水をすくう像(尾瀬の石碑)奥会津の只見川を見ていると、川というより「段々になった湖」に見えることがあります。ダムの壁が続き、水面の色が一段ごとに少しずつ違う。きれいだな、で終わらせてもいい景色なのですが、その段差の一つひとつに水利権という権利が乗っている、と知ってから、同じ川が別物に見えました。
数字は公開資料の整理です。許可水量や出力は改定されます。最新は河川管理者と事業者の公示を見てください。
現地に行くときの最低限
ダム堤体・管理用道路・ゲート周辺は立入禁止が多いです。指定の展望地点と公開施設以外には近づかない。路肩駐車は短時間、冬は通行止め前提です。
阿賀野川水系と只見川——一本の階段
阿賀野川は福島と新潟をまたぐ一級河川です。会津では阿賀川と呼ばれ、荒海山方面を源流に、猪苗代湖から下る日橋川、尾瀬沼を源とする只見川が合流します。新潟県に入ると阿賀野川と名を変え、日本海へ注ぎます。総延長は約210km、流域面積は約7,710km²と説明されることが多い川です。
只見川はその最大支流で、日本有数の豪雪地帯を抱えます。水量が多く、落差がある。水力発電の適地として明治の終わりから目をつけられてきました。戦後から現在まで、上流の巨大貯水池と中下流の階段式ダムが連なり、土木の文章では「川全体がダム」と書かれることもあります。
いまの見取り図を極端に単純化すると、こうなります。
上流の巨体(奥只見・田子倉・大鳥・滝・只見など)……電源開発(J-POWER)が多い
中下流の階段(宮下・本名・上田・柳津・片門、阿賀野川本川の新郷・山郷・上野尻・豊実・鹿瀬・揚川など)……東北電力が多い
治水・灌漑の別系統(大川ダムなど)……国や県、土地改良区
東北電力の会津ダム管理センターは、阿賀野川水系で複数のダムと発電所を一体管理している、と公開インタビューで説明しています。数字は時点で変わるので、「出典確認」を忘れないようにしています。
水利権とは何か
水利権は、川の水を特定の目的で使うための権利です。大規模発電は河川法の許可水利が中心で、目的・取水量・期間が許可書に書かれます。水を「所有」するのではなく、「使う許可」を得る、と考えた方が実態に近いです。
発電用水利権が重要なのは、地点と落差を取った者がその段を事業化できるからです。只見川では、どの会社がどの段を持つかが、戦後すぐの経営そのものでした。同じ水系でも、水道用水や農業用水の許可は別に存在します。発電だけが川の物語ではありません。
明治末からの権利争い
只見川の発電用水利権申請は、1910年(明治43年)頃、岩代水力電気の発起人らが福島県に出したのが最初とされます。その後、会社は合併と失効を繰り返し、権利は何度も書き換わります。
1928年完成の鹿瀬ダム(新潟県阿賀町)は水系で最も古いダムの一つで、ゲートが並ぶ姿が印象的です。翌年に豊実、戦前のうちに新郷・山郷、只見川では宮下が戦時中に着工し、1946年に運転を始めます。源流の尾瀬にも手が伸び、尾瀬原ダムと利根川への分水構想は、福島側の流域意識と自然保護の両方から反対を受け、のちに凍結されます。東京電力は1996年、関連する水利権の一部を放棄したと整理されています。
1939年に日本発送電が発足し、只見川から阿賀野川までを国家規模で開発する構想が描かれました。戦争で多くは未完でしたが、調査と権利の骨格は戦後に残ります。
只見特定地域総合開発と、二つの電力会社
1951年、只見川流域は只見特定地域総合開発計画に指定されます。同じ年、日本発送電は九電力に分割され、東北支店は東北電力、関東支店は東京電力になります。発足直後の両社は基盤が弱く、只見川の水利権帰属も整理しきれていませんでした。
案は三つに割れます。只見川を一貫開発する本流案、新潟側へ分水する分流案、尾瀬の水を利根川へ回す尾瀬分水案。1953年の電源開発調整審議会などで、本流を軸に一部を新潟側(黒又川分水)へ渡す折衷が固まります。上流の巨大ダムは電源開発、本名より下流と阿賀野川本川は東北電力——いま現地で事業者名が分かれる理由です。
昭和27年の閣議——本名と上田の水利権
分担が決まっても、個別地点の許可は別問題でした。東京電力は旧東京電燈の権利を根拠に、1952年6月、金山町にある本名発電所と上田発電所の水利使用許可を福島県に申請します。県はこれを却下し、東北電力に認める方針を取ります。
昭和27年7月25日の閣議決定は、国会図書館系統の資料に残っています。只見川筋の本名・上田地点は東北電力に許可する。重複する東京電力の沼沢地点水利権は取り消す。ただし本流案・分流案の決着そのものには触れない。両社の補償は速やかに解決させる——そのような内容です。
東京電力は行政訴訟を起こし、国会では経緯の不明朗さが追及されます。東北対関東の対立、と言ってよい局面でした。1954年に訴訟は取り下げられ、電力融通などで妥結します。沼沢湖を上池、宮下を下池にした日本初の純揚水・沼沢沼発電所も、この再編の時期と重なります。
