今朝の日経新聞に面白い記事が出ていた。

「OpenAIは『数学の成果横取り』 フィールズ賞教授が非難」

フィールズ賞受賞者25人が、AI企業による数学研究の進め方について警告を発したという。実際、テレンス・タオら25人は9月11日、AIが未解決問題を解くことを競争的なベンチマークにすることへの懸念を公表している。OpenAI自身も9月21日、数学者による独立の諮問グループを設けた。(What's new)

この記事を読みながら、昔の自分のブログを探してみた。

私はずいぶん前から、AIがどこまで賢くなっても、数学者そのものにはなれないのではないか、と考えていたらしい。

2019年にはこう書いている。

「創造行為そのものは学習できないだろう。ガロアの群論を発見できるか、相対性理論を発見できるか、無限の序列を考え出すことができるか。無理数や虚数を考え出せるか。無理だろうな。」

かなり断定している。

さらに2023年には、記事の題まで、

「AIは数学者にとってかわれない チューリングが既に証明済み」

としている。

私が念頭に置いていたのは、計算の速さではなかった。

四色問題のように、問題が与えられ、その中を猛烈な速度で調べることならコンピューターは人間を圧倒できる。

しかし数学史を大きく変えたのは、そんな能力だけではない。

五次方程式には一般的な解の公式がない。その問題からアーベルやガロアへ進み、ガロアは解の対称性を考えるために「群」という新しい概念を持ち込んだ。

私は2023年の記事で、ここまで書いている。

「こんなことはAIにはできない」

ところが、その直後に、

「ううん、これはわかったようなそうでないような、つまりすっきりと納得できない」

とも書いている。

自分で断定して、自分で首をかしげている。

今読むと、こちらの方が面白い。

さらに遡ると、2013年に高木貞治の『近世数学史談』を読んで、アーベルについてこんな文章を拾っている。

何かの拍子に鱗が落ちると、天才は突然千里眼になる。それは飽和した溶液が、ほんの小さな刺激によって一挙に結晶するようなものだという。

私はそこから岡潔やラマヌジャンまで連想している。数学の発見とは、既知の論理を順番に積み上げるだけのものではないのではないか、とずっと気になっていたらしい。

2019年には岡潔についても書いている。

「わからないものに関心を集めているときには既に、情的にはわかっている。発見というのは、その情的にわかっているものが知的にわかるということ」

また岡は、まず「でたらめ」をたくさん考え、その中から可能性を拾い、さらにその中から事実を見つけるという趣旨のことを語っている。私はこれをラマヌジャンの発見法にも似ていると考えていた。

問題はここである。

AIが証明を速くするだけなら、私の昔の考えはそれほど揺らがない。

しかしAIが「でたらめ」を大量に作り、その中からポシビリティを選び、別々だった数学を結びつけ、新しい補題を作り、最後に人間の知らなかった証明へ到達するならどうなのか。

これは岡潔が語った発見の過程と、本当にそんなに違うのだろうか。

さらに一歩進んで、AIが「群」に相当するような新しい概念まで作り出したらどうなるのか。

そこが私にはまだわからない。

OpenAIは9月8日、社内システムがナビエ・ストークスのミレニアム懸賞問題を解決したと発表した。さらに9月21日には、新しい内部モデルが数学の多くの分野で100を超える長年の未解決問題を解決したと公表している。もちろん、これはOpenAI自身の発表であり、一つ一つの成果について数学界による検証が必要だろう。(OpenAI)

しかし私にとってもっと気になるのは、AI企業の発表ではない。

フィールズ賞を取るような数学者たちが、AIを笑っていないことである。

「そんなものは数学ではない」と一蹴するのではなく、研究成果の帰属、数学者同士の知の共有、未発表の着想をAIに入力することの危険まで問題にし始めた。Natureも、AI時代には数学上のアイデアの出所をたどること自体が難しくなると報じている。(Nature)

できもしないものを相手に、これほど深刻な警告を出す必要はない。

もっとも、これだけでAIがアーベルやガロアになったと結論するのは早すぎる。

未解決問題を解くことと、新しい数学を作ることは同じではない。

新しい証明を発見することと、新しい概念を発明することも同じではない。

そしてチューリングの停止問題が消えたわけでもない。計算不可能なものが存在することは、AIがどれほど進歩しても変わらない。

ただし、ここで私は昔の自分の考えを一つ修正しなければならないように思う。

チューリングが示したのは、万能のアルゴリズムには限界があるということであって、

機械が新しい数学を一つも発見できない

ということではなかった。

私はその二つを少し近づけすぎて考えていたのかもしれない。

そしてもう一つ。

人間にもチューリングの壁は越えられない。

それでもアーベルもガロアも岡潔も数学を発見した。

ならばAIにも同じ壁があるという理由だけで、AIには数学的発見ができない、と断言することはできない。

2019年の私は、

「ガロアの群論を発見できるか。無理だろうな」

と書いた。

2026年の私は、少し言い方を変えたい。

本当に無理なのだろうか。

七年前の自分に、もう一度聞いてみたくなっている。

 

 

  • 青い水平線を見つめる少女

 

 

  • 春色の多肉植物と黄色い花

 

 

  • 鮮やかな水彩の花髪ポートレート

 

  • 青い花瓶と淡い花葉の水彩画

 

  • 春の緑に包まれた丘の家々

 

 

  • 黄金の光のフリージア

 

  • 青い花瓶の水仙

 

  • 金色の光に浮かぶ女性

 

  • 金色の光に佇む女性背面像

 

  • カラフルな道化師人形

 

  • 鮮やかな水彩の花髪ポートレート

 

  • うしろ姿の幼子 足を抱いて

 

  • 色鉛筆で描かれた安らかな昼寝姿

 

  • 子どもと子犬 青空の静かな時間

赤いベレー帽の少女と黄色いセーター​​​​​​​

 

 

