第1話 優勝に学ぶ
夏になれば思い出す Part 1 優勝V.2.1
試合に勝つとか優勝旗を手にすることを強く望み、その予測や期待が現実の成果となって現われた時、感涙にむせぶという喜びがあります。→ 1964年東京オリンピック 日本女子バレーボール優勝
また「え、! オレたちが優勝 ?」「なんで(やねん) ?」と、意外(surprise)な驚きに喜ぶ、というのもあります。
そして、そんな思いがけない栄誉に遭遇するという、いわば大騒ぎから一歩離れたところでこれを眺めたからこそ「気づいた・気づかされた」ということもあるのです。
1980年(昭和55年)7月初、関東リーグ戦の決勝リーグが早稲田大学体育館で行われました。この年は関東で日本拳法をやる大学が最も多い時期であったらしく、6月初旬に予選リーグが行われ、要は、夏の大会が2回あったのです。
この大会で、思いがけず私たちが優勝した瞬間、それを2024年のいま思い出すことで、私は3つのことを学ぶことができました。
○ チーム・スピリットの素晴らしさ(全体は部分の総和に勝る)
○ 尹澤先輩は日本人である ?
○ 無理やり「部分を全体に組み入れる」(愚かさ)
第2話 勝ち点一つで優勝 ?
私たちチームの最終戦が終わり、私は体育館の外に出ると、「やれやれ」という感じで夕暮れ間近の明るい西の空を見ながら、一人のんびりベンチで煙草を吸っていました。 「2部落ちはなんとかまぬがれたし、おまけに決勝リーグまで進む、なんておまけもついたのだから、私の2ヶ月間の逃亡というチョンボも帳消しになるかな。」なんて、自分一人で大会終了の安堵感を味わっていました。 → 拙著「思い出は一瞬のうちに」
しばらくして体育館へ戻ってみると、館内の空気は大会最後の試合の熱気で奮えています。 両校のほぼ真ん中、試合コートから15メートルほど離れたところまで近づくと、案の定、立教と中央の試合です。
「ハハーン、これが最終決戦か。今年の優勝は立教か中央どっちかな。」なんて思いながら眺めていると、私から数メートル前で観戦中のキャプテン中村が、後ろに立つ私に気づき、ニコニコしながら走り寄ってきます。 「先輩 ! この中堅戦で立教が勝つと、私たちが優勝なんですよ。」なんて、とんでもないことを言う。「ええ ! なんだ、そりゃ ?」「勝ち点一つの差で ! 喜喜喜・・・。」と、まるでスキップでもするかのような足取りで仲間たちのところへ戻っていきました。
勝敗表を見ると、確かに先鋒・次鋒・三方まで立教に○がついている。しかし、予選リーグからの累計なのか決勝リーグだけなのかわかりませんが、勝ち星一つでウチが優勝なんて、そんな「うまい話」があるものなのか、と私はまだ半信半疑でした。
第3話 チーム力(全体は部分の総和に勝る)
「全体は部分の総和に勝る」という箴言を知ったのはつい最近ですが、この言葉の意味を最もよく私に教えてくれたのは、45年前の立教大学(と中央大学)でした。
現在、特に年末に行われる全日本大学選手権などでは、試合に臨む両校、選手の後ろで応援できるのは、補欠選手数名とマネージャー2名まで、なんて制限があるようですが、当時は選手のすぐ後ろで、友人(彼女)知人何名でも応援していたのです。 この時の立教・中央両校とも、選手・部員の後ろに約20名くらいの応援(団)がひしめき、男も女も声を振り絞り、拳を振り上げていたのですが、その迫力たるや体育館の天井を突き破らんとするほどでした。
特に、天下分け目・剣ヶ峯(事が成るか成らぬかのぎりぎりの分れめ)となった中堅戦、立教サイドでは誰も座っていません。すでに試合を終えた先鋒・次鋒・三方、そして、これから試合に臨む三将・副将・大将までもが立ち上がり、友人知人を含めた30名全員が声を嗄らし・拳を振り上げているさまは、まるでロシア・トレチャコフ美術館蔵「演説するレーニンの後ろで数十人の同志が拳を振り上げ、ツァーリ・皇帝打倒を叫ぶ」という、大きな絵画を連想させます(共産主義は関係ありません)。
この中堅戦、2分30秒までは気力・体力・技術力すべてにわたり、両者全くの互角というせめぎ合いでした。互いに激しい攻防戦というか、両者ともに攻撃一色で前へ出るという激しい消耗戦です。
しかし、残り30秒、コート上で戦う選手に覆い被さるかのような30人の声援が、1本の拳に集約されたかのようにして、相手選手の顔面に突き刺さったのです。
まさに、
「Vox Populi, vox Dei 民の声は神の声なり。」
或いは
「天の時は地の利に如(し)かず、地の利は人の和に如かず」
天の定めた時勢でさえも場と間合いの利には及ばない。しかし、「場と間合いとタイミングの妙」さえも人の和には圧倒される、ということでしょうか。
