今回は昨日に引き続きイギリス産業革命について紹介します。昨日の記事も良かったらチェックしてみて下さい。

https://ameblo.jp/masatolevel3/entry-12812788228.html

 

製鉄の進化

 製鉄は鉄鉱石から銑鉄を作りますが、そのとき使う木炭が不足しました。石炭を使用すればよいですが、石炭だと不純物を取り除いて持続的に風を送って高温状態を保つ必要があります。それで、エイブラハム・ダービー1世が石炭を蒸し焼きにしたコークスで不純物を除去することに成功しました。

 

 銑鉄はできてもこれを錬鉄にしなければなりません。ヘンリ・ーコートが反射炉を利用したパドル法という手法で解決。イギリスにおける銑鉄の生産量は1750年2.8万とんだったのが、1850年には200万トンに増加しました。この頃、道路も急速に発展しました。18世紀初めに最も良い道路はと聞かれると「古代ローマ人が作った舗装道路」と言われたようで、重い荷物を積んだ車が通れず、運賃が貸さんで値段が高騰。それで車や重量の規制をしますが、後に有料道路制度にし、そのお金で道路の新設や改修に利用しました。それで道路事情は良くなりましたが、旅行者の不評を買ってしまい、しばしば暴徒が日夜集団をなして通行税徴収の関門や駐在所を襲ったり、焼き払ったり、壊す集団が現れました。

 

農業革命 これまで三圃制と呼ばれる農法で一部土地を休ませる必要がありましたが、18世紀ぐらいから輪裁式農業が誕生、土地を休ませる必要がなくなりました。従来の穀物に加えて家畜用の作物として栽培牧草や根菜を育てることで可能になりました。それで土地の囲い込みが行われました。

 

 この頃の農地は個々の農民に存在してなく、村落全体で分割して農民が耕地するという解放耕地制でした。それが技術革新で高度集約的農業が導入され、土地が集約化されました。休閑地が縮小し作付面積が増大、冬場の家畜のための資料不足が解消、家畜を増やすことができ、家畜から肥料が増えて穀物の増収につながりました。

 

 本来農業の生産量は急激に増えませんが、人口は急激に増えることがあります。ですが食料がボトルネックになって人口が急激に増えませんでした。農業革命が起きたことで人口が爆発的に増えたと言われてます。実際、イングランドの人口は1701年500万人でしたが、1851年には1681万人まで増えました。もちろんその他にも公衆衛生の改善で死亡率が急速に減少したり、穀物価格の低下、雇用の増大など色々と理由はあります。

 

 これら生産力と生産効率が急速に上がると農民は余ることになります。余った農民はイギリスの都市部に職を求めて移動しました。それで発達したのが織物・紡績業です。1733年に織布工のジョン・ケイが飛び杼を開発。この発明により綿布の生産速度を従来の倍にできました。生産能力が上がり今度は綿糸の生産が追いつかなくなります。1764年にハーグリーブスが開発したジェニー紡績機により生産能力が格段に上がりました。さらに同時期にリチャード・アークライトが水力紡績機を開発。この機械は大型ですが水力を利用して大量生産が可能で、大量の労働者で生産でき熟練作業者必要としない画期的なものでした。

 

 さらにこの紡績機を合体させたクロンプトンのミュール紡績機が1790年代に導入され始めます。これで糸の大量生産が可能になりました。1785年にカートライトが蒸気機関を動力とする機械動力式の織機を開発。ミュール紡績機により良質な糸を生産できるようになり、今までインド製品の独占状態を打ち破りました。生産量は増大していき1750年から90年の間に綿花の輸入量は11倍となりました。農業に石炭、製鉄に紡績とイギリスは多くの革新があって「産業革命」となり、最強国家となっていきました。

 

産業革命の影 農業従事者が仕事を求めて都市に集まり、都市の人口が急増し、都市は運河沿いに中性的なゴシック様式の建物発達しました。一方、工場の煙突から出る煤煙で大気汚染、都市計画を欠いた開発で住居不足でスラム街が形成されました。今まで民衆は庭で野菜を栽培したリ衣服を自宅で繕っていましたが、市場から購入する頻度が増えました。工場経営となって熟練工を必要としなくなり、女性や子どもの労働が増えていきました。

 

 当時、疫病や川の水質汚染、悪臭が問題視され、国会議事堂では呼吸困難になりそうになるほど臭くなり、遊覧船も運休するほどでした。また、イギリスといえはパブ。元々はパブリックハウスから来ていて、宿屋や集会所、娯楽センターなど街では様々な機能を果たしてました。産業革命以前では教会と関係が強く、教区会議や日曜学校はパブで行われ、牧師は教会のビールをハブで飲むことを勧め、中には遠方から来る人はお祈り前に一杯ひっかけていました。

 

 労働者階級は特にアルコールを求め、週給が支払われた日は仕事を少し早じまいにし安価に買えるジンを飲んで泥酔してたらしいです。挙句、酒代が足りなく何でも質屋に入れていたらしく、1840年代のマンチェスターには60件以上の質屋があったようです。一部の労働者・貧民階級では赤ん坊にまで酒を飲ませてたという記録があったようです。泣いている子供にビールやジンなどを飲ませて眠らせてました。中にはアヘンを含ませて秘薬として街の薬局で販売していたようです。原因は育児の仕方が適切ではなく、母親も働いて忙しかったのが要因です。分娩して3日後に工場で働くことはよくあったようです。産業革命の光があると同時に影もあったということです。

 

最後に

 「産業革命」は様々な産業の発展を促したと同時に、様々な問題が出たことも事実です。それらの問題は現在の環境問題や社会問題にもつながり、産業の歴史を知ることで今後の取り組むべき方向性が見えてくるものだと思います。

 

 

 

 

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