学の掲示板で人を集めて説明会を開いたり、コネで入社するという感じだった。これだと伝統的な大企業ならともかくベンチャーだとなかなか人を集められないという状況だった。しかも、各社言いたいことを言うという感じだから情報を比較できなかった。「企業への招待」は企業の必須の記入項目で「情報を統一」して比較しやすくした。この「企業への招待」が会社の成長へ導いた。

 

また明日も紹介しますので、良かったらチェックしてみて下さい。

 

 

 

 

にほんブログ村 株ブログへ にほんブログ村 株ブログ サラリーマン投資家へ