今回は昨日の続きとなります。良かったらチェックしてみて下さい。

https://ameblo.jp/masatolevel3/entry-12824663386.html

 

開成館は無能だった? 開成館のトップが後藤象二郎。後藤は弥太郎を思い出し開成館の仕事を命じたが1ヶ月で退職した。最初はやる気を出して働いていたが3日でやる気をなくした。弥太郎の上役が無能で頑固、しかも弥太郎に対して

 

「郷士風情が」

「東洋暗殺の下手人探しで上京し、身の危険を感じてさっさと帰国したやつか」

 

と陰口をたたかれた。弥太郎は最後に、

 

「開成館は小鳥のエサを鉢でこね回しているようなもので、大事業なんかできるわけない」

 

と言って辞めていったった。この失敗するという弥太郎の指摘は見事的中した。外国人との交渉が下手くそで、赤字はどんどんと膨れ上がり、樟脳などの専売化により商品の流通は停滞、庶民の生活を圧迫した。それで土佐藩はある打開策を打った。

 

「開成館に藩独自の紙幣である藩札の発行権を付与すれば解決」

 

結果、無計画に藩札が乱発、藩内でインフレが起きてしまった。領民たちは阿呆館と呼んでいた。

 

 こういう状況だが貿易は重要で円滑に行う為に長崎と大阪に開成館の出先機関、土佐商会を設立。特に、当時貿易の中心は長崎だったので長崎土佐商会は重要だった。そこで後藤が自ら長崎土佐商会に入り動いた。ただ後藤象二郎には経営の才能がなく、外国商人と交渉をして損失を減らしたりしたが、経費に糸目をつけないで上海で船を購入したり、商会用の家屋を購入して高額な接待費を使ったりと、1867年には長崎土佐商会で20万両の負債を背負うことに。

 

 後藤は切り札・弥太郎を召喚した。村で悠々自適に暮らしている弥太郎を呼び出し長崎土佐商会で働いてもらうことにした。弥太郎の権限を大幅に拡大、弥太郎自身勝手に止めていったの悪いと感じたようで、8年ぶりに長崎に戻ってきた。ここから弥太郎が評価されていく。

 

弥太郎と坂本龍馬と海援隊 8年ぶりに長崎に到着した弥太郎は早速長崎土佐商会に入った。後藤から上役に釘を刺していたが、相変わらず郷士に対する差別が多かった。そんなのお構いなしに弥太郎はイギリス商人やアメリカ商人を接待しまくった。弥太郎は将来的なメリットが見込める相手とは金に糸目をつけず、接待で相手の懐に入り込み関係を強くした。これが弥太郎の才能の一つだった。そしてこの頃坂本龍馬と出会っている。

 

 坂本らの脱藩が許され、坂本が作った長崎の亀山社中、後の海援隊が土佐藩直属の海運業となった。海援隊は坂本龍馬が隊長で独立経営という建前だったが、実際は土佐商会が赤字を補填していた。長崎土佐商会での弥太郎の評価はうなぎ上りで責任者に任命された。順風満帆そうに見える弥太郎だったが、海援隊が物凄い金食い虫だったことが悩みの種だった。

 

「長州の木戸孝允が長崎に滞在するので1000両貸して」

「オランダ人からライフル銃を買うので1.8万両払って」

 

坂本は大義のためと言って土佐商会から資金を引っ張った。坂本は姉宛てに送った手紙でこう綴っている。

 

「土佐藩からは一銭の助けを受けないで50人の仲間を養っている。だから利益を求めざるを得ないのです」

 

この海援隊でのエピソードで、土佐海援隊の初航海の時に坂本が乗っていた”いろは丸”が船と衝突して沈没事故を起こした。乗組員は相手の船に乗り移って助かった。坂本は相手の船に乗り移ったら航海日誌を押収した。坂本は徳川御三家の紀州藩に訴えを起こし弥太郎はこれに同席。紀州藩は長崎奉行所に圧力をかけた。弥太郎も同席して紀州藩と談判を行った。坂本は押収した航海日誌を証拠にし、万国公法を根拠に主張し紀州藩から7万両の賠償金をゲットした。それを目の当たりにした弥太郎は知見が広がったと言われている。

 

