マイミクであり、東海大教授の芦田宏直氏の言葉を借りると、
ツイッターは
時間を微分する。
1)人間の格差や差別が生じるのは、長い時間(長い時間スパン)をとって人間を観察する場合のこと。
2)「いま、どうしてる」というように、人間を今=現在で切り取れば、人間の格差はほとんどなくなる。
3)人間の〈格差〉(人格差異、職業差異、男女差異、年齢差異、知識差異、専門性差異、階級的差異、経済的
差異、民族的差異、その他その他)はすべて時間スパンを長く取った格差に他ならない。
属人性を解体する。
1)微分による格差解消とは、結局、通常その人が「○○○である」と社会認知されている人格性(属人性)を解
体する。
2)格差解消の微分効果とは、平均的な人格認知が破壊され、「自由と平等」のコミュニケーション地平が生ま
れることを意味している。
3)twitterの特長とされる「属人性」はその意味では存在しない。むしろ「タイムライン」では属人性(平均的な人
格性)は微分解体の効果によって直接には消えている。
4)反省(時間を溜める行為)に基づく記述であるブログやミクシィの方がはるかに属人性は高い。
そうだ。一面では至極もっともな議論だ。
ツイッターはコミュニケーションの究極的な到達点だ、といわれることがあるが、こうした点では今のところその通りだと思う。
ちなみに、感覚的ではあるが、ミクシーやブログの更新頻度はツイッター(やミクシー内のボイス機能)の登場以来一気に落ちたように感じる(なおも高頻度で書く人は、非常に一方的な内容が多い)。
しかしそれよりも、芦田氏の指摘を踏まえて自分が考えたいことは「それはコミュニケーションなのか?」ということだ。
究極的に世界がつぶやきの連鎖であるとしたら、そこには新しい孤独(疎外)が待っているのではないか…と思うのは拙速だろうか?
少なくともツイッターが「他ならぬ自分」を認めて欲しいという欲求を叶えることはない。
あまりにも速く情報がやり取りされ、発言者が誰かは問題にならず、複雑な問題も共有しづらい。
たとえあなたを誰か有名人がフォローしても、「あなただからこそフォローする」という性質は非常に弱い。
芦田氏の主張を敷衍するならば、究極的にボーダレスなコミュニケーションは、「差異」に関わらず成立する、ということであろうか。
いや、しかしそれは究極ではない。それでは不十分なのだ。「差異」を【認めたうえで】成立することと、「差異」を捨象するのでは全く違う。
「差異=他ならぬこの自分」を認めさせたいという欲望は、あらゆる差異が不可視化される空間の中で充足されることはない(秋葉原通り魔事件を思い起こすべきだ)。
例えば誰かが「今から死ぬ」と書き込めば反応はあろう。だが、あなたが何も書き込まないことで、誰かがあなたを気遣う、ということはツイッターではほぼない。その点においてバーチャルとリアルは最も大きく異なる。
沈黙や不在をも含めたコミュニケーションはツイッター上では想像しにくいが、現実にはありふれた”コミュニケーション”だ。
確かに「情報交換」は速い方がいいが、「コミュニケーション」は人の欲求の充足、人間性の発露などもっと豊かなものだ。「速度」による疎外はボードリヤールの指摘した「あらゆる価値が並置される地獄」に似ている。
さて、「前回の「情報とは何か」の結論はこうだった。「ポイントとポイントの間に措定されるものが情報であり、人間や処理のアウトプットの手前に措定されるのが情報である」。
コミュニケーションと情報交換が等価であるならば、ツイッターはコミュニケーションに福音を告げる。
だがそうではないのだ。
そして次に考えねばならないのは「情報化」についてだ。
(続く)