走る。
この事について、深く考えたことが何度かある。
如何に、速く走れるか。
如何に、効率よい走り方ができるか。
如何に、丈夫な脚が作れるか。
もちろん、競技者として走ることに携わっていた時のことだ。
彼此、10年以上も前のことである。
競技者。
あえて、この言葉を使ったのには、理由がある。
高校生の時。
所属する部活動の名前を記入する欄に「陸上部」と、何の疑いもなしに書いたことがある。
後日、顧問の先生に注意を受けた。
「我々は、趣味で走っているのではない。競技をしているのだ。陸上競技を、だ」
競技。
技術や運動能力の優劣を、互いに競い合うこと。
つまり、我々は競技部である、と。
自らが、勝負の世界に身を置いていることを、高校生ながら、実感した出来事だった。
細かい事ではあるが、他者と競い合う事とは。
そして、勝つ事とは。
つまり、そういう事なのだ、と。
心底、実感した出来事だった。
振り返ると、これまでの半生。
高校進学も。
大学進学も。
一流企業への就職も。
全て、脚だけで得てきた。
速く走ることだけが、自らの存在意義を、より確かなものにしてきた。
自らにとって、12年間の競技者人生とは、そんな事だった。
そして、陸上競技を引退後。
走ることを、やめた。
競技者でなくなる以上、走る理由がないからだ。
走ることは、決して、楽しい事ではない。
面白いものでもない。
修行のように、苦しいものだ。
もちろん、それは僕にとってのこと。
競技者として、走り続けたせいかもしれない。
とにかく僕は、走ることをやめた。
如何に、速く走れるか。
如何に、効率よい走り方ができるか。
如何に、丈夫な脚が作れるか。
そんな事を、考えなくてよくなった。
考えなくてよくなって、10年以上。
そして、考えなくてよくなった、今。
別のことを、考えるようになった。
走ることの理由、である。
実はいま、再び、走ることを始めている。
ほぼ毎朝、10kmほどのジョギングを、2年ほど前から続けている。
理由を聞かれることもあり、その都度、それらしい事は答えている。
体型維持のため、とか。
規則正しい生活リズムを作るため、とか。
ストイックになるため、とか。
どれも正しい理由である。
表面上は、だ。
ただ、本当のところは、どれも違う。
どこかもっと、違うところにある気がするのだ。
走ることの、本当の理由が。
地球を2周するほど、競技者として走ってきたのだから。
競技者を卒業した上で、再び、走り続ける理由があるはずなのだ。
もっと、深いところにあるはずなのだ。
PRAYING RUN。
先日、友人から送られてきた、曲である。
世の中には、まだリリースされていないものらしい。
走ることを一つの側面だけで、捉えてきた僕にとって。
この曲のメッセージは、新しかった。
いや、新かったと言うよりも、走ることの本来の姿や、形に、出逢わせてくれたと言うべきか。
深層にある、走ることの意味が。
その理由が。
ようやく、わかったように思う。
仏に祈る、僧侶のように。
日々の御勤め、かのように。
人々の夢や、平和への願いを込めて。
人生の先にある、飛びっきりのサプライズを、受け止めるために。
走る、走る、ただ、走る。
それが、僕の理由なのだ。
Thank you.UVERworld
走ること。
それは、美しく。
走ること。
それは、尊い。