この章のアウトラインは以下の通りです。
2-1 「物語」とは何か?――「物語」「語り」「小説」を分けて考える
2-2 「物語」の型
2-3 「語り手」は何をするのか
2-4 時間
2-5 叙法
2-6 「語り(ナレーション)」
2-7 作者と「語り手」
第2章 「ナラトロジー」って何?
本章では、ナラトロジーを「小説の内容を当てる技術」ではなく、「語り方の仕組みを言葉にして確かめる道具」として整理します。出来事の骨格である「物語」と、見え方を作る「語り」を区別し、ジュネットの三つの道具(時間・叙法・語り)で、小説がどのように読者の視点と理解を設計しているのかを見ていきます。
新しい読み方によって新しい解釈ができれば、読みの可能性が広がり、より楽しくなるとも思います。
なお、自分が教師として実践してきたことを中心にして書いていきたいと思います。生徒が興味を持つように工夫してきたものです。もちろん専門の研究者ではありませんので、不備のある説明もあるとは思いますが、小説の読解の幅を広げ、より探究的に小説を読むようになることを願って書いていきたいと思います。
2-1 「物語」とは何か?――「物語」「語り」「小説」を分けて考える
いったい「物語」とは何でしょうか。私たちは日常的に小説を読みますが、「物語」と「小説」は同じものなのでしょうか。ここでは、同じ出来事でも「語り方」が変わると見え方が変わる、という点を確かめるために、昔話の「桃太郎」を例に説明します。
《「物語」――出来事の骨格(何が起きたか)》
まず、私たちがよく知っている「桃太郎」の冒頭を思い出してください。
むかし、むかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがおりました。
おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました。
ある日、おばあさんが洗濯をしていると、川上から大きな桃が
「どんぶらこ、どんぶらこ」
と流れて来ました。
この部分を、いちばん簡単に言い直すなら、こうなります。
「老人夫婦がいた。おじいさんは山へ、おばあさんは川へ。川から桃が流れてきた。」
ここには、話の骨格があります。つまり「誰が」「どこで」「何をした」「何が起きた」という、出来事の並びです。これをここでは、カギカッコ付きで 「物語」=出来事の骨格(ストーリー) と呼ぶことにします。
※ここでいう「物語」は「要約文」そのものというより、出来事の並びのことです。
《「語り(語り方)」――語る場の工夫(誰が誰に、どう語るか)》
次に、同じ出来事を「誰かが誰かに語る場面」を想像してみてください。たとえば大人が子どもに話して聞かせるとき、たいていはこうなります。
今日は面白い話をしてあげるね。『むかしむかし』っていうのはね、すごく昔のことだよ。
田舎の村に、おじいさんとおばあさんが住んでいてね。
おじいさんは山へ柴を取りに行って、おばあさんは川へ洗濯に行ったんだ。
そしたらね、川から、すっごく大きな桃が“どんぶらこ、どんぶらこ”って流れてきたの。
この「語り」では、出来事自体は同じです。しかし、語り手は聞き手を意識して、
・説明を足したり(「むかしむかしってね…」)
・強調したり(「すっごく大きな桃」)
・言い方を変えたり(子どもに分かる言葉を選んだり)
しています。
つまり、ここで起きているのは、出来事(「物語」)の変更というより、「語り」の場の工夫です。これをここでは 「語り」(=出来事を、どんな相手に、どんな順序と調子で伝えるか)と呼びます。
《「小説」――読者の見方を設計する文章(視点・描写・内面)》
では、同じ「桃太郎」の冒頭を、もし「小説」として書くとしたらどうなるでしょうか。小説では、出来事(物語)を並べるだけでなく、「読者がどう見えるか」を細かく設計できます。たとえば、こんな書き出しが可能です。
トンビが輪を描いている。その輪は、中心をずらしながらしだいに遠ざかる。北からの風がゆるやかに吹き込んでいる。風は山の上の木々を赤く染め始める。秋の空は高く澄んでいた。
山のふもとに小さな家がある。その小さな家で、年老いた男と女が暮していた。家といっても今の感覚から言えば小屋である。雨風を防げばそれでいいという建物である。その頃はそれが当たり前の家であった。
科学という言葉のなかったころである。誰もが神を信じていた。神の力で生かされていると信じていた。死は怖くなかった。静かに生きていた。子供のいない老夫婦にとってそれがすべてだった。
