特に事業家が好んで使う言葉に信念、志がある。一つのテーマを追いかけて迷わない人生をまっしぐらというのは果たしてそんなに賞賛されるべきものなのだろうか。信念、志には洗脳、自己暗示がつきまとい、どの言葉も生存競争に勝つことに結びついている。勝者の背後には無数の敗者や中間層がいる、これって本当にそんなに大したものなのだろうか、こんな疑問が常に奥にある。

 

確かに社会人になり嫌でも競争社会に放り込まれると競走馬が先頭を走りたがる本能に従って前へ前へと突き進む、甘っちょろい思索など邪魔なだけだ、特に家庭をもち家族を支えるとなると頭の物置の片隅に追いやられ、そんなこと考えたことも無かったかのようにほこりをかぶっていつの間にか忘れ去られる。

信念、志、夢などの言葉で自己を奮い立たせて世の人々は進んでいく、自らを振り返ってもその通り。

 

50歳から75歳までの25年間は林住期と呼ばれ、競争社会から一旦退いて生きる本質を問う年齢だと言われているが、平均寿命の伸びた今では50歳は少し早いかもしれない、60歳から85歳が妥当かもしれないが、いずれにしてもその時期の真っ只中に入っている我が身としては事業家が好んで使う言葉に信念、志のテーマを考えてしまう。

 

ただこのテーマ一筋縄ではいかない、子供にこんなことを下手に教えようにも極めて不適切だし、難しい。そこで過去の名作の登場だ、フィッツジェラルドのザ・グレート・ギャツビーがその任に耐える一冊であるだろうと密かに考えている。

 

「ギャツビーは緑の灯火を信じていた。年を追うごとに我々の前からどんどん遠のいていく陶酔に満ちた未来を。」この最後のフレーズは美しいが同時に陶酔を覚ます重要性も教えてくれる。

 

ギャツビーは緑の灯火(志であり同時に緑はアメリカ紙幣の色でその暗喩と2面性をもつ)を信じてデイジーへの愛(つまり志や夢)を手に入れようとする。しかし小説ではギャツビーの思いの中のデイジー(つまり志や夢)とリアルなデイジー(金への欲望)との大きなギャップが描かれ、思いの中のデイジーを庇ったために殺される。

 

思いの中の志が現実の志に殺されるという結末を迎える。事業家が好んで使う信念や志というもっともらしい言葉に騙されてはいけない、どこか嘘くさいという感覚を持たないといけないのだがザ・グレート・ギャツビーはそのことを教えとしてではなく深く教えてくれる。 

 

かつての温もりを持った世界が既に失われてしまったことを、彼は悟っていたに違いない。たった一つの夢を胸に長く生きすぎたおかげで、ずいぶん高い代償を支払わなくてはならなかったと実感していたはずだ。

彼は威嚇的な木の葉越しに、見慣れぬ空をみあげたことだろう。そしてバラというものがどれほどグロテスクなものであるかを知り、生えそろっていない芝生にとって太陽の光がどれほど荒々しいものであるかを知って、ひとつ身震いしたことだろう。その新しい世界にあってはすべての中身が空疎であり、哀れな亡霊たちが空気のかわりに夢を呼吸し、たまさかの身としてあたりをさすらっていた・・・P291

 

「彼らの目にはおそらく、この島は緑なす乳房として映じたのであろう。・・・人類すべてにとって最後の、そして比類なき夢に向けて、甘い言葉をさやかにささやきかけていたのだ。束の間の恍惚のひととき、人はこの大陸の存在を眼前にして思わず息を呑んだに違いない。審美的な瞑想のなかに引きずりこまれ、みずからの能力の及ぶ限りの驚嘆を持って、その何かと彼らは正面から向かい合ったのだ。二度と巡り来ぬ歴史のひとこまとして。P325

 

その夢がもう彼の背後に、あの都市の枠外に広がる茫漠たる人知れぬ場所に・・・移ろい去ってしまったことが、」ギャツビーにはわからなかったのだ。P325

 

ギャツビーは緑の灯火を信じていた。年を追うごとに我々の前からどんどん遠のいていく陶酔に満ちた未来を。それはあのときわれわれの手からすり抜けていった。・・・だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながら。P326

緑の灯火、このテーマは奥が深い。

 

 

 

レイモンド・チャンドラー「ロング・グッドバイ」村上春樹訳を読んで気に入ったフレーズ、気になる台詞を抜き出し感想をメモする。

 

なんとも思っていないと言うのは嘘ではなかった。私は星と星とのあいだの空間のように、虚ろで空っぽだった。家に戻ると強い酒を作り、居間の開いた窓のそばに行って、それをちびちび飲んだ。ローレルキャニオン大通りを行きかう車がたてる地鳴りに耳をすませ、怒れる大都市が丘の斜面に投げかけるぎらぎらとした光を眺めた。

 

犯罪に満ちた夜のなかで、人々は死んでいく。・・・都市は豊かで活気に満ち、誇りを抱いている。その一方で都市は失われ、叩きのめされ、どこまでも空っぽだ。人がそこでどのような位置を占め、どれほどの成果を手にしているかで、その相貌は一変する。私には手にするものもなく、またとくに何かを求めているのでもなかった。酒を飲んでしまうと、ベッドに入った。 p428

 