立教も中央も、大学カラーとしては、ともにコンサーバティブ(保守的)というか理知的というか、穏健派(おだやか)であり、元気のいい早稲田や、元気どころか凶暴な日大とは違うのですが、この時の立教・中央の声援とは、かれらの真面目で素直なスピリット(魂)が、そのままストレートに選手に伝播した、という感じでした。
「伝統の一戦」なんて、色のついたというか・変にバイアスがかかった応援とは、当人たちには励みになるでしょうが、部外者からはどうしても距離を置いて見てしまう。
ところが、ただただ単純で純粋な気持ちから「頑張れ」と、選手の心を後押しするピュアな心の集積が、現実に選手の心と肉体に作用する姿とは、第三者の私でも心が奮えます。
「これで勝てば私たちが優勝」なんて気持ちは、その時の私にはまったくありません。「伝統の一戦」だとか「名誉をかけた戦い」なんていう余計なキャプションもない。
単に2つの学校が目の前で死闘を繰り広げている、というだけ。
しかも、その激しい戦いは試合コート上の選手ばかりではない。控えの選手もマネージャーもその友人知人も、両校数十名全員が「無私の精神」で一丸となって闘っているのです。ですから、そんな彼らの姿に、同じく「私心のない」私の魂もまた共鳴し打ち震えたのです。
中村たち10数名は試合コートのすぐ近くで観戦していたのですが、私はそこから更に数メートル離れたところで見ていたので、選手という先端と、応援(団)というバックアップ(後援)の関係を、より広い視野で見ることができた、ということもあるでしょう。 1年前の文藝春秋に塩野七生(「海の都の物語」著者)氏が、現在の日本人があまりにも(政治家や社会の)嘘によって、日本人本来の素の心、純粋で正直な心を忘れさせられていることに警鐘を鳴らしておられましたが、40年前の両校の声援とは、何の気取りも衒いも高慢もない、正直な素の心でした。
あれが、「伝統の早慶戦」なんてキャッチフレーズが入るような声援であったなら、どんなに熱烈な応援であろうとも、すぐにその記憶は消え去り、試合結果だけが「記録に残る」だけ、であったかもしれません。 しかし、彼ら立教と中央の、素の心・純粋で正直でストレートな「心を見る」ことができたからこそ、その思い出は40年以上経ったいま、より一層味わい深く、心の中にしっかりと残っているのではないでしょうか。
第4話 尹澤先輩は在来種純粋日本人か?
立教が勝った時、私の数メートル前に並ぶ10数名の仲間たちは、互いに手を取り合ったり、控えめな嬉しさを滲ませていましたが、一人、キャプテン中村だけが、まるで自分が勝って優勝を決めたかのようにガッツポーズなんかしていました。 一ヶ月前の予選リーグでは、「2部落ちしたら国へ帰る」とベソをかいていた姿が思い浮かびます。しかし、まあ、この変わり身の早さこそがチームを引っ張ったのかもしれないなんて、この時ようやく湧いてきた「優勝」という感慨に私は耽っていました。
フト、試合コート斜め上の観客席に目をやると、白い革靴に真っ白のパンタロン、真っ赤なアロハシャツに金のネックレス、パンチパーマ頭で体格のがっしりとした背の高い、まるで蒲田や川崎、新宿の歌舞伎町あたりで見かけるような、その筋の人そのもの。そんな男性が両手を挙げながら、ゴリラのように飛び上がって吠えている。なんと、我が校のコーチ尹澤先輩ではありませんか。(そこそこ観客がいたにもかかわらず、先輩の周りだけは、誰も人がいません。)
私はこの瞬間、「優勝してよかった」という、しみじみとした気持ちになりました。自分が嬉しいというよりも、自分たちの優勝をこんなにも、身も世もない態で(わが身も世間体も考えていられないくらい)無邪気に喜んでくれる先輩・仲間がいる。
そこで初めて「オレたちは何か、人のためになることができたんだ。」という実感(幸福感)が湧いてきたのです。 あれから45年経ち、更にいま思うのは、尹澤先輩とは在日韓国人(的)ではなく、むしろ在来種純粋日本人的人間なのではないか、ということです。在日韓国人というのは、一般に「格好つける」人が多い。ごく自然に自分の姿・素性、素の本性で生きることができず、いつでも“誰かの台詞(ことば)で自分というものを繕(とりつくろ)い、誰かのフリをして生きている”。尹先輩のように、身体全体で素直に自分の感情を表出することができない。誰かのモノマネでしか、自分を表現できないのです。
まあ、通名という偽名で生きているというか、2つの名前で生きている人間が精神的に不安定になるのは仕方がない。ID(存在証明)が2つある、というのは、その人の生き方に、実は大きな負荷がかかっているのです。
