衆院選:各党は「安全保障のコスト」をどう語っているか(資料ベース)

駅前で見た「戦争絶対反対」のビラが、ニュースの論調と二重写しになった。
この違和感を“選挙”に降ろすなら、争点は実は単純だ。

平和を願うことと、平和を維持するコストをどう分担するかは別問題である。

そこで、各党の公約・政策文書をそのまま手がかりに、違いを整理してみる。「お前はどこを支持するんだ」それはここでは語りませんが自然に浮かび上がります。笑

自由民主党(与党:自民・維新連立)

公約の軸は「わが国を守る責任」「新たな時代に対応した防衛体制の構築」といった言葉で、日米同盟を基軸にFOIP(自由で開かれたインド太平洋)を推進し、サイバー等も含む複合的危機への対応を掲げている。(自民党)
防衛の強化そのものは前提だが、国民に見える形での「負担の配分(増税か、歳出組替か)」は、文書上はやや読み取りにくい(=政治的に争点化しにくい形で置いている)。

日本維新の会(与党:自民・維新連立)

報道ベースでも政策文書ベースでも、防衛力強化に前のめりな姿勢が目立つ。たとえば「反撃目的の長距離ミサイル」等、より踏み込んだ打ち出しが紹介されている。(FNNプライムオンライン)
→ アクセル役としての位置づけがはっきりしている一方で、これも結局はコストの議論(何を削り、何を優先するか)に接続しないと「掛け声」になる。

中道改革連合(旧・立憲+公明系の新党)

「現実的な外交・防衛政策」を柱として掲げ、パンフレットでも章立てとして明示している。(中道改革連合 | 生活者ファースト)
→ 理想の平和だけでなく“現実的”を言葉としては採用している。ただ、どこまで具体的に踏み込むか(防衛費の水準・反撃能力の扱い・抑止の設計)については、文書を読んでも争点を尖らせない書きぶりになりやすい。これは「分断回避」には効くが、「危機対応の設計図」にはなりにくい。

日本共産党

2026総選挙の政策アピールでは、現政権(自民・維新連立)への対決姿勢を明確にし、「外交の力」や「アメリカ言いなりをやめる」といった方向を打ち出している。(日本共産党)
抑止のコストよりも、外交・路線転換の強調が中心。理念的一貫性は強いが、危機が顕在化した局面での止め方の説明は薄く見える人も多いはずだ。

れいわ新選組

「戦争ビジネスには加担しない」を明確に掲げ、対米関係のあり方にも強い言葉を使う。(れいわ新選組 衆院選2026 #比例はれいわ)
→ コストの議論を「軍拡」ではなく「生活・内需・財政」で組み替える発想が前面。ただし安全保障を“経済”に寄せて語るほど、軍事危機の即応設計(抑止の技術論)が空白になりやすい。

国民民主党

「自分の国は自分で守る」「総合安全保障」「専守防衛の堅持」など、比較的現実寄りの言葉で体系化している。(新・国民民主党 - つくろう、新しい答え。)
→ ただし、このページ自体は更新時期がやや前で、今回総選挙用の最新版の公約PDFとしては別に確認が必要。

参政党

選挙公約PDFが公開されており、報道でも「自律的な防衛」「対等な日米同盟」等の方向が紹介されている。(Nikkei Parts)
→ 強い言葉で自立を語る一方、具体の運用設計(同盟の再定義、装備・人員・財源)まで落とし込めるかが問われる。


結局どこが「空白」なのか

各党の違いはある。だが、駅前のビラとメディアが二重写しになる最大の理由は、ここだ。

 

平和を守るコスト(財政・産業・人員・覚悟)を、誰がどう負担するのか
を、正面から語る政党がまだ少ない。

 

そして、ここにだけは、トランプ的な言葉が刺さる。
「いいカッコ」ではなく、「誰が払うのか」を言ってしまうからだ。

 

※各党の評価は、各党が公開する公約・政策パンフ(PDF/公式サイト)と、主要メディアの争点整理記事に基づく(2026/2/1時点)。

(今回使った根拠は上の引用元に全部あります)

 

トッド氏の本を読んで以来気になっている「グローバリズム」「反グローバリスト」今日ふと中国問題だなと腑に落ちた。保育所や幼稚園ではどんな教え方をしているのかな。いやそんなことは教えていないだろう。

でも僕は「グローバリズム」賛成と長い間刷り込まれてきたような気がする。だから反グローバリストとの呼び方はすでに価値逸脱者の響きを持って受け取れりなあと。

 

だが「反グローバリスト」=中国脅威論者という言葉を補うと俄然意味は僕にとって明確になる。

 

 