当時のアメリカ社会(もちろん現代にも通じるが)への批評が随所に比喩を伴って表れる。スコッチでしか癒せないようなどこか救いのない虚無と崩壊を食い止めるささやかな、しかし非常に大切な「プライド」が読後に残る。ワインは友好の酒、ウィスキーは孤独をいやす酒だと言われるがこの小説を読むとリアルに実感できる。

 

「あんたにはさよならを言うべき友達がいた」と彼は言った。「彼のために監獄にぶち込まれてもいいと思えるほどの友だちがね」 P111

 

この友人テリーに対する共感と友情、そしてやがて訪れる失望と長い別れ「ロング・グッドバイ」の物語を象徴する台詞。

 

さよならをいうとは死に挑んで別れをいうことで、死に挑んで別れをいうほどの友人を作れるかどうか、それがこの男の大問題なのだ。つまり生きることの意味なのだと。

さよならを言うことは少し死ぬことだとのセリフと合わせてみると、この小説のテーマであることが理解できる。死に挑んで別れをいうべき友人が3人いれば、そのうち一人が死ねば3分の1死ぬという意味だろう。

 

小説のような安っぽい友情とギャングのメンデスにからかわれるようなテリーに対するうぶな友情が何故芽生えたのかの詳しい説明はない。頬の傷に大戦の暗い影があり、大金持ちで背後に犯罪組織の闇があり、アルコール中毒であり、しかしどこか品位を失わない男に対してひととき午後の5時過ぎに近所の酒場でギムレットを楽しむ二人だが、特に決定的にそれほどの友情をはぐくむ出来事の描写や心理の説明はない。

 

「なぜか友情をもった」これが仮説であり、その結果としての長編物語が続くことになる。村上春樹が訳者解説でこのあたりのことを詳しく書いている。かれは若い時に「こんな書き方があるのか」と感動したとある。

 

「ザ・グレートギャツビー」でもニックがギャツビーに関心をもつ理由の説明や台詞はなく、ギャツビーが追い求める女は読者に魅力を感じさせない。(つまり明示的に説明しない)

 

①女は駐車係に、ぐさりと刺さって背中から少なくとも十センチは突き出そうな視線を投げた。p8

 

この女性シルビア・レノックスはテリー・レノックスの妻で、大金持ちのハーラン・ポッターの娘であり、親譲りの財産をもつ度し難い美貌の淫乱女として描かれる。

 

アイリーン・ウェイドからテリー・レノックスとロジャー・ウェイドを奪った女でこの物語の3件の殺人(この女が殺されることも含めて)はこの女をめぐって起こるので重要な役どころなのだが、何故テリーがこの女と2度の結婚までするのか、つまりどこに魅かれたのかの説明は次の台詞に表れている。

 

救いようもなく自堕落な女なんだ。でも僕はひょっとして、随分遠まわしにではあるけれども彼女に好意を持っているかもしれない。p40

 

②彼女の舌の上では今や、一匙のアイスクリームだって溶けずに残りそうである。p9

 

①と同じ女シルビア・レノックスの描写。この女の冷酷さ、酷薄さが強調されるほどテリーの絶望が一層際立つ。この種の女に絶望している男が魅かれるのは女もある種の絶望(他人のもちものを欲しがる以外には欲望が沸かない)にあるから。マーローも同じ血をもつシルビアの妹から結婚を持ちかけられるがかろうじて踏みとどまる。マーローはアイリーン・ウェイドとも関係をもつ直前までいくが、男に覗かれていることで止まれる。

 

マーローもテリーも類似の女に魅かれることから深いところで似た者同士だと分かる。しかしマーローは踏みとどまって崩壊までにはいたらない。この踏みとどまりの理由はプライドという極めて漠然としたものであるとしか読者にはわからない。背景にキリスト教信仰があるようにもみえない。生活上の美学とでも呼びたいものがマーローを律している。

 

「カラマーゾフの兄弟」にもアリョーシャの同僚から信仰がなくても人類は倫理観をもって生きていけるとの台詞がはかれるがマーローの思いもそれに近いがそんなマーローはやはりどこかせつない。

 

④ボクシングで言えば、人はなるたけクリンチに逃げて、いざというときのために力を蓄えて置かなくっちゃ p11 

 

これも駐車場係の得意げに語る人生哲学の台詞。マーローの要領の悪い生き方に教訓を垂れる俗物の台詞。

 

マーローの大人になりきれないパーソナリティーが刺激され、「そうやってここまでのし上がったわけだ」と俗物駐車上係に強烈な嫌味を浴びせる。

 

この作品は大金持ちや政治家、警官さらには駐車係に代表されるやや俗物だが「普通」の人々と、決して「普通」になりきれないマーローの泥まみれの戦いを描いている。作者はこの普通になりきれないマーローのプライドに神なき時代の神を求めている。

 

⑧君はぜんぜん別の場所に行くんだ。そこではあらゆる色が少しずつ淡くなり、ある種の音が少しずつ静かになる。それに慣れなくちゃならない。・・・これまでよく知っていた人たちがみんな、少しずつ妙な感じに見え始める。君には彼らのおおかたが気に入らなくなるだろうし、むこうだって君の事をよくは思わないだろう p20

 

作者のレイモンドチャンドラーもアルコール依存症で苦しんだ経験をもつ。色と音それに対人関係の変化の表現、アルコール依存症の経験者でないと書けないリアルな描写。

 

