尊厳死 | 日々是一進一退

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20年以上接客業に携わってきました。
その前は公務員をちらりと。
接客メインで書こうとしておりましたが、すっかり四方山話になっております。

始めにお断りを。
あくまでも私個人の考えです。
とてもデリケートなテーマなので、苦手な方は次回の記事にお付き合いくださいませ。








私が18、19歳だった頃に英会話の学校に通っていました。
教習所スタイルで自分のレベルにあったクラスに都合が合えば行く、という感じで講師もバラバラでクラスに合わせて話題を決めて会話をしながら、レッスンをするものでした。

ある日、おそらくその当時20代後半くらいだっただろう女性講師が、日本でも話題になり始めていた「安楽死」をテーマに取り上げました。
今思えばそこまでの会話スキルが無い、しかも割と若者ばっかりのクラスで取り上げるには無理がある話題ですが、彼女の叔父が“death of dignity”を遂げたのだ、という事がきっかけでした。

「尊厳死」「安楽死」、そして“death of dignity”の言葉については後述します。

たまに、3歳で余命宣告されただの寝たきりだっただのと書いていますが、頭の片隅に「自分はいつ死んでもおかしくない」という意識があります。
もちろん誰しもそこから逃れられませんから、皆そうじゃないか?って思われるかもしれません。

でも意外とそうじゃないんだ、って感じるのは「まさか自分が事故に遭うなんて」とか、何かの病気になった時に「何も悪いことなんかしてないのに、どうして自分が?」といった感情を持つ人が圧倒的に多いという事を思い出さされる時です。

気持ちはわかるのです。
私だって「何であんなに良い人なのに」って思ってしまう事があります。

ですが自分自身が良い人にも悪い人にも、どうなるんだかわからない段階から病気をしたりしていると、
当たり前の「人間性には関係ない」「いつどうなるかなんて誰にもわからない」って事を頭でも体でも理解しているのだと思います。

なので、英会話のクラスでも私自身は“death of dignity”を支持すると話していて、今でもずっとかわりません。

ただ、この言葉については今回日本人女性の安楽死のドキュメンタリーを見ていて改めて調べて、誤解があったようなのです。

私は「尊厳死」を英会話のクラス以降、“death of dignity”の訳で本人の意思で死期を決められるものと思っていたのですが、日本では「尊厳死」と「安楽死」の定義があって、私が理解していたのは「安楽死」だったらしく。

自らの意思を持って尊厳を保てる間に「自分で決められる」のが「尊厳死」だと思っていたので、ドキュメンタリーのタイトルに「あれ?」っと思って調べて知りました。

海外では「尊厳死」「安楽死」などという区分はなくて、どちらも“death of dignity”だそうなので、あの時の英会話の講師の話は私の理解した「尊厳死」ではなく、日本の「尊厳死」の延命治療を本人の意思で拒否した方だったのだなと今になって理解しました。

私自身は「尊厳死」という言葉の方が違和感が無いのですが、いわゆる「安楽死」は簡単には認められません。
本を書いたジャーナリストのインタビューによれば、
「日本人には難しいのでは」と。
ヨーロッパなんかだと、「個人の意思」に対する線引きが明確だから、親子でも尊重される文化があるし「本当に個人の意思」である可能性が高いからと。

翻って日本では、「誰かに迷惑をかけたくない」という気持ちから来る事で、真に「個人の意思」なのかの判断が難しいのだと。
だから生前に意思表示をする事が大事だと。

更にはドキュメンタリーでの受け入れ先の医師の考えは「(スイス人は)権利を行使する意識が高く、死期を決めるのもまた権利だと考えている」と。

もちろん、本人の意思に加えて治療が望めない事、事前の調査や2人の医師による判断が必要など、実施にはハードルがもうけられています。

色々な考えや、立場によっても、また自分が置かれた状況によっても考えは様々だと思います。

私自身も、「治療方があるならトライする」と考えて来ましたが、全く原因のわからない全身の痛みと、じわじわ動かせなくなっていく箇所が増えたり、起き上がるのもきつくなった時期は、医師が挙げる病名が明確な治療法の無い難病ばかりで、動けなくなる事、最終的には「意思の表明」が出来なくなるものでしたから、この頃はかなり本気で「安楽死」のリサーチをしなくてはと考えていました。
(あ、今のところ大丈夫ですよー。わからないのは変わりませんけど、お薬のおかげで「社畜乙」並みに働いてます。)

動けなくなる事、自分の身の回りの事を自分で出来なくなる事はとてもつらい事です。
とめどなく痛みに襲われて、ただそれだけに向き合っている事も本当につらいです。

ですが、1番つらいのは、「意思の表明」が出来なくなる事です。
自分が自分である事。
それが無くなってしまったら。

ドキュメンタリーの女性は、家族が介助をしてくれてもありがとう、って伝えられなくなるのがつらいのだとも言っていました。

そして、ただ痛みに耐えるだけで、機能が失われていくだけであることもつらいのだと。

この辛さは家族にもわからないのです。
ですが、自分自身が失われていくような感覚を正常な頭で味わいながら、日々を過ごすのは真に苦痛です。

見た目にはわかりづらいです。
周りは「まだ頑張れるじゃないか」、「新しい治療法があるんじゃないか」と。
(私自身は、治せる医者を見つけないのは怠慢なんだ、くらいの言われっぷりでした。)

大切な人を失いたくないという気持ち、わかります。
そして、失う事に直面するつらさも。

もう一つ言えば、「神の手」のような医師に頼みさえすれば助かるんだ、というようなメディアの過度な情報は家族も本人も苦しみます。

ドキュメンタリーの女性がスイスまで付き添った姉達に話します。

「死ぬのは今じゃない、ってみんな、いつだって思うと思う。私も迷いがないわけじゃないんだよ。」と。
だからこそ選ぶのだと。


かたわら、同じ病気でも呼吸器をつけ、母と娘の介助を受け入れて生き続ける事を選ぶ女性も取り上げられています。

どちらも人の在り方として間違いなどないのだと思います。



グレゴリー・コルベール。(写真お借りしました)
CGではありません。
人と動物のお互いを尊重した融和。
自分が存在する世界とは違う理で動いているのではないかとさえ思う世界が繰り広げられます。