冬を越す準備をしなければならない。年老いた男は山に枯木を取りにいく。男は年を経るにしたがって体が動かなくなることを感じていた。いのししに襲われた時、背中をいためた。その痛みは消えることがなかった。毎日そのいたみを感じながら生きていた。体のいたみは心を締め付け始める。漠然とした不安は日に日に大きくなっていく。
「ちくしょう。」
男は山に向かって一言叫ぶ。その叫び声が返ってきたとき、涙があふれてくる。
年老いた女は川に洗濯に行く。女にとって耐えることが生きることだった。この時期水が冷たいのは知っている。しかし、それを悔やんでいてはいけない。いつも自分を殺すことだけを心掛けてきた。
ここでは、出来事の骨格(川で桃が流れてくる)は同じです。けれども、小説はそれに加えて、
・場面の描写(風、水の冷たさ)
・視点の誘導(誰の目で見ているか)
・内面の描写(ざわつき、不安)
を組み込みます。つまり小説は、「出来事を伝える」だけでなく、出来事の見え方を作るのです。
ここで大事なのは、近代小説が「むやみに介入が多い」という意味ではありません。むしろ近代小説の多くは、語り手の位置・視点・情報の出し方を意識的に設計し、「読者がどう受け取るか」をプロデュースしています。介入が目立つ作品もあれば、介入が目立たないように見える作品もありますが、いずれにせよ「語りの仕掛け」を含めて小説が作られている、という点が重要です。
《まとめ――「物語」「語り」「小説」の三段階》
「物語」:出来事の骨格(何が起きたか)
「語り」:語る場の工夫(誰が誰に、どんな順序・調子で語るか)
「小説」:見え方の設計(視点・描写・内面・情報の隠し方/見せ方)
もちろん「物語」という言葉は日常では広く使われ、小説そのものを指すこともありますし、「〜を物語る」のように「語り」に近い意味でも使われます。ここではナラトロジー(物語論)の考え方に合わせて、便宜的にこの三段階に整理しました。今後、ここでいう出来事の骨格としての「物語」は、必要に応じてカギカッコ付きの 「物語」 として区別していきます。
同じ出来事でも、「何が起きたか(物語)」と「どう語るか(語り)」を分けるだけで、見え方は大きく変わります。小説はさらに、視点・描写・内面を設計して「読者の見方」そのものを作る文章なのです。
2-2 「物語」の型
《「物語」にはパターンがある》
昔よくマンガを読んでいました。スポーツもののマンガが好きでした。するといつの間にかそのマンガにはパターンがあると気づきました。
主人公にライバルが現われます。そのライバルに打ち勝つために主人公は努力します。そしてなんとか勝ちます。すると次にまたライバルが現われます。もちろんまた主人公は、血のにじむような特訓をしたり、だれもが思い浮かばない様な秘策を考え出し、そのライバルにも勝ちます。するともっと強力なライバルが現われます。そのライバルに勝つためにもいろいろなものを犠牲にして死ぬ物狂いの努力をします。そしてやっぱり勝ちます。とうとう決勝になります。もちろんそこに現われるのが最大のライバルです。ライバルの圧倒的な力を見てしまった主人公は挫折しそうになるのですが、かつてのライバルたちがなぜか主人公に協力したりして、主人公は勇気をもらい、決勝に挑みます。そしてとうとう優勝します。
このパターンが、少しずつ変形しながら進行するのが、少年マンガの王道です。少女マンガもパターンがあるようです。テレビドラマを見ていてもパターン化しているのはわかると思います。
新しい表現を目指して、まったく新しいパターンのマンガやドラマを作ったとします。それは一部から高く評価されることはあるかもしれませんが、一般には受け入れられにくい。連載が早く終了したり、視聴率が振るわないまま終わっています。私たちは物語のパターンから逃れることは難しいのではないかと思います。
《ウラジミール・プロップ『昔話の形態学』》
物語のパターンを研究した人がいます。ウラジミール・プロップというロシアの学者さんです。プロップは『昔話の形態学』という本で、ロシアの昔話がパターン化していることを明らかにしたのです。
「ナラトロジー」の前提には、このようなパターン化した「物語」があります。これはちょうど音楽のコード進行と似ています。共通したコード進行があるからこそ、私たちはその音楽に親しみを覚えます。プロップの『昔話の形態学』というのは、昔話のコード進行表と言ってもいいかもしれません。
