医学部に入学して1年半が経とうとしている。
120人ほどの同期と日々顔を合わせ、びっしりと並んだ机に肩を並べている。出席が厳しい僕の大学では、だいたい休日以外は1年半その同期たちと毎日会っている。今ではもうその日々に慣れてきたが、最初は120人の他人と過ごすことはなかなか大変だった。
1年半前、入学式の次の日くらいから、散らばれ!と言わんばかりに、席は自由でいきなり120人と講義を受ける日々が始まった。次々にグループが自然発生していく様子を見ながら、そこに群れる気はないと言い張る自分と、帰属意識という人間が持つ面倒な性質の狭間で、僕の脳内は少し慌しかった。
約30年を生きてなお、新しい集団において仲間がいないことへの寂しさを感じている、そういう自分に情けなさを感じながらも、同時に人間らしさを感じた。生物学的に遺伝されてきた帰属意識という性質に、僕はまだ抗うことができなかった。
一匹狼的な立ち振る舞いを諦め、人間として誰かと繋がりたいという欲を認め始めて、僕は少し楽になった。
僕は社交的な方ではあるが、表面的な繋がりを嫌う面倒な人格だ。"とりあえず"で繋がっておくことに少し気持ち悪さを抱えていたが、誰と合う合わないは結局話さないとわからない。ストレスはかかるが、自分を開示しながら誰かと繋がる努力をした。
例えばの話をしたい。例えば、僕が医学部長なら、入学後最初のオリエンテーションで卓球大会でも開催するかなと思う。誰がどこで笑うのか、その人の空気感、マナー、考え方の相性、そういうものって体を動かして笑えば大体わかるもんだ。
何週間前まで机に向かい続けた人間に、いきなり人と向き合えと言われても無理がある。なんの手掛かりもなく人と繋がりをもつことの難しさを感じる分、120人で始める6年間の新たなスタートは、まずは楽しく、お互いを知ることから始めるべきだと思うのだ。ラケットと球とテーブル用意したら1発なのになって。
まぁそんなこんなでスタートのカオス期間を乗り切り、1年半がたったわけだ。コミュニケーションが増えるほど、120人の中でも人間関係に濃淡が現れ始めた。
それは至って普通のことであり、居心地の良さを手掛かりに、それぞれが仲間と呼べる人間と過ごしているように見える。カオスから抜け出した友人たちは、あの時よりもどこか清々しい。
そして、1年半120近くの同期と日々過ごしていると、この人こんな一面を持っていたのかと驚く場面がよくある。
その度に、昔友人がポロッと口にした"人は見かけによらないからさ"って言葉を思い出す。僕はその言葉がなかなか好きで、人生で大切にしたい言葉の一つでもあったりする。
なぜ大切にしたいか、それはこの言葉が僕に人間関係における"余白"を与えてくれるからだ。
人は最初の印象だったり、数回のコミュニケーションでこの人はこういう人間だと決める傾向にある。いやどちらかというと、決めるというより"決めたい"のだ。
良い人、悪い人、的な大まかな分類をすることで、自分の世界からよくわからない存在を減らしたい。自分にとって味方か敵かよくわからない人を心に存在させ続けるほど人間は強くない。だから僕たちは相手の性質を決めたがる。分類して落ち着かせたい。
しかし上の言葉にもあるように、人というのは見かけによらないことがほとんどであり、きっかけや新しい条件が加わることによって、人の見え方などコロコロと変わっていくものだ。
僕が卓球大会を勧めたことは、卓球を通して見えてくる最初の印象を大事にしようということの裏返しではあるが、それはあくまでも出会いのきっかけ作りのためであると念を押したい。
人の深い部分が見え隠れするまでには時間がかかる。いつも笑っている人が本当は泣いていたり、無口な人が本当は愛を大切にしていたり。そういうものは出来事やコミュニケーションなどの条件が付け加えられるまで、奥の奥にしまわれている。
僕はその事実に気づくたびに、相手の内面を主観で決めつけてしまうことの無意味さや、もったいなさを知るのだ。
僕のたどり着いた考えとして、人間関係においてその人への評価は、絶対的ではなく"暫定的"であることが望ましい。文字通り、もしかしたら今の顔が全てじゃないなと、その人への評価を仮決定しておいて、余白を残しておくことで、もう少しその人を見てみようじゃないかと自分に余裕が生まれてくる。なにより、その相手を深掘ることの面白みがでてくる。
僕自身も、本当に好きな相手には、見えてるものだけじゃなくて、奥の奥を見て欲しいって本心は思ってる。だから相手もきっとそういうことな気がする。
学校に入ってまだ2年弱、誰と、どうやって、どのタイミングでこれから深くなっていくか、はたまた別れていくのかは今の自分にはわからない。もちろんわかる必要もない。
ただただ、目の前の人間関係に無限の可能性が秘められていることを感じながら、見かけに左右されない自分でありたいと思うのだ。