NTTのとう道について長い間考えてきた。

僕の考えは昔から変わらない。

NTTからとう道を取り上げて国有化せよ、という話ではない。

道路下の通信空間そのものを、独立した公共資源として制度化すべきだ。

道路は国民のものである。

その地下にある通信空間も公共的に管理し、そこに敷設する光ファイバーや通信設備は事業者の資産とする。

僕の「とう道公用論」は最初からそういう話である。

ところが最近、イーロン・マスクのThe Boring Companyを見ていて、もう一段先があるのではないかと思い始めた。

これまでは、

既にある地下空間をどう公平に使うか

を考えていた。

しかし、もしトンネルを従来より速く、安く掘れるようになるなら、

地下空間そのものを増やす

という選択肢が出てくる。

The Boring CompanyのVegas Loopはすでに400万人以上を運び、14駅が稼働している。同社によれば、自治体から承認された全体計画は68マイル、123駅に及ぶ。(boringcompany.com)

僕が注目するのは、地下を走るテスラではない。

掘削機である。

EncoreとLas Vegas Convention Centerを結ぶ約2320フィートのトンネルは、現場へのアクセス開始から完成まで10週間未満だった。(boringcompany.com)

さらにPrufrockという掘削機は、巨大な発進立坑や到達立坑への依存を減らし、掘削しながら覆工を設置する方向へ進化している。

現在The Boring Companyが掲げている目標は、週1マイル、Loop用トンネルで1マイル500万ドル未満である。

これはまだ同社の目標値であって、どこでも実現した価格ではない。

実際、最初のLas Vegas Convention Center Loopは1.7マイルで約4700万ドルだった。(boringcompany.com)

それでも重要なのは方向である。

トンネルを巨大な一品生産の土木構造物から、

繰り返し造れる工業製品へ近づけようとしている。

しかも同社自身が、旅客輸送だけでなくUtility、Freight、Pedestrian、Bare tunnelなどの用途を掲げている。

2026年には内径12フィート、約3.7メートルのトンネルについて、交通以外にutility tunnelやwater tunnelまで利用案を募集している。(boringcompany.com)

ここで僕は、昔の真藤恒さんを思い出す。

電電公社時代、道路を掘って通信管路を敷設する工事では毎年犠牲者が出ていた。

真藤さん自身、1984年の国会で、道路の管路工事ではそれまで毎年十数人の犠牲者が出ていたが、

「工法を変えまして」

犠牲者を三分の一から四分の一に減らした、と述べている。

その後、道路を大きく掘り返さず、人が危険な地下へ入らなくても管路を敷設できるエースモールのような技術が実用化された。

昔は、

人が死ぬから機械で掘った。

次に、

道路を掘り返さないために地下から掘った。

そして今、

地下空間そのものを大量に造れるか

という段階へ来ているように僕には見える。

アメリカには「Dig Once」という考え方がある。

道路を一度掘るなら、その機会に通信管路なども一緒に整備してしまう。

しかし掘削そのものが安く速くなれば、

Dig OnceからBore Onceへ

進めるかもしれない。

道路工事を待たず、都市に必要な公共地下ルートを計画的に造る。

通信、電力などを収容し、将来のための空管路も残す。

空間は公共管理。

設備は事業者所有。

そうなれば、

「NTTのとう道に空きがありますか」

という問いから、

「この都市にはあと何本の公共地下ルートが必要ですか」

という問いへ変わる。

もちろん、ここで無視できないのが地盤への影響である。

しかし、これも「地下を掘るのは危険だからやめよう」という話ではない。

現代のトンネル工学では、地盤への影響をかなり数値化して管理している。

一つの指標が「volume loss(地盤損失率)」である。

米国連邦道路局のトンネル設計マニュアルでは、軟弱地盤を最新のシールド機で施工する場合、経験豊富な施工者なら地盤損失率0.5〜1.0%程度が一つの目安とされている。経験の少ない施工では1〜2%程度になるとしている。

ロンドンのCrossrailでも、Earth Pressure Balance型シールドによる過去の鉄道トンネルでは、地盤損失率は概ね**0.5〜1%**だった。

そこで重要構造物のある区間では、設計上さらに厳しく**0.5%**を目標にした。

実際のCrossrailのある区間では、測定された地盤損失率は0.1〜0.35%、二本のトンネルを掘った後の地表沈下は概ね3〜10ミリだった。

事前予測では最大20ミリ程度を想定していたので、実績はそれをかなり下回った。

もちろんロンドンの地盤条件を、そのまま東京に当てはめることはできない。

しかし、この数字が示していることは重要である。

トンネルによる地盤影響は「分からない危険」ではなく、設計値を置き、施工中に計測し、その数字を超えれば工法を修正する対象になっている。

ここを地下空間政策にも取り込めばいい。

たとえば公共地下トンネルなら、

地盤損失率を何%以下にするのか。

地表沈下を何ミリ以内に管理するのか。

既設地下鉄や上下水道との距離をどこまで取るのか。

地下水変動をどこまで許容するのか。

施工前から数値を決め、リアルタイムで計測する。

基準を超えれば速度を落とす、注入量を増やす、あるいは掘削を止める。

これなら「大丈夫だろう」という話ではない。

数字でリスクを管理しながら、メリットを取りに行く。

東京でラスベガスと同じ工事費になるとは考えていない。

地下鉄、上下水道、ガス、電力、通信設備が錯綜し、地下水もあり、地震もある。

当然、ラスベガスより高くなる区間は多いだろう。

しかし重要なのは、

何倍高くなるのか。
それでも共同溝や道路の再掘削を何十年間繰り返すより安いのか。

を計算することである。

ここは感覚論ではない。

地下空間の建設費だけでなく、

道路占用工事費、交通規制費、再舗装費、既設管路の補修費、災害復旧費まで30年、50年単位で比較すればよい。

もう一つ、気になる可能性がある。

コンクリートのトンネルとその周辺への裏込め注入は、局所的には周辺地盤より剛性の高い構造を地中につくる。

これを多数配置した場合、都市地盤全体にどんな影響が出るのか。

地盤強化につながるのか、逆に特定部分へ応力を集中させるのか。

これは現段階では結論を出せない。

したがって、

「トンネルを増やせば地盤が強くなる」

とは言わない。

ただし、公共地下空間を大規模に整備するなら、その効果も副作用も含めて研究対象にすればいい。

地盤改良とインフラ建設を別々に考える必要があるのかも検討する価値はある。

ここは期待ではなく、測定と実証で判断すべき領域である。

それでも僕は、地下空間をこれまでのような

「昔造った希少資産」

としてだけ考える時代は、いずれ変わるのではないかと思っている。

掘削速度が上がる。

機械の再利用回数が増える。

発進・到達設備が簡素になる。

無人化が進む。

そして地盤への影響をミリ単位で監視する。

この条件がそろえば、

地下空間は、必要に応じて追加できる社会資本になる。

真藤恒さんの時代には、人を危険な地下から追い出すために機械で掘った。

半世紀後、イーロン・マスクは、その掘削機をさらに工業製品へ近づけようとしている。

その先にあるのは、テスラが走る地下道だけではないかもしれない。

都市が自ら必要な地下空間を増やし、道路と同じ公共資源として管理する。

僕が見たいのは、こちらの未来である。

アンソロピックのダリオ・アモデイCEOが、AI開発の速度を落とすべきだと言い出した。

彼は、今後6カ月から12カ月ほどで、能力を高めたAIエージェントの集団が、持続的なボットネットを作り、インターネット全体に甚大な被害を与える恐れがある、と警告している。