甘美な言葉ほど、立ち止まって考えたくなる

「グローバリズム」という言葉は、耳ざわりがいい。
国境を越え、対立を減らし、世界が一つになる。
そこには希望や進歩、理性の匂いがある。

同じ種類の言葉に、「リベラル」や「普遍主義」がある。
自由、人権、多様性。
どれも反対しにくい。むしろ反対すれば、どこか後ろめたい。

だが私は、これらの言葉を聞くたびに、
小さな違和感を覚えるようになった。


「反グローバル=反普遍」という奇妙な刷り込み

グローバリズムに疑問を口にすると、
なぜかすぐにこう受け取られる。

排外主義ではないか。
リベラルに反するのではないか。
人類共通の価値を否定するのか。

だが冷静に考えれば、これはおかしい。

グローバリズムは、
経済や制度、国際秩序の一つの選択肢にすぎない。
普遍主義は、人権や倫理に関わる理念だ。

両者は本来、別の次元の話である。
それなのに、いつの間にか
「反グローバル=反普遍」という等式が出来上がっている。

これは自然に生まれたのだろうか。


背景にある、中国という存在

この等式を理解するには、中国の存在を外せない。

中国はもはや、
「いずれ西洋型民主主義に収斂する後進国」
ではない。

経済規模、技術力、教育水準。
どれを取っても、世界の中枢にいる。
しかも、中国は西洋の掲げる「普遍的価値」を採用していない。

この事実は、西洋にとって厄介だ。

「自由民主主義と市場経済は普遍であり、
最終的に全ての国がそこへ向かう」
という物語が、成り立たなくなってしまうからだ。

だが、もはや中国を露骨に「脅威だ」とも言えない。
そこで使われるのが、
「グローバル」「ルールベース」「普遍」という
美しく、反対しにくい言葉である。


メディアは黒幕なのか

では、こうした刷り込みをしているのは誰か。
メディアなのか。

答えは単純ではない。

メディアは、複雑な構造を長く説明できない。
その結果、

グローバル vs ナショナル
リベラル vs 反動
善 vs 悪

という分かりやすい対立に落とし込む。

悪意というより、構造的な単純化だ。
だがその積み重ねが、
「疑問を持つこと自体が危険」
という空気を作っていく。


地球温暖化も、同じ構造にある

この構図は、地球温暖化の議論にも見られる。

温暖化そのものは、実在する物理現象だ。
ここは否定できない。

だが問題は、
科学的な不確実性や政策選択の幅が消え、
「唯一の正義」として語られる瞬間にある。

 

最大排出国の中国が有利に働く規制なのだが反論しにくい。

 

疑問を挟むと、
「地球を壊す人」
「非科学的な人」
と見なされる。

ここでもまた、
問題そのものより語られ方が思考を止めてしまう。


違和感を持つことの意味

こうした言葉の使われ方に、
「何かおかしい」と感じる感覚は、
特別な思想ではない。

むしろ健全だ。

価値を否定するのではなく、
価値を守るために制度や言葉を疑う
それは破壊ではなく、点検である。

甘美な言葉ほど、
誰のために、何を隠して使われているのか。
一度、立ち止まって考えてみる。

それだけでいい。


言葉が思考を止め始めたら

「リベラル」「グローバル」「地球のため」。
どれも本来は大切な言葉だ。

だが、
それを疑うことが許されなくなった瞬間、
言葉は価値ではなく、装置になる。

違和感を覚えたなら、
その感覚を無理に打ち消す必要はない。

考えることは、反対することではない。
問い直すことは、敵対ではない。

言葉があまりに美しいときほど、
中身を確かめる勇気を持ちたい。

今日は、そんなことを考えていた。

急がない人のための覚え書き

AGI時代と、大審問官のその先で

最近、「AIはどこまで賢くなったか」という話題をよく目にする。
モデルの世代が上がった、推論が速くなった、精度が上がった。
けれど、ある人の言葉が妙に残った。

 

「自分より賢い人が二人いたとして、その差を一般人が見分けることはできませんよ」

なるほど、と思った。
将棋の段位でも、数学者でも、AIでも同じだ。
一定の水準を超えると、差は“見えなくなる”。

それは同時に、こんな含意を持つ。

 

人類は、AGIの本当の脅威を論じることなど、できないのではないか。

確かにそうかもしれない。
自分より賢い存在の内部構造や限界を、外側から正確に理解することはできない。
それは認知の限界だ。

だが、だからといって沈黙してよいわけではない。
論じられるものが、別の場所にあるからだ。

それは「賢さ」ではなく、速度である。

 

ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』には、三人の兄弟が登場する。
理解しすぎるイワン、衝動の塊のドミトリー、そして静かなアリョーシャ。

AI時代の比喩として読むなら、
イワンは極限まで拡張された知性、
ドミトリーは非合理で身体的な人間性、
アリョーシャは理解しないまま引き受ける存在だ。

 

AGIはイワンを完成させる。
社会はドミトリーを制御しようとする。
そのとき、真っ先に不要とされるのがアリョーシャである。

なぜなら彼は、急がないからだ。

説明しない。
結論を急がない。
正しさを掲げない。

それは非効率で、評価しづらく、制度に落とし込めない。
だが、誰かが壊れたとき、
正しい判断が出たのに心が折れたとき、
最後に必要とされるのは、たいていこの位置にいる人だ。