没落する貴族、落剥する未亡人、アルコール依存症に落ち込んでいく人々、過酷な戦時体験で精神を壊されてしまった帰還兵たちの滅びのなかに落ち込んでいく過程には一抹の快楽もあると作中の作家ロジャー・ウェイド に言わせているが、この一抹の快楽を伴う酩酊中の快楽がまさに色あせていくことのつらさを経てこそプライドが保てる。

 

⑨僕のプライドは、それ以外になにも持ち合わせない人間のプライドなんだ。p23

 

このプライドとは、テリーがかつて愛した女であるアイリーン・ウェイドを殺人容疑から守って自分が身代わりになることを指しているのだが、テリーの高価な豚革のスーツケース(アイリーン・ウェイドからもらったことが示唆されている)を質にいれないというこだわりにもプライドが潜む。しかし彼のプライドの源泉は人生で一回きりの離れ技で焼ききれてしまったかのよう。

 

僕のような人間は、生涯に一度だけ晴れがましい瞬間をもつ。空中ブランコで、完璧な離れ業をやってのける。p41

 

この固執するプライドにマーローは心の奥で共鳴し、テリーのために危ない橋を渡る。プライドはこうしたギリギリの局面でこそ、よく表現され得る。マーローが共感するのも彼自らがいがらい都会の中でぎりぎりのプライドでなんとか安定を保っているからであり、だからこそテリーと共感できた。マーローのぎりぎりのプライドは拘置所にぶち込まれてもテリーを守ると言う点にあらわれる。

 

⑩しかし何はともあれテリー・レノックスは彼なりの原則をまもって生きているのだ。それがどんな原則であれ。p24

 

またしてもテリーの原則とプライド。テリーは最後にまたしても周到な計画の元に生き延びようとする。滅びに任せているようでどっこいしぶとく生き残ろうとするどんでん返し。この小説の凄いところは人間の奥深く存在する無明(生きようとする煩悩)を描いているところだ。

 

⑭本気で何かを欲しがることなど連中にはないんだ。他人の奥さんを別にすればね。 p36

 

マーローもリンダ・ローリングと関係をもち、ロジャーウェイドもシルヴィア・レノックスと、そしてチャンドラー自身も18歳年上のシシ―と結婚している。いずれも人妻だ。

 

なんでも手に入る金持ちの男が最後に求めるものが他人の奥さんだという。これって旧約聖書の十戎にもあり、仏教の五戒にもある。

 

 旧約聖書ただしカトリック教会・ルーテル教会の採用するもの

1わたしのほかに神があってはならない。
2あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
3主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。
4あなたの父母を敬え。
5殺してはならない。
6姦淫してはならない。
7盗んではならない。
8隣人に関して偽証してはならない。
9隣人の妻を欲してはならない。
10隣人の財産を欲してはならない。

 

5から10に注目すると快楽と結びついていることがわかる。5がなぜ快樂か。カラマーゾフの兄弟を読めば納得できる。

 

そして5から10のすべての罪悪を備えているのは他人の奥さんを欲しがることだとわかる。5から10はなんと不飲酒戒を省けば仏教の在家の五戒と重なる。

1不殺生戒

2不偸盗戒
3不邪淫戒
4不妄語戒
5不飲酒戒


気になるフレーズ

以下、気になるフレーズを書き記してみた。作者は

愚かしい直喩。こいつは小説家の業だ。p318

といいながらも直喩を多用する。冷静な自己分析の眼も持っているが小説家の業と言い切っているところがすごい。

 

波のうねりは、賛美歌を歌う老女のごとくやさしい。 P61

目は汚れた氷のようだ。p76

私にとって眠れない夜は、太った郵便配達人とおなじくらい珍しい。p136

彼女は何かをウェイターに告げた。彼は前屈みに急ぎ足で去って行った。重大な使命を与えられた密使のように。p141

あるポイントを越えれば、危険の度合いに差はなくなるといったのは誰でしたっけ? p147

夏の雲を描くときに使う刷毛を思わせる声だった。p150

ボクシングよりも・・・ダンス教室の教師でもしているほうがお似合いだ。p157

転寝をしているおばあさんだって起こせないようなへなちょこパンチばかりだ。

コマーシャルときたら、鉄条網とビール瓶の破片を餌に育てられた山羊たちでさえ、身体を壊してしまいそうな代物だった。p158

この事件はすでに片がついて、はんこが押されて、防虫剤とともに押し入れに仕舞い込まれた。p159

彼女の視線は鋼鉄のようで、その鋭い視線はヒップポケットのなかの金額まで勘定できそうだった。p177

君のような安物探偵は、トスカニーニから見たオルガン弾きの猿のようなものだ p180

錬鉄職人のアンダーパンツほどの魅力だってもっちゃいない p181

両方の眉毛をぎゅっと派手に持ち上げた。ブラシ会社のセールスマンなら、その眉毛にひきつけられた事だろう p193

世間的に成功した人々の多くは、頭脳明晰という地点からはほど遠いところにいる。 p216

この男なら象の後ろ脚だってもぎとれるはずだ。p242

運転手はまるで宝石箱のふたを下すみたいにうやうやしくドアを閉めた。 p265

元気の良い樫の木は見事に葉を繁らせ、どんな人間が通りかかっているのか見届けてやろうと道路に向かって身を乗り出している。・・・雀にしか価値を見いだせないなにかをつついている。p268