アモデイは、キャッチーな言葉を吐いて世間を騒がせるタイプの経営者ではない。

それだけに僕には不気味に聞こえた。

数年前、AIの脅威が盛んに論じられたころ、僕も「これは核兵器と同じ問題になるのではないか」と思った。

ところが、その後のAIは面白かった。

文章を書かせ、調べものをさせ、小説を一緒に直し、画像まで作らせる。毎日のようにAIと遊んでいるうちに、かつて感じた恐ろしさは、いつの間にか遠くへ行ってしまった。

どうも、そう呑気に構えている時期ではなくなったらしい。

今回の話を聞いて、僕が最初に考えたのは銀行だった。

たとえば、ある朝、大手銀行のATMが突然止まったとする。

サイバー攻撃を受けたらしい。

これは大事件だが、まだ分かりやすい。止まったのだから、銀行も異常に気づく。

本当に怖いのはそんな攻撃ではない。

一年かけて、じわじわ入り込まれたらどうなるのか。

少しずつデータを汚す。少しずつ認証系に潜り込む。異常を正常な揺らぎに見せながら、長い時間をかけてシステムの中に居続ける。

一年後、ようやく異常が発見された。

では、どこまで遡れば正しいのか。

昨日の残高は信用できるのか。一カ月前はどうか。半年前なら大丈夫なのか。

「バックアップから戻せばいい」では済まない。バックアップそのものが汚染されているかもしれない。

ここで銀行の経営トップはCTOを呼ぶ。

「なんとかしろ」

CTOも困る。

名うてのハッカー上がりというわけではない。巨大なシステムの全貌を一人で理解しているわけでもない。

「システム運用は外部の大手IT企業に任せています」

そこで今度はIT企業が呼ばれる。

「どうなっているんだ」

IT企業は一次請けに聞く。一次請けは二次請けに聞く。その先へ、そのまた先へと問い合わせが降りていく。

そして奇妙なことが起きる。

一番下にいる技術者が、一番事情を知っている。

しかも、たいてい下流へ行くほど給料は安い。

これは日本産業が長い時間をかけて作ってきた仕組みでもある。

仕事を細分化し、専門家へ任せる。元請けがあり、下請けがあり、孫請けがある。

この多層構造が日本の高度成長を支えた面は否定できない。

実は今、僕の住んでいるマンションでも大規模修繕をやっている。

マンションの周囲には足場が組まれ、シートが張られ、毎日いろいろな職種の人が出入りしている。

元請けがいて、その下に下請けがいる。さらに防水、塗装、タイル、足場、設備など、それぞれ専門の会社が入っているだろう。孫請けもいるはずだ。

まさに多層構造である。

しかし、この大規模修繕を見ていると、この仕組みがなぜ長い間うまく機能してきたのかも分かる。

目で見えるのだ。

壁のひびが残っている。

タイルが浮いている。

塗装にムラがある。

シーリングが雑だ。

足場の組み方がおかしい。

工事が遅れている。

もちろん専門家にしか分からないことも多い。しかし、発注者も管理組合も、そして会社のトップも、完成したものをある程度は自分の目で確認できる。

社長が建築士でなくてもいい。

文系でもいい。

「ここはおかしいんじゃないか」

と言える。

そこで専門家を呼んで説明させればいい。

従来の産業では、この「最後は自分の目で見られる」という仕組みが、責任の多層化を支えてきたのではないか。

ところがコンピューターは違う。

銀行頭取がサーバーを眺めても、そこにAIが一年間潜伏しているかどうかなど分からない。

画面を見ても分からない。

帳票を見ても分からない。

数字がきれいに並んでいれば、むしろ正常に見える。

CTOですら分からないかもしれない。

つまり、これまでの企業社会には一つ暗黙の前提があったのではないか。

権限は上にあってもいい。知識は下にあっても、最後は上から成果を確認できる。

マンション修繕なら、それができる。

AIとサイバーの世界では、その前提が崩れる。

権限は上にある。

知識は下にある。

しかも上からは見えない。

これはかなり危ない。

僕は40年ほど前から大きな組織のシステムに関わってきたが、事故が起きたときのトップの行動は昔からあまり変わらない。

叱るのである。

「どうしてこんなことになった」
「早く直せ」
「責任者を呼べ」

しかし、分からないものをいくら叱っても分かるようにはならない。

福島第一原発事故のときの官邸を思い出す。

巨大事故の最中、トップには情報が十分に上がってこない。

現場にも全貌は分からない。

それでもトップは決断しなければならない。

焦る。

怒る。

「どうなっている」

と聞く。

しかし、聞かれた側も分からない。

AIサイバー危機では、これがもっとひどくなるかもしれない。

福島では、少なくとも原子炉はそこにあった。

温度も圧力もあった。

目の前に物理的な現場があった。

AIが一年潜伏した銀行システムでは、そもそも「どこが現場なのか」さえ分からない可能性がある。

では欧米はどうなのだろう。

もちろん欧米の経営者なら何でも分かる、などという話ではない。

だが、興味深い経営者がいる。

米銀JPMorgan Chaseのジェイミー・ダイモンである。

彼はプログラマーでもハッカーでもない。生粋の銀行経営者だ。

ところが、会社の重要問題について「専門家に任せました」で済ませることを極端に嫌う。

資料を自分で読み、問題があれば担当者本人に直接聞く。「責任を外へ出してうまくいった例をほとんど見たことがない」という趣旨のことまで株主書簡で書いている。

AIやサイバーについても、もはやIT部門だけの話として扱っていない。

銀行業そのものの問題として、自分の言葉で語る。

Microsoftのサティア・ナデラも面白い。