物語には「型」があり、私たちはその型を手がかりにして物語を理解し、面白がっています。ナラトロジーはまず、この“出来事の骨格のパターン”を前提に考える方法です。
2-3 「語り手」は何をするのか
《ジェラール・ジュネット》
2-1で述べた通り、小説は「語り手」が前面に押し出され、「語り」のありかたが、小説のバリエーションを広げます。「語り」によってどのようなことが可能になるのでしょうか。
それを研究したのがジェラール・ジュネットです。
ジュネットはフランスの文学研究者で、ざっくり言うと「小説を内容ではなく、『語り方の仕組み』で分析する」方法を整えた人です。
たとえば同じ出来事でも、
・だれの視点で語るか
・どこからどこまでを見せるか
・どの順番で語るか
・速く語るか、じっくり語るか
で、読者の受け取り方はガラッと変わりますよね。
ジュネットはこの「語り方の設計図」を整理して、言葉にして説明できるようにしました。
《『物語のディスクール』》
そのジュネットの書いた本が『物語のディスクール』です。この本は、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』の研究書です。
マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』は、ものすごく長い小説です。世界で一番長い小説だとも言われています。主人公は大人になってから、自分の過去を振り返り、「時間は失われてしまうのか」「人はどう変わるのか」を考え続けます。特に有名なのが、マドレーヌを紅茶に浸して食べた香りや味がきっかけで、忘れていた記憶が一気に戻ってくる場面です。
この主人公が語り手であり、ジュネットはその語りの方法をこの本で分析しているのです。
『物語のディスクール』で、ジュネットは語りの効果を3つに分類します。「時間」「叙法」「語り」です。以下それぞれを、マンガの「スラムダンク」と、それを映画化した「ファースト・スラムダンク」を用いて説明します。
2-4 時間
《順番・長さ・回数をいじって「意味」を作る》
ジュネットの「時間」とは、出来事そのものよりも、出来事をどういう時間の並べ方で語るかという技術です。たとえば山王戦という同じ試合でも、いつから語り始め、どこで過去に戻り、どこを長く見せるかで、読者・観客が感じる意味が変わります。
マンガ『スラムダンク』は、試合の「ほんの数分」を何十ページも使って描きます。これが時間の速度(長さ)の操作です。一瞬のシュートや一回のディフェンスを引き伸ばすことで、「この一瞬が人生を決める」という緊張を体験させます。
映画『THE FIRST SLAM DUNK』も、試合中に過去(宮城の経験、家族、練習)へ何度も戻ります。これは時間の順番(配列)や回数(反復)の操作です。「いまのプレー」の理由をあとから足していくことで、ただの勝負ではなく「生き方の決着」に見えてくる。つまり時間操作は、スポーツの出来事を「因果」と「重み」に変える装置なのです。
《ストーリーとプロット》
《①時間》について特に重要なのは、「ストーリー」と「プロット」の違いです。
「ストーリー」と「プロット」は、どちらも「出来事」を扱いますが、見ているポイントが違います。
ストーリーは、作品の中で起きた出来事を「実際に起きた順(時系列)」に並べたものです。たとえば「おととい→きのう→きょう」と、出来事をそのまま時間順に整理した状態を指します。これは先ほどの用語でいえば「物語」です。
一方プロットは、読者にどう伝えるかを決める「見せ方の設計」です。出来事をどの順番で出すか、どこを詳しくしてどこを省くか、そして「なぜそうなったのか(因果)」が分かるように情報をいつ出すか──こうした組み立て全体がプロットです。だから、同じ出来事でも、理由を先に言ったり、結論から始めてあとで過去を明かしたり、といった語り方ができます。
例えば、
・おととい、ラーメンを食べた。
・きのう、ラーメンを食べた。
・きょう、ラーメンを食べた。
これはストーリーです。
同じ順番でも、
・おととい、ラーメンを食べた。
・きのう、ラーメンを食べた。
・きょうもラーメンを食べた。なぜならおれはラーメンフリークだからだ。
という語り手もいるだろうし、
・おととい、ラーメンを食べた。
・きのう、ラーメンを食べた。