崩れかけた肺のような容貌をしていた。p284

世間の多くの人々は、自分のエネルギーの半ば近くを、もともとありもしない威厳を護ることに費やしつつ、汲々と人生を送っているのです p295

あなたには蚤の糞ひとつかみほどの値打ちもない p303

次々に登場する新手の機械にふり回されている我らが時代の人間は、電話を愛し、呪詛し、そしてまた恐れる p313

 


飲めるだけ飲むと、やがて部屋に霞がかかった。すべての家具が間違った場所に置かれているみたいに見えた p334

こいつを前にしたら、賑やかなワライカワセミでさえ気を落として、死を悼む鳩のようにくうくうと痛切に啼くに違いない p356

昆虫学者がカブトムシをみるときのような目つきだった p358

痛烈な灰色の視線で私を切り刻んだ p360

その事件はもう終わったんだ。蓋を閉じられ、鍵をかけられ、重しつきで海の底にどぼんと沈められたんだ p375

彼女はカスタードのように物静かだった p404

途中で寄り道して花を摘んだりするなよ p417

彼が不在なら、彼の馬を電話に出してもらうとよい p419

でかい金はすなわちでかい権力であり、でかい権力は必ず濫用される。それがシステムというものだ。そのシステムは今ある選択肢のなかでは、いちばんましなものかもしれない。しかしそれでも石鹸の広告のようにしみひとつないとはいかない p433

私はロマンティックなんだよ、バーニー。

中略 そんなことをやっても一文にもならない。君ならそんなことはしないだろう。だから君は優秀な警官であり、私はしがない私立探偵なんだ。 P438

彼はとても長い影を落としている。P445

いいとも。君の気に入らないことをしたら、市街電車を背負ってサンタカタりーナ島まで泳ぐ羽目になるんだろう。 P446

穏やかな形で頭をおかしくするにはもってこいの方法だ。声を上げて泣き叫ばずとも、きわめてそれに近いところまでは行ける。P449

ルームサービスのウエイターが飲み物をもって中に入ってきた。そして7品のコース・ディナーを並べるみたいに仰々しくそれを置いた。 P455

その声には明るく澄んだ空虚さがあった。時刻を案内する電話局の機械的な声に似ている。 P475

霞のかかった月が我関せずという顔で浮かんでいた。P497

人生でもっとも切ないのは、美しいものごとが若いうちに命脈を立たれることではなく、年老いて穢れていくことなのです。 P515

コーヒーは幾度ものお勤めで疲弊気味だったし、サンドイッチには細かくちぎられた古いシャツのような深い味わいがあった。 P517

とても興奮したように見えた。安物の葬式で張り切っている葬儀屋みたいに。 P517

月光に照らされた日干し煉瓦の壁のようにひっそりとした男だった。P540

組織犯罪は強い力をもつアメリカ・ドルの汚い側面なんだよ。 P552

さよならをいうのは、少しだけ死ぬことだ。 P571

そのあと、事件に関係した人間には誰にもあっていない。警官は別だ。警官にさよならを言う方法はまだみつかっていない。 P594

 

僕の読み取れない崩した字体でもなんとか読み取っているのがすごい。いや驚きました。

 

以下 Gemini の回答です。

 

 

国木田独歩の『欺かざるの記』(あざむかざるのき)の一部。

 

【右ページ】

手告

雨、雨、雨。北海道移住は、農民等を挙げての独主

独行せしめたいとの希望であったのだ。

其のために、然るべきことも数日前、前収二は

国民新聞社より一通の三葉の折込を解きぬ。

北海道由良、勇、平、剛、章

拓殖日誌……

【左ページ】

なり。北海道移住のことは名主は辞した。

午後、在を本三、二、三等の家を訪問しては、内泊する

ことにした。

一毎をば、病し、折角なるを、と辞し、近年益々

独立自由の生活に慎むに至りぬ。

雇わるる者に非ず。独立の民として、作、栽、をなすときも

……


こちらは石川啄木の小説『雲は天才である』の草稿です。先ほどの独歩の手稿とは打って変わって、非常に几帳面で整った、美しい楷書体が印象的です。

この作品は、啄木が代用教員として岩手県の渋民尋常高等小学校に赴任していた頃の経験をもとに書かれたものです。


翻刻(冒頭部分)

雲は天才である

石川啄木

(一)

六月三十日、S村尋常高等小学校の職員室では、今しも壁の掛時計が平常の如く極めて元気のよい振子をあげて、一、二、三、と学校教師の単調なる生活に、正しく此時計までが……


読みどころと背景

この草稿には、啄木の性格や当時の状況がよく表れています。

  • 推敲の跡: 文章の横に細かく書き込みがあったり、言葉を入れ替えたりした跡が見えます。例えば、「午後三時を報じた」という記述の周辺にも、時間の経過や情景をより正確に伝えようとする苦心が伺えます。

  • 「単調なる生活」: 翻刻した部分にもある通り、啄木はこの作品を通じて、田舎の小学校教師という型にはまった生活への倦怠感や、そこから抜け出したいという知的な欲求、そして空に浮かぶ「雲」のような自由な存在への憧れを綴っています。

 