Microsoftが深刻なサイバーセキュリティー問題を起こしたあと、彼は単にセキュリティー責任者を叱ったのではない。

「セキュリティーと他の優先事項が衝突したら、セキュリティーを選べ」

と全社に指示した。

新機能の開発が遅れても構わない。

さらに幹部の評価や報酬にまでセキュリティーを組み込んだ。

トップが技術の細部を自分で直したのではない。

会社の優先順位そのものを変えたのである。

GMのメアリー・バーラも、取締役会レベルでサイバー攻撃への演習を行っている。

攻撃された後に専門家を集めるのではない。

攻撃される前に、トップ自身が「何が起きるか」を経験しておく。

欧米にも外注はある。

巨大ベンダーもある。

失敗もある。

だから「欧米は優秀で日本は駄目」という話ではない。

僕が興味を持つのは、強いCEOの一つの共通点である。

自分が専門家でなくても、会社の生死にかかわる問題を「知らないから担当者に任せる」で終わらせない。

日本では昔から、

「詳細は事務方に説明させます」

という言葉がよく使われる。

僕がいたある会社では、これを逆さにした冗談があった。

「詳細は社長に説明させます」

当時は笑い話だった。

しかしAI時代には、こちらの方が正しいのかもしれない。

もちろん、社長がプログラムを書けという話ではない。

サイバー攻撃のコードを読めという話でもない。

自分の会社の生命線は何か。

どのシステムが止まれば会社が止まるのか。

どのデータが信用できなくなれば商売が成立しなくなるのか。

それを本当に知っている人間は社内のどこにいるのか。

そこまではトップ自身が理解していなければならない。

「私は専門家ではありません」
「CTOに任せています」
「システム会社に任せています」

では済まなくなる。

仕事は外部に任せてもいい。

専門家に任せるからこそ産業は成長した。

マンション修繕を見ていても、それはよく分かる。

専門家が分業するからこそ、あれだけ大きな工事が進んでいく。

問題は分業ではない。

見えないものまで、見えないまま任せてしまうことである。

そして何より、知識を持っている人間が組織の最下流にいて、権限も報酬も小さいという構造を、このまま放置してよいのか。

AIの脅威を考えていたら、結局ここへ来てしまった。

サイバーセキュリティーの問題ではない。

企業統治の問題なのである。

「知らない人をトップにしてはいけない」と言うと少し乱暴かもしれない。

もっと正確にはこうだろう。

知らないことを、部下に預けたままにする人をトップにしてはいけない。

AI時代のトップに必要なのは、何でも知っていることではない。

会社を滅ぼしかねない問題について、

自分が説明できるところまで理解しようとすること。

マンションの壁なら、最後は自分の目で見られる。

AIは見えない。

だからこそ、トップが見ようとしなければならない。

あの昔の冗談が、どうも冗談ではなくなってきた。

「詳細は社長に説明させます」

そんな時代が、本当に来たのかもしれない。

昨日は9月11日だった。

米国時間では、今日が9月11日になる。

2001年9月11日の同時多発テロから、ちょうど25年が経った。

25年か。

ずいぶん昔のことになったが、あの日の映像はいまでも鮮明に覚えている。

そして不思議なことに、僕が9.11を思い出すとき、ニューヨークと一緒に浮かんでくるのが、日本橋箱崎のソフトバンクのオフィスだ。

当時、僕はYahoo! BBの立ち上げの真っただ中にいた。

申し込みは殺到していた。ところが開通が追いつかない。

NTT局舎の工事、MDF、顧客データ、二重申し込み、解約、問い合わせ。ひとつ片づけると、別のところから問題が出てくる。

大量の派遣社員にも来てもらった。一時は本社2階を人が埋め尽くした。

徹夜組が夜食をとるための大きな炊飯器まであった。

壁際には電気配線が走り、大勢の人が端末に向かい、電話が鳴っている。

まるで災害対策本部のようだった。

そんな最中、仮設社長室のすぐ前で机を並べていた僕に、孫さんから声が届いた。

「宮本さん、ちょっときて」

仮設社長室に入ると、テレビにニューヨークが映っていた。

世界貿易センタービルに飛行機が突っ込んでいた。

最初は事故かと思った。

ところが、見ている前でもう一機が突っ込んだ。

そして、あの巨大なビルが崩れていった。

世界貿易センタービルについては、もう一つ妙な記憶がある。

30年前、ニューヨークへ出張したときのことだ。

仕事を終えて日本へ帰る日、空港へ向かうためにタクシーに乗った。

何と言ったのか、もう覚えていない。

空港へ行くつもりだったことだけは間違いない。

ところがタクシーが着いたのは、世界貿易センタービルだった。

なぜ空港が世界貿易センターになったのか。

僕の英語が悪かったのか、運転手が聞き違えたのか。30年たった今でも謎のままだ。

その場で訂正して、そこからあらためて空港へ向かった。

当時は、ちょっとした行き違いにすぎなかった。

まさか後になって、テレビの画面の中で、あの建物が崩れ落ちるのを見ることになるとは思いもしなかった。

昔のブログを読み返してみると、こんなことを書いている。

「この頃の記憶はいつも貿易センタービルの崩壊の映像とともに蘇る」

25年たった今でも、本当にそうだ。

孫さんは画面を見ながら言った。

「世界は戦争になるぞ。われわれもうかうかしておれない」

その言葉どおり、世界は戦争になった。

アフガニスタン、そしてイラク。

しかし25年後から振り返ると、あの日から始まった変化はそれだけではなかった。

米国がテロとの戦争に膨大な力を注いでいたころ、中国は急速に力をつけていった。