・きょうもラーメンを食べた。なぜならうちの社員食堂ですぐに出てくるのはラーメンだからだ。
という「語り手」もいるでしょう。理由(情報)の出し方が加わり、読者が因果を理解できるように「見せ方」が組まれています。これはプロットの一部(筋立て)です。プロットには、こうした「語り手の解釈」が入り込みやすいのです。
さらに小説では、出来事は同じでも、提示の順番そのものを入れ替えることができます。
・今日もラーメンだ。おれはラーメンフリークで毎日、SNSに食べたラーメンを投稿している。だから、きのうもおとといもラーメンだった。
・今日もラーメンだ。仕事が忙しくて、昼休みも十分とっている余裕がない。うちの社食ですぐに出来るのはラーメンだ。だから、きのうもおとといもラーメンだった。
このようにプロットは、「語り手」が何を先に見せ、何をあとから明かすかという設計の度合いが高くなるので、「小説」っぽくなるのです。
簡単に整理すると次のようになります。
・ストーリー=出来事の時系列(何が起きたか)
・プロット=読者への提示順+因果の組み方(どう見せて、どう納得させるか)
さっきの桃太郎の例をまた少し変えると次のように時間を前後させることができます。
男は山に向かって一言叫ぶ。その叫び声が返ってきたとき、涙があふれてくる。
男は女と出会ったころのことを思い出していた。二人は身分の差があった。結ばれてはいけない男女だった。しかし愛し合う運命に逆らうことはできなかった。二人は村を追われ、山中の家に隠れるように住んだ。二人には子どもができなかった。罰が当たったのだろうか。いつもそのことが男の頭の片隅にのこっている。それを消し去るために、柴刈りに精を出すしかなかった。
このように、時間を遡っておじいさんとおばあさんの背景を作りあげることによって、今おじいさんが山へ柴刈りに行き、おばあさんが川に洗濯に行くという山の暮らしをしていることや、ふたりだけで慎ましやかに生きていることの理由を説明することができます。
ここで言う「時間」とは、出来事の「順番・長さ・回数」を操作して意味を作る技術です。ストーリー(時系列)とプロット(提示順+因果の組み方)を区別すると、小説の「設計」が見えやすくなるのです。
2-5 叙法
《視点と距離で「見える/見えない」を作る》
ジュネットの「叙法」は簡単に言えば、物語のカメラのことです。ポイントは二つ。①誰の目で見るか(視点=焦点化)、②どれくらい近くで見せるか(距離)です。
マンガ『スラムダンク』は、桜木・流川・赤木・三井・宮城など、視点が広く動きます。だから山王戦は「チーム全体の物語」になります。一方、映画『THE FIRST SLAM DUNK』は同じ山王戦を、強く宮城の視点へ寄せて語り直します。すると宮城の孤独や回復が中心テーマとして立ち上がります。同じ試合なのにもかかわらず、原作のマンガと、アニメ映画が全く違う作品になっているのです。
また叙法は「見えないもの」を作れます。推理小説が犯人やトリックを隠すように、映画は宮城の背景を最初から全部は明かさず、後で回想で少しずつ開示します。情報が制限されるからこそ、観客は「なぜ彼はあの瞬間に踏み出せたのか」を探しながら見る。叙法とは、視点と情報の出し方で、作品の謎や感情の深さを作る仕組みです。
《焦点化》
小説は、ときに登場人物の心の中まで描けます。しかし、ジュネットが言う「焦点化」は、単に「心の中を書くこと」ではありません。もっと正確に言えば、読者にどこまでの情報を見せるか――つまり、物語の「カメラ(視点)」をどこに置き、どの範囲までしか見せないかという設計のことです。
同じ出来事でも、誰の目に寄せるかによって、読者が知れる情報は変わります。ある人物が知らないことは、読者にも見えないようにすることもできるし、逆に登場人物以上のことを読者に知らせることもできる。焦点化とは、そうした「見える/見えない」の範囲を決める仕組みです。
焦点化には主に三つの型があります。それを説明していきます。
①内的焦点化
ある登場人物の目・耳・知識の範囲に、カメラがぴったり寄り添う語り方です。読者が分かるのは、その人物が*見たこと・聞いたこと・考えたこと(推測したこと)まで。逆に、その人物が知らない事実は読者にも見えません。だから、読者はその人物と同じ条件で迷ったり、疑ったりします。
②外的焦点化
カメラが人物の外側にあり、行動や言葉、表情だけを映す語り方です。心の中は直接説明されず、読者はしぐさや会話から推理することになります。映画のカメラのように「見えるものだけ」を示すため、人物の内面が謎になりやすく、緊張感が生まれます。