 この裁判中に後藤と坂本は上洛して、その後船中八策ができ大政奉還につながった。そんなことが起きても弥太郎ら裏方は四苦八苦していた。土佐藩は汽船や銃器、毛織物を輸入していて輸出は樟脳や鰹節などで圧倒的に輸入超過の貿易赤字。海援隊も

 

「天下のために働いている、文句を言うな」

 

どんぶり勘定で出費がかさんだので、支払いの分割や樟脳の物納を代金の一部にするなどあらゆるやりくりをしていた。

 

大阪商会と弥太郎の出世 江戸幕府が大政奉還を行い時代は大きく変化した。そんな中、海援隊を支えていた長崎土佐商会を切り盛りしていた岩崎弥太郎だったが、坂本龍馬が暗殺される事件が起きた。色々な陰謀論があるが、当時薩摩と長州を同盟させ強力な反幕府勢力を誕生させ、江戸幕府を終わらせた要因にもなった。弥太郎は愕然とするものの、長崎土佐商会での活躍が認められて上司階級となった。これは東洋が行うあった藩政改革で可能になった。

 

 王政復古の大号令が出て土佐藩は薩摩・長州とともに朝廷側につき旧幕府側と戊辰戦争で戦うことに。弥太郎は準備で奔走、土佐藩は海外から銃や戦費40万両を調達した。藩や弥太郎の上司はお金がどこからかわいてくるものと思ってたらしい。鳥羽伏見の戦いなどが繰り広げられる中、大阪港などが開港。経済の中心は長崎から大阪に移ったので、長崎土佐商会は閉鎖、お荷物だった海援隊は解散が決定。ただ弥太郎は残務整理と武器調達のために長崎に残った。

 

 1869年にようやく開成館貨殖局大阪出張所、通称大阪紹介に赴任した。大阪での商売は弥太郎でも苦労した。当時は御用商人、様々な特権が与えられている商人達を介して取引をせざるを得なかった。大名は売買交渉や商品流通、為替決済などを御用商人に任せてた。

 

 弥太郎は御用商人を通さず直接取引で利益を上げようとした。主な取引相手は外国商人になので、外国人相手だったら大阪商人より自分の方が強いため、外国商人に対して接待や巧みな交渉で継続的に取引をしていき、国内外に売る商品、土佐の特産品を藩が一括で購入、それを藩船で相手の指定場所へ運んだ。このビジネスモデルで商会の売り上げ、利益率が急速に伸びてた。御用商人からの猛抗議があったが弥太郎はのらりくらりとかわした。

 

 この成功で他の藩は外国商館との取引斡旋を大阪紹介に依頼してくるようになった。弥太郎の性格は外国人からのウケがよく弥太郎を頼るようになった。弥太郎は交渉も非常に上手く、借入仲介や支払延期の交渉などの金融相談も個人で依頼がきてたほどだった。

 

 当時、武士に商売意識がほとんどなく廃藩置県後に商売に手を出した武士はことごとく失敗した。具体的な取引例として、船を4.5万ドルで購入、これを1カ月後に新宮藩に対して7.5万ドルで売却している。しかし新宮藩は2000ドルしか払えなかった。弥太郎は2つの炭鉱の15年間の採掘権を新宮藩から手に入れた。

 

 弥太郎の評価はどんどんと上がり、大阪藩邸のトップにまで上り詰めた。1871年に京都藩邸も管轄するようになった。この頃土佐藩で2つの問題があった。大阪の蔵屋敷で戦争の必要になるだろう大量の偽金を作っていた。その偽金100両につき正規の貨幣で30両で弥太郎が回収した。

 

 また、開成館が発行した藩札、土佐藩は藩札をいくら発行したか把握してなかった。20万両分の政府発行の太政官札を用意して、額面の7割で回収した。これでも足りなく大阪で追加の交換に応じた。色んな問題があった大阪紹介だが閉鎖の危機が訪れた。

 

「藩が運営する商社や蔵屋敷商法が民業を圧迫しちゃいけない」

 

ということでこれらが廃止の方向に動いた。土佐藩の首脳らは大阪商会を民業として活動することにした。1870年10月大阪商会は九十九商会の名称で汽船運輸業へ転換、藩の船を3隻借用する許可を受けて開業した。

 

また明日も紹介しますので、良かったらチェックしてみて下さい。

 

 

 

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