象徴的なのは、中国がWTOに加盟したのが9.11からわずか3カ月後だったことだ。

米国が戦争へ向かう一方で、中国は世界経済の中へ深く入っていった。

そして25年後の今、僕たちが見ているのは、米国一極の時代とはずいぶん違う世界だ。

もちろん、9.11が中国を大国にしたわけではない。

ただ、中国が急速に台頭した時期と、米国が長い対テロ戦争に力を注いだ時期が重なったことは、今から見ると実に大きい。

あの日、仮設社長室のテレビを見ながら、そんな25年後の世界まで想像した人はいなかったと思う。

ただ、人間の記憶というのは不思議なものだ。

ニューヨークの煙。

崩れていく二本のビル。

箱崎の雑然とした2階。

徹夜組のための大きな炊飯器。

30年前、間違えて連れていかれた世界貿易センタービル。

そして、

「宮本さん、ちょっときて」

あの声から25年が経った。

世界は戦争になった。

そして、その戦争をしている間に、世界の力の形まで変わっていた。

僕にとって9.11は、そんな25年を連れて、今も箱崎のあの仮設社長室から蘇ってくる。

かつて電力会社は通信事業に参入した。

東京電力、中部電力、関西電力をはじめ、各地域の電力会社は送電線沿いに光ファイバーを持っていた。その資産を使えば通信事業でも戦える、と考えたのは自然だった。

しかし、結果は必ずしも華々しいものではなかった。

パワードコムはKDDIに吸収され、東京電力のFTTH事業もKDDIへ移った。地域で健闘した電力系通信会社はあるものの、全国規模でNTTやKDDI、ソフトバンクと競争するのは容易ではなかった。

あのころは、電力会社が「通信会社の土俵」に入ってきたのである。

ところがAI時代には、この関係が逆転するかもしれない。

いまデータセンター建設で最大の問題になり始めているのは、土地でも光ファイバーでもない。

電力である。

米国では巨大データセンターの建設によって、発電所、送電線、変電設備への巨額投資が必要になり、その費用を一般家庭の電気料金に転嫁するな、という政治問題にまで発展した。2026年7月には米下院エネルギー・商業委員会が、データセンターなどの巨大需要家に追加的な発電・送電・配電設備の費用を負担させる方向の法案を全会一致で可決している。

乱暴に言えば、

「データセンターを建てるのは構わない。しかし電力は自分で用意してくれ」

ということである。

これはAI産業の構造を変える。

私はNTTにいたころ、大阪の堂島電電ビルで巨大な非常用電源設備を見た。航空機のファントムを思わせるほどの巨大なエンジンだったことを今でも覚えている。

電電公社にとって、電源は通信の付帯設備ではなかった。

停電しても電話を止めない。そのためには受電設備、蓄電池、非常用発電機、空調、燃料、保守要員まで必要だった。

ADSLの時代、私は競争事業者の側にいた。

NTT局舎に装置を置こうとすると、通信回線だけ確保すれば済むわけではない。ラックを置き、電力を引き、空調を確保する。電力一つを増設するにもずいぶん苦労した記憶がある。

だから私は思う。

夢々、「たかがファシリティー技術」と軽く見るなかれ。

KDDIもソフトバンクも、もちろん長年にわたり非常電源やデータセンター設備に大きな努力をしてきた。しかし、電電公社以来、全国の通信局舎を絶対に止めないために積み上げてきたNTTの電源・空調・建物・保守技術には、歴史の厚みがある。

そして、その古い技術がAI時代になって突然、表舞台に出てきた。

これから重要になるのは、単に「100ギガ出ます」「低遅延です」という通信速度ではない。

その通信速度を24時間365日保証できる電力があるか。

ここで水素が効いてくる。

平常時は系統電力を使い、ピーク時には蓄電池や水素を使う。非常時には自立運転する。さらに将来、SMR(小型モジュール炉)が実用段階に入れば、データセンターと電源を一体で設計する時代が来るかもしれない。

そして、もう一方から電力会社がやって来る。

昔のように「光ファイバーを持っているから電話やインターネットを売ろう」という話ではない。

今度は、

「ここなら300メガワット出せます」
「この変電所には余裕があります」
「この地域なら増設できます」

と言える者が、データセンターの立地そのものを決める。

実際、日本ではすでに「ワット・ビット連携」という考え方が政策になり、東京電力PG、中部電力PGなどが、電力需給の状況に応じてAIの計算処理を地域間で移動させる実証を始めている。総務省も2026年度に分散データセンターとワークロードシフトの実証を採択している。

これは非常に面白い。

昔は、電気をデータセンターまで運んだ。

これからは、光ファイバーを使って計算そのものを電気のある場所へ運ぶのである。

NTTは通信側から電力へ向かう。

電力会社は電力側から通信・データセンターへ向かう。

両者がぶつかる場所がAIデータセンターだ。

かつて電力会社の通信参入は、それほど大きな地殻変動を起こさなかった。

しかし今回は違うのではないか。

AI時代には、通信速度を保証するのは通信技術だけではない。

光の速さを、最後に保証するのは電力なのである。

豊穣

 

豊穣の珊瑚は
骨になっても
なお豊穣である。

 

海を失い、
色を失い、
魚たちの影を失っても、

白い骨には
潮の通った跡があり、

無数の穴には
かつての水が
まだ暗く残っている。

 

柔らかなものは消え、
動くものは去った。

 

それでも
骨は崩れながら
なお枝をひろげている。

 

海の底で
生きていたときよりも、

いまの方が
その形は
よく見える。

 

豊穣の珊瑚は
骨になっても
なお豊穣である。

 

