「誰ものが15分なら有名人になれる、そんな時代が来るだう」
アンディ・ウォーホールがそう言ってから4、50年。
良きにつけ悪しきにつけ、15分なら「有名」になれる時代になっています。
2023年の調査では世界人口のうち、40億人がスマートフォンを所有しているとされています。
人口の約40%が世界の様々な情報にアクセスでき、発信できる。
そんな時代、「有名」どころか「神」まで溢れている。
どうカウントして良いかもわからない量の情報が溢れる中、少しでも注目を集めなくてはならない。
あっという間に、そう、「秒」で忘れ去られるこの時代に僅でも「爪跡」を残さなくてはならない。
なんとなく表現のインフレを感じ始めたのが、夏休みのポケモン劇場版シリーズ。
子供向けならではの派手で分かりやすい表現がベースとはいえ、「爆誕」「裂空」「超克」「神速」。
子供って、いや一部の大きいお友達もこう言う闇雲な漢字表現好きですが。
このキャッチコピーで育った若者が今「神コスメ」とか「1000年に1人のアイドル爆誕!」なんかの表現を始めたんじゃないかなーと思っています。(いにしえの頃は「10年に1人」という奥ゆかしい表現だったなぁ)
Instagramでも「バズりコスメ」なんかではもう注目してもらえないので、「ブルベの神!」コスメが溢れています。
「神7」=「尊い」が一部のアイドルのファン表現からあっという間に隅々まで広がって、いくら八百万とはいえ多すぎる。
神コスメなんて言って楽しむ分には、まぁ一握りのとんでもない人を除いては大した金額にはならないし、人生踏みはずすようなこともありませんが、対象が人間になると話が違う。
いつから「推す」と言う言葉が出てきたのか、自分があまり誰かのファンになって何かすると言うのがないせいかわからないのですが、あっという間に「〇〇活」と合体して一大産業になってしまいました。
(推薦、薦めるって事なら私もドラマやら本やら、薦め魔の気はありますがちょっとまた違う。「布教」はしても「生誕祭」はやらない。)
それこそいにしえのアニメやドルヲタなんて今でいう「チー牛」として忌み嫌われていて、「ヲタク」なんて罷り間違えば犯罪者予備軍くらいの嫌われようだったはず。
それがいつからか、「ヲタ活」などと言われるようになり、「エヴァンゲリオン」なのか「まどか⭐︎マギカ」なのか物語のユニークさから社会学者を巻き込んでのブームを起こしたりして、「ヲタク」と言う区分が曖昧になってただひたすら「何が好きなのか?」を表明するように。
並行して旧ジャニーズやAKB48のような複数人でのグループ売りが当たり前になり、メンバーの中で「誰のファン?」が「誰を推す?」に変化して行ったのだと思います。
それも単に好き、と言うだけにとどまらずバックステージで過呼吸を起こすメンバーを見て、
「こんなに頑張ってる!私も頑張って応援しなくては!」。
昔から先鋭的なファンがいなかったわけではないですが、「推し活」となった途端に市民権を得て時間もお金も無尽蔵に使ってもさほど奇異に思われなくなっています。
残業代未払い→サービス残業
売買春→援助交際→P活
ヲタク・ファン→推し活(ちょっとざっくり)
不用品の処分→捨て活
死への準備→終活。。。。。
言葉の言い換えで本質の胡散臭さをマスキングしてしまう。
「〇〇活」にすることでそこに潜むある種の過酷さをすりガラス越しにしてしまう。
大好きなアイドルのために時間やお金を使うことなんて個人的なことで、本人さえよければなんの問題もないこと。昔より動く金額の桁が上がってたり、時間の使い方がすごくて驚きはしますが。
「推し」は「尊く」て「神」
神様にはお布施を。
TVや映画の中だけだった神様が、今はYouTubeにTiktokにツイキャスにふわっちに。
昼間はなんてことないサラリーマンでも夜になればとんでもない額の投げ銭をもらうことも可能。
リアルで会いたいなら、コンカフェでもホストでもどこにでも「推し」を探せてしまう。
簡単に見つけられるから、簡単に乗り変えられてしまう。
推される側も悠長にファンとの関係なんて築いている場合ではない。
自分が高値でいられるうちに対価を最大限得なくてはいけない。
ほんの10年くらい前までは、水商売の単価も一桁違ったように思います。
キャバクラ嬢が一晩で1億円売り上げた、愛用品のコスメが「爆売れ」、などと取り上げられるようになり、
ホスト業界のシャンパンタワーが100万円、で驚いていたのも昔話となり今では1000万だったり。
ホストに愛情を求めてしまう女性達が今では海外にまで出稼ぎに行ってしまう。
なぜなら「推し」のホストを「成長」させたいから。
他の「姫」に負けたくないから。
異常な速さで広まっている闇バイトに手を染める(と言う感覚もないかもしれない)理由も、「推し」の為だったり。
先行きの不透明な時代の刹那的な行動、と言うのはあまりに単純な分析に思えます。
本来アクセスできなかった、しなくてもよかった情報に晒され続ける事で、
追わなくても良いものを追い、払わなくても良い対価を払い、
だけれどひと時の快楽のアドレナリンに麻痺するような、何度も求めるような。
生活のちょっとした潤い、で済めば幸いです。
だけれどもそれは生活にそれなりの安定や幸せを感じている場合。
そうでなければいつしか「推し」に縋ってしまう。
自分にとってまるで「神」のような「推し」という阿片に蝕まれる。
見たいものだけで周囲を固めていく。
そんな事が簡単に出来てしまうこの時代の「まとも」とはなんだろう、と考えてしまうのです。
とある神社に初詣。
扉の裏に絵が描かれているんだよ、と教えてもらい撮影。
その下の場所で宮司さんが祝詞をあげていて、
建物に「近くからの撮影はしないでください」と強めに書いてあったので、
宮司さんを撮ったりはもちろんしていなかったのですが、
後ろの建物を撮ろうとしていたら、
「近くから撮らないでください!」と元旦から怒られ。
過去に何かあったのかもしれませんし、神事だし。
わかるんだけれど私も決して宮司さん撮ってないし。
家族に聞いてもGoogleに聞いてもどうも沸点の低い宮司さんのよう。
その後に行った別の神社もかなり有名なところらしいのですが、
なんだかのんびりしていて「初詣」ってこういうので良いのでは?と思った年初め。