水利権は技術の話であると同時に、地域間の配分と政治の話です。権利書の年代と、いま必要な電力をどちらが優先するか。只見川はその衝突が最もむき出しになった川の一つです。
白洲次郎——会長室とジープのあいだ
1951年5月、東北電力の初代会長に就いたのが白洲次郎です。吉田茂の側近として戦後処理に関わり、英語に長け、のちに評伝で広く知られる人物ですが、只見川の文脈では「水利権を東北側に引き寄せた会長」として現れます。
当時、只見川は東北で開発可能な水力の大部分を占めると見積もられていました。「東北の繁栄なくして当社の繁栄なし」という標語が、創業期の自己規定として紹介されます。既得の水利権を固定したままでは工事が動かない、という焦りもあったのでしょう。後年の評伝には、二十数年前の権利を既得権として振り回す不合理を指摘した、という趣旨の発言が引用されます。
一方、国会では吉田首相との近さを利用した工作ではないか、と疑義が出ました。県側は圧力を否定したとされますが、手続きの見え方はきれいでなかった。白洲を現場の英雄だけにしてしまうと、水利権問題の半分が消えます。
福島県の資料や評伝が伝える別の顔もあります。ジープで現地に現れ、工事の苦労を聞き、夜は酒を酌み交わした。柳津の現場で石を見つけ、「死んだらこれに『俺の墓』と彫る」と言って持ち帰った、という話。片門発電所など複数地点に碑が残るとされます。会議室の人であり、現場を歩いた人でもある——金山の碑は、その両方の痕跡です。
金山の碑——権利が石になった場所
大沼郡金山町は、只見川中流の本名ダムと上田ダムの一帯です。上田ダム付近(大字水沼)と本名ダム付近(大字本名)に、白洲次郎の言葉を刻んだ記念碑があります。JR会津川口駅からタクシーで各10分前後。会津坂下ICから車で上田約40分、本名約55分。専用駐車場はなく、路肩と退避所は短時間・安全確認が前提です。最新の位置は金山町観光情報センターオアシスで確認できます。
この二地点は、1952年の水利権申請が衝突した場所です。東京電力の申請は却下され、閣議で東北電力に許可が下り、1954年前後にダムが完成していきます。権利が決まり、コンクリートが立ち上がった地点に、会長の言葉が石になった。金山の碑は、その決着の場所に立っています。
片門発電所など中下流の別地点にも、白洲に関わる碑が残るとされます。金山だけが現場ではありません。町内には電源開発の滝ダムもあり、水没規模が大きかった地点として開発史に残ります。電力の恩恵と集落再編の両方を引き受けた土地です。碑、只見線の車窓、いま残る集落の距離感を重ねると、水利権の話が机上から外れます。
上流の巨体と、沈んだ集落
奥只見ダムは堤高157m級の重力式で、新潟・福島の県境にまたがります。田子倉ダムは堤高145m級、只見町にあります。1950年代末から1960年頃にかけて完成し、一般水力として国内最大級の発電所を抱えました。奥只見はのちに増設され、出力はさらに伸びています。
豪雪と資材運搬が最大の難関で、奥只見では峠を貫く専用道路が造られました。直下には1989年完成の只見ダム(ロックフィル)があり、田子倉からの放流を逆調整します。只見展示館は公開施設として使いやすい拠点です。
きれいな湖の下には、移転した集落があります。田子倉の補償交渉はこじれ、「田子倉ダム補償事件」として知られます。滝ダム計画の水没戸数は非常に多く、只見ダムでも水特法の枠が使われました。工事には受刑者の動員があった、という報道もあります。慰霊の場が別に存在する以上、絶景写真だけで記事を閉じない方がいい、と私は思います。
尾瀬のダム計画が凍結された経緯は、水利権が経済権であると同時に、景観と生態系の問題でもあることを示します。2011年の新潟・福島豪雨では只見川の氾濫が問われ、発電運用と治水の顔が同時に見えました。
いまこの川を歩くなら
郡山方面からなら、磐越自動車道で会津坂下へ出るルートが現実的です。片門を遠望し、金山の二ダム、時間があれば只見町の田子倉と展示館。奥只見は所要が大きいので別日程が安全です。冬は閉鎖と凍結を前提にします。
ブログに数字を書くときは、許可時点と出典を添えます。最大使用水量は、その瞬間にその量が流れているという意味ではありません。事業者の看板を写真に残しておくと、あとで「この段は誰の段か」を検証しやすいです。
水利権という言葉は硬いです。でも金山の石の前に立つと、硬さが具体になります。誰がこの水を使うのか。いつ、どの手続きで決まったのか。その決定が、いまの電灯と、沈んだ家と、只見線の車窓を同時に支えている。
次に只見川へ行くときは、ダムの大きさを測る前に、一段分の権利を想像してみようと思います。行ってみたくなった人は、公開されている展望地点や観光センターから歩くのがいちばんわかりやすいです。川の段差は、景色としても、権利の歴史としても残っています。
主な参照: 只見特定地域総合開発計画 / 阿賀野川 / 白洲次郎、昭和27年7月25日閣議決定、水源地ネット「ダム管理所長に聞く」、J-POWERダムカード案内、極上の会津「白洲次郎記念碑」、ダム便覧。