ジャワ島プランバナンの石の彫刻を回想するとき、心に浮かぶのはいつも、あの完璧すぎる神々の姿だ。しかし、次なる目的地であるバリ島で向き合おうとしているのは、石に刻まれた「永遠」ではない。ランプの火に揺らめく「刹那」の影、そして泥臭い肉声が吹き込まれた、もう一つの『ラーマーヤナ』だ。インドからジャワを経てバリへと至ったこの壮大な叙事詩は、単なる翻訳を超え、バリの人々の血肉となって驚くべき変遷を遂げてきた。

ジャワやインドの原典が描くのは、光り輝く善が邪悪を打ち倒す「勧善懲悪」の物語かもしれない。しかし、バリの影絵のスクリーンに流れているのは、「ルア・ビネダ(Rua Bineda)」という、より深く、より寛容な宇宙観だ。そこでは、悪しき魔王ラヴァナが滅びて終わることはない。善と悪、光と影、それらは常に一対であり、一方が消えることは宇宙の調和が崩れることを意味する。

劇の結末でさえ、焦点は悪の根絶ではなく「バランスの回復」に置かれる。右から現れる善と、左から現れる悪が激しくぶつかり合いながら、最終的に中央の「カヨナン(生命の樹)」によって統合されるとき、バリの人々は宇宙のあるべき姿をそこに再確認するのだ。

 

この物語を、高潔な神話から血の通った民衆の物語へと引き寄せた最大の功労者は、「プナカワン」と呼ばれる道化たちだ。トアロ、メレダ、サングッ、デレム。彼らはインドの原典には存在しない、バリ独自の「発明」である。彼らは重層的な通訳者として、神々と私たちを繋ぐ。英雄ラーマが古代の聖なる「カウィ語」で高潔な義務を宣言するとき、そのすぐ後ろでトアロが振り返り、現代の「バリ語」でその真意を噛み砕いて村人に語りかける。

 

「旦那様は、どんなに辛くても逃げちゃいけないって言ってるんだよ」

彼らの語りは、時に時事ネタや社会風刺、滑稽なユーモアを交えながら、千年前の物語を現代の現実へと接続する。スマホばかり見ている現代人への皮肉や、村の道路補修の話題。神話はもはや遠い異国の教訓ではなく、今この瞬間を生きる自分たちの問題として呼吸し始めるのだ。

 

さらに興味深いのは、太陽の下で行われる「ワヤン・ルマ(昼のワヤン)」の存在だ。ここでは白いスクリーンも、揺れるランプも使わない。一本の糸が結ばれただけの空間で、ダラン(人形遣い)は観客ではなく、神々が鎮座する方向を向いて座る。かつてプランバナンで石に刻まれた物語が「王権の威光」や「不変の教訓」を求めたのだとすれば、この影さえ持たないワヤンは、物理的な姿よりもその背後にある本質、「空(くう)」を重んじる、純粋な祈りへと深化している。もはや鑑賞物ではなく、その場の空間を浄化し、神と人を直接対話させるための「呪術的な装置」といえる。

 

ジャワの影絵「ワヤン・クリ」にもバリと同様に二元論的な要素は存在するが、「ルア・ビネダ」とは、その質感や物語の帰結において明確な違いがある。

バリのルア・ビネダが「善と悪の永遠の拮抗と共存」に重きを置くのに対し、ジャワのワヤンはより「霊的な秩序(タタ)」「内面的な洗練(ハルス)」を追求する傾向が強い。

 

ジャワの影絵でも、スクリーン上では常に「右(善・高貴)」と「左(悪・粗野)」が対峙する構造は共通している。しかし、ジャワの物語において重要なのは、対立そのものよりも、主人公がいかにして己の欲望を制御し、宇宙の調和(秩序)に合致した行動をとるかという点にある。

 

直線的な勝利: バリのように「悪もまた必要」として共存を強調するよりも、ジャワでは「善が正しい秩序を取り戻す」という、よりインドの原典に近い勧善懲悪の枠組みが残りやすい。

洗練の美学: ジャワでは悪は「粗野(カサル)」なものとして描かれ、善は「洗練(ハルス)」されたものとして描かれる。物語は、このカサルな混沌をハルスな秩序で鎮めるプロセスとして機能している。

 

ジャワにもセマールをはじめとする「プナカワン」は登場するが、バリのトアロたちとはその性格が少し異なる。

ジャワのセマール: 彼は単なる道化ではなく、宇宙の根源的な力を持つ「神格」としての側面が極めて強い。王や英雄を教え導く、より超越的なメンターとしての重みがある。

バリのトアロ: 哲学を民衆の言葉に「通訳」し、生活の泥臭さの中に神話を落とし込む、より「横の繋がり」を重視する存在だ。

 

プランバナンで見た「石のレリーフ」は、ジャワの王権が示した「揺るぎない正義と秩序」の象徴だった。それがバリに渡り、揺れるランプの火に照らされることで、善と悪が混ざり合う「ルア・ビネダ」へと変容していった。

 

ジャワの影絵は、その中間地点にある。石ほど硬くはないが、バリほど曖昧でもない。そこにあるのは、混沌とした現実を「正しい精神性」によって統制しようとする、ジャワ特有の抑制された美学だ。

 

プランバナンの不動の石像に刻まれた理想と、バリの夜に揺らめく影の気配。この「石から影へ」という移行のなかに、人々が外来の文化をどう咀嚼し、自らのアイデンティティへと溶け込ませてきたかという、精神の変遷を感じずにはいられない。人形遣いがトアロを通じて放つ、しわがれた人間臭い声に耳を澄ませるとき、そこには1200年前から途絶えることなく更新され続けてきた、生きた人間の呼吸が刻まれている。