③焦点化ゼロ(無焦点化)
特定の人物の知識に縛られない語り方です。語り手は複数の人物の心の中に入れたり、別の場所で起きている出来事を先に語ったりできます。読者は登場人物以上の情報を持てるので、先回りして状況を理解できたり、逆に「分かっているのに止められない」不安を味わったりします。
「叙法」とは、物語の「カメラ操作」であり、視点(焦点化)と距離によって、読者に見せる情報を調整する方法です。何が見えるか/見えないかを決めることで、謎も感情も生まれ、小説をおもしろくするのです。
2-6 「語り(ナレーション)」
《だれが、だれに、どこから語るのか》
ジュネットの「語り」は、叙法(カメラ)より一段上の設計で、語っているのは誰か/誰に向けているか/いつの位置から語るかを見る考え方です。
マンガ『スラムダンク』の山王戦は、連載マンガとして「読者一般」に向けて語られ、中心も複数です。ところが映画『THE FIRST SLAM DUNK』は、同じ山王戦を「宮城の物語」として語り直します。これは、出来事を変えたのではなく、「語りの中心(語りの位置)」を変えたということです。だから観客は、試合を見ながら同時に「宮城がここに立つまで」を読むことになります。
さらに映画は、観客が宮城の過去を知らない前提で、情報を順番に配ります。これは「語りの宛先(想定される聞き手)」が意識されているからです。語りは、出来事の報告ではなく、出来事に意味をつけ直す作業でもあります。映画はまさに、山王戦を「宮城という語りのレンズ」を通して再構成し、同じ試合を別の物語に変えているのです。
《一人称小説と三人称小説》
小説にはふたつの種類があります。語り手が「物語」の登場人物である場合と、語り手が全体に見渡せる位置にいて、それを外から見ていて、「物語」には登場しない場合です。前者は一人称小説になります。後者は三人称小説になります。
①一人称小説
さきほどの桃太郎の冒頭部分の例は、すべて三人称の記載でした。だからあれを小説だと言い張れば、三人称小説だったということになります。しかし、「桃太郎」という物語を「一人称小説」にすることもできます。登場人物を語り手にすればいいのです。するとその登場人物を内的焦点化することにもなります。
例えば、桃太郎を「語り手」にするとこんな風に書くことができます。
いつからか、おれは、自分の出生に疑問を持つようになった。父と母はおれは桃から生まれたのだと言った。小さいころはそれを信じていた。しかしいつまでもそんなことを信じているはずはない。それが嘘であることは明らかだ。どうせ拾われたんだろう。父も母も年を取り過ぎている。母がおれを産めるはずもない。だからこんな変な嘘をついてしまったのであろう。
しかしそうすると、逆に変な想像をしてしまう。おれがだれに捨てられたんだ。おれを捨てた親に合いたい。鬼のような親にだ。
こんな風に、『桃太郎』という「物語」を、桃太郎という「語り手」を想定することによって、あらたな解釈を加えながら、新たな「小説」として創造することができるのです。もちろん「桃太郎」が何を考えているかは作者の想像によるものです。
「おじいさん」が「語り手」だったらどうなるでしょう。
妻は川に洗濯にでかけた。私は家にひとりになった。何もすることがない。ひまだ。ひまだからと言って、何もしないわけにはいかない。ひまは余計なことを考えさせる。自分の人生を後悔しはじめるのだ。ひまが私を苦しめ始める。生きているのがいやになる。だから無理やりやることを見つける必要があった。
山に柴刈りにいくことにした。一冬分の柴はすでにある。これ以上の柴はもういらない。それでも行かなければいけない。弱った足腰を無理に動かし、山を登る。その徒労の中にこそ、自分があるのだと思うように努めた。
一人称小説は視点がはっきりしているという特徴があります。桃太郎が「語り手」ならば、桃太郎が見えているものしか書くことができません。見えていないことは書けないのです。桃太郎が生まれる前のおじいさんとおばあさんの言動は、あとから聞いたものとして書くことはできるかもしれませんが、基本的には書くことはできません。桃太郎が外で遊んでいる時に、おじいさんとおばあさんが家の中で話し合っている内容も書くことはできません。桃太郎の目や耳に入って来ない情報は書くことができないのです。