ところが、この先輩は生まれた時からずっと韓国名1本で通してきた。「2枚舌」ではなく、「オレは韓国人だ」という一枚看板で勝負する潔(いさぎよ)さと強さがある。ものの考え方に余計な虚飾がないから、時に日本人以上にストレートなものの見方ができる。
もちろん、高校3年間、韓国で全校生徒に虐められてきた経験から「韓国人的悪」の感化を無意識に受けてきたかもしれませんが、「在日韓国人的要領」を使って(姑息に)生きる、ということを病的なくらい嫌っていたという点で、その身上(しんじょう:その人が身につけているとりえ、値打ち)が、限りなく在来種純粋日本人に近いといえるのではないだろうか。
当時の我が部の監督は、有名人の言葉を引用して訓辞を述べたりしていましたが、この尹澤先輩という人は、必ず自分の視点でものを見、自分の言葉で事象を把握し・話しておられました。その意味ではずっと在来種純粋日本人的であったといえるでしょう。
逆に言えば、在来種純粋日本人というのは、ストレートな一枚看板でしか自分を表現できないぶきっちょな体質なのです。天才・美空ひばりがどんな歌でも歌い、芝居でどんな役でもこなせたというのは、彼女の類い希なる知性と理性による強力な自己コントロールの賜物でした。
<追記>
この方は50~60年前の京浜工業地帯では有名な暴れん坊でした。(映画「悪名」の主人公・八尾の朝吉) 人間だれしも父親・先輩・(体育)教師・法律・神仏といった「怖いもの」の存在を意識して生きているものですが、この方は「西遊記」の孫悟空と同じで、地上界にも天界にも「敵の存在」を意識していない。
親は別にして、(中学生でありながら)教師や警官・刑事やヤクザでもぶん殴る・暴れ回ると、手がつけられない。在日韓国人社会(という多少ゆるい枠)でさえ、この人を嵌(は)めることができない。
結局、孫悟空と同じく「追放」となりました。 すなわち、日本にこのままいるのであれば、(孫悟空が閉じ込められた)石牢(練馬鑑別所)、それが嫌なら韓国(の高校)へ行けということです。 当然、誰しも練鑑でヤクザとしての箔をつけるよりも、韓国で高卒の資格を取った方がマシと考えるわけですが、それが不幸の始まり。60年前の練監という地獄以上の苦難が待ち受けていたのです。
それくらいの暴れ者が(韓国で)「いじめられる」というのは、相当なものです。 先ず、当時の韓国人は在日韓国人を目の敵にしていて、いじめるどころか殺しても法的・社会的に罪にならない。ケンカを売ってくるのではなく、初めから殺しにかかってくるのだそうです。しかも、全校生徒どころか周囲の全員が敵。ですから、ずいぶんと鍛えられたそうです。
しかし、この方が在日韓国人として卓出していると思うのは、高校3年間それだけ危険な目に遭ってもなお懲りず、日本に戻るや大学で日本拳法なんかをやって、さらなる「わが闘争」の道を追求されていらしたことでしょう。全く以て「在日韓国人」を越えた人なのです。
もちろん、これらの話はこの方のほんの一面であり、この程度の限定された情報を以て人間を神格化するつもりはありません。 ただ、一般的な在日韓国人とはかなり違い、「芯の強さ」「回帰性」「形而上的に帰属するものを持っている」人であると、私は感じるのです。
(奥さまがかなりしっかりされた方なので、型破りの人生がなんとか型にはまってこれたのかもしれません)。
第5話 何でもかんでも「部分を総和に組み入れる」(愚かさ)
さて、表彰式も終わり、大会終了・解散となった時、会場から離れようとする私のすぐ後ろで「ワッショイ、ワッショイ」という掛け声が聞こえます。 振り向くと、部員たちによるOB会長や監督・コーチの胴上げが始まっています。 私は数メートル離れたところで、ダブりという立場からの感慨に耽りながら、そんな光景をしみじみと眺めていました。
すると、胴上げをしていた一人のOBが私の姿を認めるや、象のような巨体を揺るがし、鬼のような形相でこちらに向かって突進してきます。そして、「ヒー・ラー・グー・リー !」と叫びながら、その最後のホップ・ステップ・ジャンプで、ガツンと一発、私の目の前に星が燦(きら)めきました。 「きーさーまー、みんなが胴上げをやっているのに、なんでお前だけが偉そうに眺めているんだ !」「一緒に胴上げをやってこい !」と、もの凄い剣幕。
後日、キャプテン中村が「優勝して何が嬉しかったといって、平栗先輩が涙を流しながら胴上げをされている姿に感動した。」なんて言ってましたが、(私も嬉しいにはちがいありませんが)何も泣くほどのことでは・・・。
日本人とは、いつまで経っても 「部分(国民)は、全体(政府)の命令に和(盲目的に服従)しなければならない → 『令和』という年号の意味」 のだろうか。
2024年8月5日
2024年8月6日
2024年8月7日
夏になれば思い出す Part 1 優勝 V.3.1
平栗雅人