 

ボロブドゥールとプランバナン  密林に沈んだ二つの「宇宙」

1. 「石室なきピラミッド」に眠るロマン

ボロブドゥール遺跡に焦点を当ててみると、未だわかっていないことが多い。ほとんどわかっていないと言った方が正しいかもしれない。インドは英国の植民地化で考古学的研究が大きく進んだが、インドネシアではまだ道半ばという印象だ。

 

このピラミッド型遺跡の内部は、天然の丘に盛り土をした構造であり、エジプトのピラミッドのような石室は存在しない。しかし、ここから新たな発見 、例えば、長らく謎とされてきた仏陀の入滅年代を特定するような石碑が見つかるなどというロマンは否定できない。

 

釈迦の入滅年代が不明である事実は、私にとって新鮮な驚きだった。紀元前383年説(修正採用説)を記憶していたが、これも数ある仮説の一つに過ぎない。佐々木閑氏の解説にある通り、紀元前600年頃から160年頃まで、実に500年近い幅があるという事実は、仏教史の奥深さと曖昧さを物語っている。

2. なぜ聖地は「土」に埋もれたのか

ボロブドゥールが再発見されるまで土に覆われていた理由は、今も諸説が入り乱れている。

 

メラピ山の噴火: 10世紀初頭の噴火による火山灰説。近隣のサンビサリ寺院が地下6メートルから発見された事実は、この自然災害の凄まじさを証明している。

 

人為的な隠蔽: イスラム勢力や他宗教の破壊から守るために、当時の信徒たちが自ら埋めたという説。

 

王権の移動: サンジャヤ王朝への実権交代や、王国の東方移転に伴う管理放棄。

 

遺跡を覆っていた土が、基壇の底にある土と同じ成分であるという点は非常に興味深い。これは、火山岩(安山岩)を加工する際に出た石粉や、周辺の火山灰土が長い年月をかけて堆積し、構造物と一体化した結果なのだろうか。

3. 「象牙の塔」の仏教と、民衆に舞うヒンドゥー

なぜこれほどの大寺院と仏教が忘れられたのか。ボロブドゥールから約一世紀遅れて建立されたプランバナン寺院は、仏教のシャイレーンドラ王朝とヒンドゥーの古マタラム王国が協力・共生していた時代の象徴である。しかし、近接する二つの巨大宗教が並び立つバランスは、極めて危ういものであったに違いない。

 

インドにおける仏教の衰退の一因として、僧侶たちがナーランダなどの巨大寺院、いわば「象牙の塔」に閉じこもり、学問的精緻さに没入したことが挙げられる。権力者の布施に依存し、安楽に暮らす僧たちは、次第に民衆の心から遠ざかっていった。

 

対照的に、ヒンドゥー教は歌や踊り(ラーマーヤナ演劇など)、そして身近な神々を通じて民衆の中に深く浸透した。プランバナンのレリーフに見られる躍動感は、まさにその「民衆の熱量」を反映しているかのようだ。

4. ジャワに響く「宗教共生」の終焉

インドで起きたことは、ジャワでも時間差をおいて繰り返された。精緻な仏教学を打ち立てることも重要だが、民衆にわかりやすい教えを説く者が欠如すれば、宗教は形骸化し、やがて滅びる。

 

イスラム勢力の進出に際し、なぜボロブドゥールは埋もれ、プランバナンは地上に残されたのか。これには地形や立地の差も関係しているだろう。プランバナンは平原に立ち、地震による崩壊の被害を大きく受けたが、ボロブドゥールは丘を包み込む構造ゆえに、土砂に飲み込まれやすかったのかもしれない。

 

インドではその後、仏教は再発見され、劇的な復活を遂げていく。ジャワの地においても、かつてシャイレーンドラとサンジャヤの王家が婚姻を通じて結ばれたように、異なる信仰が混ざり合い、「ジャワ・ヒンドゥー」や「ジャワ仏教」へと昇華していったプロセスには、現代の私たちが学ぶべき教訓が詰まっている。

参考

  1. 土の成分について: ボロブドゥールは「天然の丘」を核にしているため、基壇の下は自然の土壌。遺跡を覆っていたのは主にメラピ山の火山灰と、風化した石の粒子、そして腐葉土の混合物とされている。

  2. プランバナンの露出: プランバナンは完全に埋没したわけではなく、16世紀の地震で大破し、廃墟(石の山)として長年放置されていた。ボロブドゥールが「土の山」に見えたのに対し、プランバナンは「崩れた石の山」として認識されていたという違いがある。

  3. 宗教の逆転: 9世紀後半にはヒンドゥー教のピカタン王が仏教の王女と結婚し、プランバナンを建立した。これは仏教勢力からヒンドゥー勢力へのパワーバランスの移行期を象徴しており、「僧侶が民衆から離れた」という考察を裏付ける歴史的背景となり得る。

黄金の夜明け   宇宙の真理を映すストゥーパ

早朝、最上層に辿り着くと、霧がかかった幻想的な風景の中に釣鐘型のストゥーパ群が静かに佇んでいる。この最上部の三層に及ぶ円形壇には、合計72基のストゥーパが整然と配置されている。格子状の隙間からのぞく仏像は、すべてが「転法輪印(てんぽうりんいん)」、すなわち釈迦が初めて説法を行った際の悟りの形を結んでいる。