NTTドコモ、KDDI、ソフトバンク。

日本の携帯三社に、少し先の未来を考えてもらいたい。

私はAppleの新CEO、ジョン・ターナス氏の記事を読んでいて、少し背筋が寒くなった。

ターナス氏はティム・クック氏とは違う。Appleで長くハードウェア開発を率いてきた機械工学出身のエンジニアである。

AI時代のiPhoneを、Siriが少し賢くなる程度で終わらせるだろうか。

私はそうは思わない。

もっと先まで行く。

端末そのものがLCRになる。

昔、電話料金が自由化された頃、LCRという機械があった。

かける相手や時間帯によって、どの電話会社を使うのが一番安いかを機械が判断し、自動的に回線を選んだ。

あれがAIによって、とてつもなく高度になってiPhoneやAndroidの中に入る、と考えればいい。

携帯網、Wi-Fi、衛星。
やがて複数のeSIM。

端末が、その瞬間の料金、速度、遅延、混雑、安全性、場所を見て、自分で最適なネットワークを選ぶ。

利用者は「今日はソフトバンクにつながっている」「今はドコモを使っている」などと考えもしない。

今はまだ限定的な機能である。

しかし方向は見える。

AppleとAndroidが通信会社を選ぶ

もしAppleとGoogleが本気でこの方向へ進んだらどうなるか。

世界中の通信会社は、AppleとAndroidという二つの巨大な端末OSの下に並ぶことになる。

恐ろしいのは、通信会社がなくなることではない。

基地局も光ファイバーも必要である。
莫大な設備投資も必要である。
保守する人間も必要である。

それなのに、

顧客との関係だけが消える。

端末を買った人はAppleの顧客であり、Googleの顧客になる。

通信会社は、その裏側で電波を供給する存在になる。

どこの通信会社を使っているかなど、利用者には見えなくなる。

これは単なる「土管化」より怖い。

土管であることさえ利用者から見えなくなるからだ。

ソフトバンクは、かつて同じことをNTTにやった

この構図には、私は妙な既視感がある。

Yahoo! BBである。

ソフトバンクは日本全国に加入者線を新しく敷いたわけではない。

NTTの銅線を使った。
NTTの局舎に入り、MDFを開放させ、コロケーションし、その上でADSLサービスを提供した。

物理網を持つ者が、必ずしも顧客を握るわけではない。

ソフトバンク自身が、それを証明した。

ところがAI時代には、立場が逆転する可能性がある。

AppleやGoogleが、ソフトバンク、ドコモ、KDDIの電波を使いながら、その上の顧客を取る。

今度はソフトバンク自身が、あの時のNTTになるのである。

もちろんドコモもKDDIも同じだ。

通信主権で、いつまで守れるか

「そんなことを国が許すはずがない」

という反論は当然ある。

周波数は国家が管理している。
通信には安全保障がある。
本人確認も緊急通信もユニバーサルサービスもある。

当面は「通信主権」が防波堤になるだろう。

しかし私は、かつての日米通商摩擦を知っている。

NTT調達、日本独自の技術仕様、携帯電話、相互接続。

日本には日本なりの事情があり、それぞれにもっともらしい理由があった。

しかし米国側から見れば、それはしばしば市場参入障壁だった。

歴史は繰り返す。

将来AppleやGoogleが、

「なぜ利用者の端末が最適な通信網を自由に選んではいけないのか」

と言い出した時、日本はいつまで国内通信会社を制度で囲っておけるだろう。

私は難しいと思う。

通信主権は残る。

しかし、通信主権を国内通信会社の既得権を守るために使うことは、いずれ難しくなる。

ところがNTTにはIOWNがある

三社がまったく同じ条件にいるわけではない。

NTTには、さらに下がある。

とう道。
管路。
電柱。
局舎。
光ファイバー。

そしてIOWNである。

もし携帯電話の顧客接点をAppleやGoogleに取られたとしても、NTTはその下にある光インフラへ重心を移すことができる。

ドコモという携帯電話会社の姿が変わっても、NTTグループはAI社会の基礎インフラ事業者として生き残れる可能性がある。

私はむしろ、そこに次の問題を見る。

日本中のAIが依存する光基盤を、NTT一社が事実上支配する構造になっては困る。

だから今、「光の道」を見直す

ここで、かつての「光の道」に戻る。

ただし同じ議論を繰り返すのではない。

当時の「光の道」は、光ブロードバンドを全国に普及させることが大きな目的だった。

今の日本は、すでに別の段階にいる。

問うべきなのは、

光を敷くかどうかではない。
AI時代の光基盤を誰が支配するのか。

私は「光の道」ではなく、

「光の道路」

という考え方が必要ではないかと思う。

道路の上をトヨタ車も日産車も外国車も走る。

しかし道路そのものを一自動車メーカーが支配することはない。

通信も同じでよい。

光ファイバー、ルーター、IOWN装置、AIサービスは各社が競争すればいい。

設備は競争財産である。

しかし、とう道、管路、電柱など通信設備を通す基礎的な空間と、その利用権は公共的に管理する。

道路は公共財産である。

さらにIOWN時代には、APNを含む光ネットワークについて、波長レベルまで含めた公平な相互接続条件をあらかじめ考えておく。

私はこれを「光の道路・公用論」と呼びたい。

三社に問いたい

NTTドコモ、KDDI、ソフトバンクの三社に問いたい。

5年後、10年後も、

「何千万契約を持つ携帯電話会社です」

と言っていられるだろうか。

端末がLCRになり、AppleとAndroidがネットワークを選び、顧客との関係まで握った時、通信会社とは何をする会社なのか。

ソフトバンクは、かつてNTTに仕掛けた革命を、今度はAppleやGoogleから仕掛けられるかもしれない。

KDDIも例外ではない。

NTTにはIOWNという生き残りの武器がある。

しかし、日本中のAIが依存する次世代光基盤を、NTT一社が事実上支配する構造にしてはならない。

だからこれは三社だけの経営問題ではない。

日本の通信政策の問題である。

通信主権で現在の業態を守れる間に、次の制度を作らなければならない。

AppleとAndroidが世界の通信会社を席巻してからでは遅い。

かつて「光の道」を議論した日本は、今度はAI時代の「光の道路」を議論すべき時に来ている。

端末がLCRになる日は、思っているほど遠くない。

 

JR東日本が家族向け社宅を原則廃止するという記事を読んだ。

吉祥寺駅や十条駅周辺など首都圏各地にある社宅を整理し、2032年3月期までに首都圏の物件を売却して1500億円の売却益を見込むという。首都圏だけで社宅用地は8万5000平方メートルあるというから、改めて鉄道会社というのは大変な土地持ちなのだと思う。

しかし私がこの記事を読んで最初に思い出したのは、不動産の値段ではなかった。

電電公社の社宅である。

私は1974年から1983年ごろまで、世田谷区中町の電電公社社宅に住んでいた。12棟もの4階建ての建物が並ぶかなり広い社宅だった。敷地には子供の滑り台や砂場があり、ソフトボールができるほどの広場があり、家庭菜園まであった。八百屋もあった。

今なら、よくこんな土地の使い方をしていたものだと思う。

しかし当時はそんなことを考えもしなかった。

私は4階に住んでいたので、娘が日暮れまで滑り台で遊んでいてもベランダから見ることができた。毎朝、生ごみを肥料にするため菜園へ持っていき、茄子や胡瓜を作った。

「そら豆の芽がでてきましたね」

隣の菜園の人とそんな話をした。

以前このブログにも書いたが、社宅の人間関係は良かった。電電公社は巨大な組織だったので、隣に住む人がどこの職場で、どんな役職なのか知らないことも珍しくなかった。世間で想像するような会社の上下関係を社宅まで引きずっている感じは、私の記憶にはほとんどない。