心の中も同じです。桃太郎の心の中は描くことができます。しかし、他人の心の中は描くことができません。おじいさんやおばあさん、猿や犬や雉、鬼の心は書くことができないのです。おじいさんが「語り手」であった場合は、心の中を描くことができる対象はおじいさんだけです。桃太郎もおばあさんの心の中は書くことができません。
つまり一人称小説では、「語り手」の心の中だけが描くことができ、他の登場人物の心の中は書くことができません。他人の心が見えないから、人は疑心暗鬼に陥り苦しむのです。ドラマが生まれるのは、他人の心が見えないからです。一人称小説はそれを利用することになるのです。
一人称小説を応用して、複数の「語り手(証言者)」が次々に入れ替わる=複数の内的焦点化が並置される小説があります。芥川龍之介の「藪の中」です。ある殺人事件に関して、尋問を受けた7人の証言を並べた小説です。それぞれの証言が食い違うため、真相は逆に見えなくなっていきます。7人のうちの最初の4人は事件の概要の証言をします。そして残りの3人が事件の当事者です。この当事者の証言がまったく食い違うのです。そのために事件の真相がまったくわからなくなるのです。「藪の中」は多元的内的焦点化を作り出した小説と言えるのでしょう。
この「藪の中」は、黒澤明監督が『羅生門』というタイトルで映画化し、世界的に有名になりました。そのこともあり、この手法の斬新さがその後、大きな影響を与えました。短い小説ですし、青空文庫でも読めます。まだ読んでいない方はぜひお読みください。
②三人称小説
それでは三人称小説ではどうなるのでしょうか。三人称小説は小説に登場しない人物、つまり小説の世界の外にいる人物が「語り手」になります。神の視点を持っているとも言えそうです。ですからどの人物の心理も描くことは可能です。
複数の人物に内的焦点化が行われると、ものの見方にその違いが浮き上がり、すれ違いや対立がよく読者に見えてきます。これによって小説が立体的に見えてくるようになります。
ただし、すべての登場人物の心の中も描くことはほとんどないようです。なぜなら、登場人物全員の心の中を描いていたら、莫大な量の小説になってしまいますし、読者が混乱しやすいからです。
三人称小説でもひとりの人物だけに内的焦点化される小説もあります。たとえば、夏目漱石の『三四郎』は、基本的には三四郎の視点で描かれており、三四郎の心のなかだけを描いています。しかし、語り手の視点が三四郎から離れる瞬間があり、それが大きな効果を生んでいます。
「語り」は、「誰が、誰に、いつの位置から語るか」という一段上の設計です。語りの位置が変わると、同じ出来事でも「別の物語」として立ち上がるのです。
2-7 作者と「語り手」
最後に作者と「語り手」の関係について述べます。
作者と「語り手」の関係は、いちばん大事なところだけ言えば次の一文にまとまります。「作者は現実にいる『書いた人』、『語り手』は作品の中で話している『声』」です。小説では、この二つは基本的に同一ではありません。
たとえば作品の中で「私はこう思う」と「語り手」が言っても、それは作者がそのまま主張しているとは限りません。「語り手」は、作者が作品の中に作った役割(装置)であり、読者にどう見せるか、どう感じさせるかを調整するために置かれています。同じ出来事でも、語り手が誰をかばうか、どこを強調するか、逆に何を語らないかによって、読者の印象は大きく変わります。
だから小説を読むときは、「作者は何を言いたいのか」と直結させる前に、「この『語り手』はどんな立場から、誰に向けて、何を見せている(何を隠している)のか」を確かめる必要があります。近代小説の面白さは、作者がこの「語り手」を意識的に配置し、読者を物語の読み方へ巻き込む仕掛けを作っている点にあります。
作者は現実の「書いた人」、語り手は作品内で語る「声」であり、両者は基本的に同一ではありません。小説を読むときは、作者の主張探しの前に、語り手が何を見せ、何を隠しているのかを確かめる必要があります。
2-8 まとめ
ナラトロジーの基本は、出来事そのものよりも「どう語られているか」を見ることです。時間の操作は出来事に因果と重みを与え、叙法は視点と情報の量で「見える/見えない」を作り、語りは「誰が誰にどこから語るか」によって同じ出来事を別の物語として立ち上げます。次章からは、この道具立てを実際の教科書教材に当てはめ、読みの根拠がどこに置けるのかを具体的に確かめていきます。