 

かつて、この巨大な黒い塊は白い漆喰で化粧され、湖の上に浮かぶ宝石のように輝いていたという説がある。朝日が昇り、空が黄金色に染まる瞬間、ストゥーパのシルエットが浮かび上がる光景は、まさに密教における「無色界(物質を超越した精神の世界)」の具現化に他ならない。この場所に立つと、自らの存在が宇宙の一部として溶け込んでいくような、特別な感覚に包まれるだろう。

闇を照らす一筋の光   悟りへの階梯

まだ夜の名残が残るなか、懐中電灯を手に暗闇の回廊を上っていく。観光客の少ないこの時間帯は、まるで時が止まったかのような静寂が支配している。仏教において夜明けは「無明(むみょう)の闇」が晴れ、悟りへと至る象徴的な刻(とき)である。

 

ボロブドゥールは、基壇から頂上へ向かうにつれ、人の煩悩に満ちた「欲界」、形ある修行の「色界」、そして象徴のみが残る「無色界」へと世界が移行する「立体曼荼羅」の構造を持っている。一二〇〇年前、シャイレーンドラ王朝の王たちもまた、今の私と同じようにこの階段を踏みしめ、密林の向こうに広がる仏教宇宙を夢見たに違いない。

霧のジャングル 「ジャワの庭」に抱かれて

仏塔の向こうに広がるジャングルが、深い朝霧に包まれている。遠くには「ジャワの庭」の守護者であるメラビ山と、スンビン山の雄大なシルエットが霞んでいる。インドネシア特有の湿気を帯びた空気は、ボロブドゥールの黒い安山岩をさらに深く濡らし、大地そのものが深い瞑想に入っているかのような静寂を演出する。

 

この広大な聖域は、かつて一直線の聖道によってパウォン寺院、ムンドゥ寺院と結ばれていた。その中心にあったはずの王都は未だ発見されておらず、ボロブドゥールのロマンをより深いものにしている。霧の向こうに広がる無限の世界は、そのまま自らの心の深淵へと繋がっているのだ。

刻一刻と変わる表情  永遠の中の一瞬

太陽が昇るにつれ、淡い霧は濃く、あるいは重たく変化していく。雲が厚くなればストゥーパの影は深まり、寺院全体が再び深い眠りに戻るかのような厳かな雰囲気に包まれる。

 

一九世紀にラッフルズが再発見するまで、この聖地は火山灰と密林の中で八〇〇年以上も眠り続けていた。建設当初から雨水による陥没という宿命を背負い、何度も修復と計画変更を繰り返した「生きた遺跡」は、今この瞬間も、光と霧の動きに合わせてその表情を変え続けている。

この一瞬ごとの変化こそが、ボロブドゥールの真の魅力であり、訪れる者に「諸行無常」と「永遠の肯定」を同時に語りかけてくる。

チャッピーで映画パンフをネタにお絵描きしてみた。想像以上にうまくドラマティックに出来上がるので驚いた。

さて映画の題名はわかりますでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

上から順に

パルプフィクション

ひまわり

蜘蛛女のキス

風とともに去りぬ

哀愁

007

明日に向かって撃て

ポニーとクライド

愛と悲しみのボレロ

 

 

 

幼年期の終わり  虚無を突き抜けた先の「肯定」

 

一九八九年、ベルリン。崩壊する壁の前で、人々が歴史の破片を必死に削り取っていたあの時、私は確かに「自由」の手触りを感じていた。


だが、あれから三十余年、世界には再び「壁」が立ちはだかり、人類は分断と暴力の引力に抗えずにいる。


歴史を繰り返すのではない、人類は「歴史を忘れる力」を、あまりに強く持ってしまったのだ。


この閉塞感の中で、私は仏教学者たちの言葉を反芻し、ある一つの確信へと辿り着く。


佐々木閑氏は、釈迦の教えを「諸行無常」の一言に集約する。それは仏教そのものでさえ例外ではなく、いずれ滅びる宿命にあるという。


氏が説くのは冷徹なまでの自己解体だ。「わたし」なるものは、ひと時の五蘊の集まりに過ぎない。


この突き放し方は、三島由紀夫が『豊饒の海』の終幕で描いた、「そんなお方は、元々存在しやはらへんのと違いますか」という尼門跡の言葉のように、一切を真昼の光の中に霧散させてしまう。