むしろ子供が同じ年頃だということの方が重要だった。

急用があれば子供を預け合った。泊めてもらうこともあった。

ある日、

「雨が降ってきましたよ」

とベランダから声がした。

隣の本田さんだった。こちらが留守なら洗濯物まで取り込んでくれた。

大阪へ転勤する日の朝には、朝食まで作ってくれた。

鯵の開きと金平ごぼうだった。

四十年以上たった今も、なぜかその味を覚えている。

ところが、この社宅はもうない。十年ほど前に近くへ行ってみたが、周囲はすっかり様変わりし、かつての場所にたどり着くことさえ難しかった。

今回のJR東日本の記事を読んで、あれは電電公社だけの話ではなかったのだと改めて気づいた。

国鉄も電電公社も、そして製鉄、電力、銀行など昭和の大企業も、大量の社宅や独身寮を持っていた。

会社は社員の働く場所だけを提供していたのではない。

家まで用意した。

転勤を命じれば、家族も一緒に動く。そのためには転勤先に住むところが必要である。民間の賃貸住宅が現在ほど豊富でなかった時代には、社宅は福利厚生であると同時に、全国組織を動かすための人事インフラでもあった。

その社宅が今、急速に役割を終えつつある。

総務省の住宅・土地統計調査を見ると、会社や官公庁などが社員・職員に提供する「給与住宅」は、1993年には全国で約205万戸あった。それが2023年には約130万戸になっている。30年間でおよそ75万戸減ったことになる。住宅全体が増えている中での減少だから、社宅という住み方そのものが小さくなったことが分かる。

JR東日本の動きは、その流れのかなり象徴的なものだ。

同社は現在、住宅等手当を新設し、社員が会社所有の住宅に住む仕組みから、それぞれの暮らし方を支援する方向へ福利厚生を組み替えている。カフェテリアプラン、住宅ローン支援、資産形成支援など、「会社が家を用意する」方式から「本人が選ぶ」方式への転換である。

一方、空いた土地には別の価値が生まれた。

JR東日本は不動産事業を「成長のエンジン」と位置づけている。2026年にはJR東日本不動産と伊藤忠都市開発を統合する契約を結び、新会社では今後5年間で売上高2500億円規模を目指すとしている。駅の近くに大量の土地を持つ鉄道会社にとって、かつて社員を住ませていた土地が、今では巨大な経営資源になった。

これはNTTもよく似ている。

NTT都市開発は電電公社民営化の翌年、1986年に設立された。現在では連結売上高2408億円の不動産会社になっている。もちろん、この売上が社宅跡地から生まれているという意味ではない。しかし電電公社・NTTが長年保有してきた土地や建物が、不動産事業という別の価値を生むようになった象徴ではある。

そして2026年になった今も、その風景は実際に続いている。

千葉県船橋市では、NTT東日本社宅跡地に124戸のマンション「ウエリス船橋北習志野」が建った。仙台でもNTT社宅跡地を使った107戸のマンション「ウエリス仙台長町南」が売り出されている。仙台の物件では、かつての社宅跡地の「ゆとりある広さ」そのものが商品の特徴として説明されている。

なんとも面白い。

昔なら、

「社員とその家族を住ませるため、広い土地を確保して社宅を建てよう」

だった。

今なら、

「駅から近いこんな広い土地を、なぜ社宅だけに使っているのか」

となる。

土地は同じである。

変わったのは、土地を見る目である。

もっと言えば、会社と社員の関係が変わった。

昭和の会社は、今から考えるとずいぶん社員の人生を抱え込んでいた。会社に入り、社宅に入り、子供が社宅の広場で遊び、転勤すれば別の社宅へ移る。保養所も病院も運動場も会社が持っていた。

便利だったのか、窮屈だったのか。

おそらく両方だったのだろう。

ちなみにNTTでは現在も社宅・寮制度そのものは残っている。しかし福利厚生全体はカフェテリアプラン方式で、持家取得支援などと並ぶ選択肢の一つになっている。電電公社時代とは位置づけがまるで違う。

だからJR東日本の1500億円という数字を見て、私は企業として間違った判断だとはまったく思わない。

むしろ合理的である。

吉祥寺や十条など首都圏の好立地に広い土地を保有しているなら、それを有効活用するのは当然だろう。

それでも、数字だけでは測れないものが一つ残る。

私が暮らした世田谷中町の社宅も、現在の不動産の物差しで見れば、相当にもったいない土地の使い方だったのかもしれない。

12棟の建物の間に広場を取り、滑り台を置き、ソフトボール場をつくり、さらに家庭菜園まで設ける。

経済効率はよろしくない。

しかし、その非効率な空間で娘たちは遊び、茄子が育ち、隣人が洗濯物を取り込み、転勤の日には朝食を作ってくれた。私自身の昔の記事を読み返してみても、建物より、そうした細かな場面ばかりが残っている。