しかし、立川武蔵氏は、その「空」にはひと時も住むことはできず、私たちはこの娑婆に戻らねばならないと言う。


虚しさを知った上で、なおこの泥濘の現実を歩き出すこと。そこにしかリアリティはない。


そこで響くのが、紀野一義氏の「人生は何があろうと肯定、肯定、肯定だ」という力強い断定だ。


虚しさを突き抜けた先にある「空」を、絶望ではなく全肯定の基盤へと反転させること。諸行無常を肯定するその先にこそ、大乗の萌芽があるのではないか。


ここでドストエフスキーの「大審問官」が、仏教の変容と鮮やかに重なり合う。


大審問官は、自由という重荷に耐えられない人類のために、キリストが拒絶した「奇跡・権威・神秘」を敢えて手に取った。


釈迦が説いた「自灯明」という峻厳な自由は、一般の民衆にはあまりに孤独で難解すぎたのだ。


だからこそ大乗仏教は、阿弥陀仏の救済や曼荼羅の神秘という、いわば「大審問官の慈悲」を取り込み、民衆の弱さを包み込んでいった。


無言のキリストが大審問官の唇に落とした「憐れみと癒しの接吻」は、大乗が衆生のためにあえて纏った「方便」という名の愛の姿に思えてならない。


佐々木氏が見つめる、タイの森でのテーラワーダの質素な生活。死者の衣を再利用し、午後の飲食を断つ僧たちの姿は、アーサー・C・クラークが『幼年期の終わり』の結末で、地球上の全宗教が消え去る中で唯一生き残ったとした「南方の素朴な宗教」を彷彿とさせる。


一方で、新車やゴルフに明け暮れる現代の僧侶たちの姿は、かつてインド仏教が富豪の寄進によって豪奢になり、自壊していった歴史の再現にも見える。


壁を削る音は、今も私の内側で続いている。それは歴史を削る音であり、凝り固まった「自己」という執着をこそぎ落とす音でもある。


超越存在であるオーバーロードの導きを待つまでもなく、私たちが「私」という虚構を解体した先に、剥き出しの生を「肯定、肯定、肯定」と叫び続けることができれば、その時こそ人類は本当の意味で「幼年期」を終えることができるのかもしれない。


たとえ、その「わたし」さえも、実体なき幻であったとしても。

『幼年期の終わり』と仏教的解脱 、銀河の果て、宗教が辿り着く場所

 

アーサー・C・クラークの金字塔『幼年期の終わり』。

この物語を単なる「宇宙人による地球侵略モノ」だと思って読み始めると、最後にはとんでもない断崖絶壁に立たされることになる。そこで描かれるのは、人類という種が「人間」であることをやめ、全く別の「何か」へと変貌していく、あまりに静かで、冷徹な進化の姿だ。ディストピア。

 

特筆すべきは、物語の中で語られる「宗教の末路」だ。

クラークはさらりと、しかし残酷なまでにこう予言している。

「地球上のすべての偶像崇拝的な宗教は支持を失い、東洋の素朴な宗教だけが生き残った」

キリスト教もイスラム教も、そして私たちが知る華やかな大乗仏教すらも消え去り、あとに残ったのは「無数の小さな宗派」だけだったという。

 

この結末を読み解く最大のキーワードが、オーバーマインド(集合意識体)だ

 

 人類の子どもたちが、ある日突然、個人の意識を失い、一つの巨大な「精神の海」へと溶け込んでいく。

 

この描写を読んだとき、そこに仏教の「無我(アナッター)」の極致を見た。

 

日頃、「これが私だ」「これは私のものだ」という執着(エゴ)の中で生きている。しかしオーバーマインドの世界では、そんな「私」という境界線は一切消滅する。

 

個人のアイデンティティを捨て、宇宙的な知性の波紋の一部になること。それは、仏教が目指す「自己という幻からの解放」と、驚くほど似通っている。

オーバーマインドは、肉体という「器」を必要としない。

物語の最後、進化した子どもたちが地球を焼き尽くして宇宙へと去っていくシーン。それは、物質的な執着(色)を完全に脱ぎ捨て、永遠の安らぎである「涅槃(ニルヴァーナ)」へと至るプロセスに移る。

 

「色即是空(しきそくぜくう)」形あるものはすべて空である。

 

クラークが描いた進化とは、人類が物質という重力から解放され、ついに「空」の真理へと足を踏み出す、壮大な「解脱」の寓話に見えてくる。

では、なぜ人格神を信じる宗教は滅びてしまったのか?

それは、オーバーロードという圧倒的な知性がもたらした「科学的真理」の前に、人間の形をした神さまが、あまりに「人間くさすぎた」からではないか。

 

自分たちに似た姿の神が、自分たちを守ってくれるそんな心地よい物語は、宇宙の圧倒的な広さと、歴史の非情な事実を突きつけられたとき、その魔法を解かれてしまった。

 

対して生き残った「東洋の素朴な宗教(初期仏教や禅、道教など)」は、外側に救いを求めるのではなく、「自分の意識をどう変えるか」を追求するシステムだ。だからこそ、宇宙規模の変容を前にしても、その論理は折れなかった。

クラークは、科学の極限に「初期仏教的な悟り」を見ていたのではないかとの穿った見方もできる。

人類が幼年期を終えるということは、親に甘えるような信仰を卒業し、宇宙の冷徹な因果律の中に「個の消滅」という救いを見出すことだと言いたいのか。

『幼年期の終わり』は、「科学と仏教が最後に出会う場所」をSFならではの筆致で描いた、美しくも寂しい物語なのだ。つまりクラーク流の唯識解釈だ。

 

これはクラークという一人の天才が描いた「進化の形」だ。

私自身は、他者と共に生き、苦しみの中から救いを見出す「大乗仏教」の観音の優しさが、単なる「個の消滅」で終わるとは思っていない。

でも、たまにはこんな風に、人類の歴史を宇宙的なスケールで俯瞰し、「私」という執着を空っぽにしてみるのも、悪くない気がしている。

 

夜空を見上げるとき、まだ僕の世界観も「幼年期」の真っ只中にいるのかもしれない。