いま企業の帳簿に載せれば、社宅跡地には何百億、何千億円という値段がつく。

それもまた現実である。

しかし私の中町社宅の値段を尋ねられたら、どうも答えようがない。

最後に残っているのは、不動産価格ではない。

大阪へ転勤する朝に隣人が作ってくれた、鯵の開きと金平ごぼうの味なのである。

AI時代は、成長から社会最適へ。

AIをめぐる空気が、少し変わってきた。
これまでは「AIを導入した」「生成AIを使い始めた」「業務時間が何割減った」という話そのものが評価された。だが、企業の経営者や投資家が次に聞くのは、もっと単純なことだ。
「それで、いくら利益が増えたのか」
医療は、その問いが最も厳しく突きつけられている分野の一つだろう。診断支援、画像解析、カルテの要約、問診、薬剤開発。AIの能力を示す事例はいくらでもある。しかしAIが正しい答えを出せることと、病院の経営が改善することは同じではない。医師による確認が必要になり、既存システムとの接続が必要になり、責任の所在を決めなければならず、医療制度そのものにも合わせなければならない。
AIは働いている。しかし利益になっているのか。
この問いがようやく始まったのだと思う。
ただ、ここにはもう一つ重要な問題がある。
仮にAI導入によって企業の利益が大きく増えたとしても、その効果は永遠には続かない。一社だけがAIを使って仕事を半分の時間で済ませれば、その会社には競争優位が生まれる。しかし競争相手も同じAIを使い始めれば、その差は消える。生産性向上によって生まれた利益の一部は価格競争によって消費者へ移り、やがてAIを使うこと自体が特別ではなくなる。
インターネットもスマートフォンもそうだった。「使えば儲かる」のではなく、「使わなければ競争に参加できない」ものになった。AIもおそらくそこへ向かっている。
そうなると、問いはさらに変わる。
どの会社がAIで勝つか、ではない。
社会全体がAIを使うようになったとき、社会として本当に得をしているのか。
全企業がAIを使い、全病院がAIを使い、行政も学校も研究所もAIを使う。その結果、一人ひとりの仕事は速くなるかもしれない。しかし、その裏側で巨大なデータセンターが増え、GPUが増え、電力消費が増え、水が使われ、通信量が増え続けるとしたらどうだろう。社会全体で見れば、AI同士が競争するために莫大な資源を投入しているだけ、ということさえ起こり得る。
ここで必要になるのが、これまでSDGsと呼んできたものに近い思想だ。ただ、SDGsという言葉には少し疲労感が出てきた。理念が間違っているのではない。目標が広がりすぎ、何を変えるための言葉なのかが見えにくくなった。
AI時代には、もっと単純な言葉で考えてみたい。
AI時代は、成長から社会最適へ。
企業がどれだけAIを使ったかではない。社会全体として、同じ成果をどれだけ少ない電力、少ない計算量、少ない設備、少ない人間の負担で実現できるか。
巨大AIを何にでも使う必要はない。簡単な仕事には小さなモデルを使えばいい。何も起きていないときには計算しない。電力が余っている場所や時間へ計算を移す。一カ所に巨大なデータセンターを集中させず、地域の計算資源を使う。通信網を経由して、空いている計算能力を必要な場所へ振り分ける。
AIの能力を競うだけでなく、計算そのものを社会全体で最適化するのである。
ここで、私は通信の歴史を思い出す。
問題の出発点は光ファイバーではない。とう道という地下空間である。
道路の下に広がるとう道は、通信事業を支える極めて希少な基盤だ。そこを一つの事業者が事実上独占し、他の事業者が容易に使えない状態を、これからも当然のものとしてよいのだろうか。
私は、社会的要請がすでにそこを変え始めていると思う。社会全体の活動に不可欠で、代替が難しい基盤については、「所有しているから自由に囲い込める」という論理だけでは済まなくなっている。所有そのものを否定するのではない。誰が、どんな条件で利用できるかという公共的なルールが必要になる。
とう道空間は、その典型だ。
そして昨日、海底ケーブルについて考えていて、同じ問題が海の底にもあることに気づいた。
海底ケーブルは民間企業が巨額の資金を投じ、敷設し、保守している。企業努力がなければ成り立たない。しかし社会がそこまで海底ケーブルに依存するようになった以上、すべてを企業努力だけに寄りかからせてよいのだろうか。
ここで一つ考えられることがある。
新しい海底ケーブルを一本敷くなら、自社需要ぎりぎりの容量ではなく、将来の他社利用まで見込んだ十分な余力容量を最初から持たせる。その追加コストの一部を政府が負担する。そして、公費によって確保された余力については、一社の囲い込みではなく、一定の条件で他社も利用できるようにする。
ケーブルを国有化する必要はない。
民間が造り、民間が運営する。しかし将来の社会需要のための余力を、公共が先に買っておくのである。
これは、海底線をいきなり「公道」にする話ではない。だが、将来の公道化へ向かう一歩にはなる。
とう道でも同じだった。今日の一社の需要だけで地下空間を考えるのではなく、将来、別の事業者も使える空間を社会として確保しておく。海底でも、同じ考え方ができるのではないか。
ただし、海底線にはとう道にはない難問がある。
地政学だ。
公道化とは、世界中の誰にでも無条件で開放することではない。国家の基幹通信を支える設備である以上、誰に容量を提供するのか、誰が陸揚げ局や保守に関与できるのかには境界がある。
中国を含む地政学的な競争相手にまで同じ条件で開放するのか。それは「公平な競争」という言葉だけでは決められない。通信の生命線を誰と共有するかという、国家の選択になる。
私はここでは、経済安全保障という少し広い言葉より、地政学と呼んだ方が本質に近いと思う。
公道化にも、地政学上の境界がある。
これは矛盾ではない。国内では一社の独占を開き、社会全体で利用できるようにする。一方、国家間では信頼できる国、事業者との間でその公共性を形成する。開くことと守ることを同時に考えなければならない。
そして、この問題はさらに先へ進む。
とう道空間を公用する。
海底線に公共余力を持たせる。
データセンターをつなぐ。
そして計算能力をつなぐ。
ここで問われているのは、設備をどれだけ増やすかではない。社会を支える希少な基盤を、一社の囲い込みのままにするのか、それとも公共的なルールを入れて社会全体でより有効に使うのか、という問題である。
その目的は、単にAIをもっと巨大にすることではない。
社会全体として無駄な計算を減らし、必要なところへ必要な計算能力を届けることだ。
ここまで来れば、AI政策も少し違って見えてくる。
GPUを何枚確保したか。データセンターを何カ所造ったか。AIモデルの性能が世界で何位か。それだけでは足りない。
本当に見るべきなのは、一単位の社会的成果を生み出すために、どれだけの計算資源と電力を使ったかではないだろうか。
AIによって医師一人が診られる患者数が増えた。行政手続きの時間が短くなった。物流の空車が減った。発電設備の余力を有効に使えるようになった。研究開発の試行錯誤が減った。そうした成果を、より少ない資源で実現する。
そこまで行って初めて、AIは企業間競争の道具から、社会の生産性を本当に高める基盤になる。
成長そのものを否定する必要はない。しかしAI時代には、計算能力を無限に増やすことだけを成長と呼ぶ時代から、そろそろ卒業した方がいい。
どれだけ大きくするかではなく、どれだけ賢く使うか。
どれだけ持つかではなく、どれだけ無駄なく回すか。
そして、社会の生命線になった基盤を誰がどの条件で使えるのかを、企業だけに決めさせない。
AI時代は、成長から社会最適へ。
この言葉は、思っていたより大きなところまでつながっていきそうだ。