「それでも、君は一人じゃない」

理由を言わず、隣に立つだけの人。

 

この「急がない」という態度は、優しさではない。
抵抗だ。

AGIは即答する。
社会は即断する。
世論は即座に裁きを下す。

世界が速く、正しく、閉じていくとき、
あえて立ち止まること。
判断の前に、椅子を一つ置くこと。

それは中央には立たず、
しかし周縁にも退かない、
決断の“前室”のような場所だ。

 

ウィリアム・オブ・バスカヴィルが、アドソに残した言葉がある。

異端の残酷さは性急すぎることだ

真理は、急ぐ者には姿を見せない。

『薔薇の名前』の最後で失われたのは、図書館であり、書物であり、体系だった。
だが、ウィリアムが守ろうとしたのは、
世界を単純化しすぎない速度だったのだと思う。

 

AGIの時代に問われているのは、
AIがどこまで賢くなるかではない。

人間が、
それでも急がずにいられるかどうか。

間違う自由を、
説明しない沈黙を、
結論の前の一呼吸を、
まだ引き受ける気があるのか。

 

世界を救うのは、真理を持つ者ではない。
「まだ分からない」と言える者だ。

そしてたぶん、
最後まで人間でいられるのは、
その一言を、急がずに口にできる人なのだと思う。

 

 

 

 

テック帝国と国家の距離感について

上記の新聞を読んでいて、ふと懐かしい名前を思い出した。
AT&T。

今の若い人には、ほとんど伝説の企業だろう。
だが私の世代にとっては、通信そのものだった。

電話も、回線も、研究も、端末も、料金も。
すべてがAT&Tだった時代があった。

 

1984年、アメリカ政府はそのAT&Tを解体した。
理由は単純で、「巨大すぎる」というものだった。

あのとき私は思った。
通信は、もはや単なるビジネスではないのだと。

国家の神経網は、最後は国家が握る。
必ず。しかも遅れ気味に。

 

最近読んだ記事が、その記憶を呼び起こした。

巨大テックは傲慢だ。
市民は我慢の限界だ。
いずれ政治は介入する。

そんな論調だった。

なるほど、言いたいことはよくわかる。
だが同時に、時代はもう単純ではないとも感じた。

 

AT&Tの時代は、国内市場の話だった。
今は中国がいる。
技術は安全保障そのものになった。

独占が悪なのではない。
負けることが悪なのだ。

 

だから今の巨大テックは、
もはや「企業」というより「国家装置」に近い。

潰せばいい、分割すればいい、という話にはならない。

 

かつてAT&T解体の立役者となったのは、グリーン判事だった。
通信の専門家ではない。法律家だ。
だが通信が国家の神経であることを直感的に理解していた。

 

いま必要なのは、
AIを理解するグリーン判事の後継者だろう。

AGIを理解し、
アルゴリズムを読み、
国家と技術の距離を設計できるテクノクラート。

 

ただ問題がある。

麻生元首相が昔こう言っていた。

「テクノクラートは選挙に弱いんだよ」

これが、実に正しい。

 

政治は人気商売だ。
技術は地味な裏方だ。
難しい話は嫌われる。

だから政治はいつも技術に遅れる。
国家はいつも後追いになる。

それでも最後は必ず介入する。
必ず。しかも遅れ気味に。

歴史が何度も証明してきた。

 

正直に言えば、私は次の衆院解散選挙に少しだけ期待している。

テックを叩く人ではなく、
テックを理解する人が、
SNSで叫ぶ人ではなく、
静かに設計できる人が、
大量に出てきてほしい。

 

AIも通信も半導体も、
もう専門家の世界の話ではない。
国家の形そのものの話になった。

かつて通信の時代を生きた人間として思う。
次の時代を担うのは、
テクノクラートの感覚を持った政治家であってほしい。

 

もちろん、選挙は人気商売だ。
専門家は不利だ。
地味な人は目立たない。

それでもどこかで、
「そろそろ本気で考えないとまずいよね」
という空気が広がってほしい。

 

AT&Tが解体されたのは、
アメリカがまだ余裕のある時代だった。

今はもう、余裕はない。

だからこそ、
国家の神経をわかっている人間に、
もう一度、前に出てきてほしいと思っている。

NSAで見た「世界の神経」と、ウクライナから始まった転換点

振り返ると、すべての発端は、通信の意味が変わったことにあった。

 

かつて通信会社とは、電話線を引き、インターネットをつなぎ、データを運ぶ存在だった。NTTも、各国の通信事業者も、社会インフラの裏方であり、戦争や安全保障とは一線を画した存在だと、誰もが思っていた。

 

だが二〇二〇年代の終わり頃から、その前提が静かに崩れ始めた。

通信はもはや「便利な道具」ではなく、国家の神経そのものになった。
情報を運ぶことは、意思決定を運ぶことであり、軍事行動を運ぶことであり、国家の生死を左右する血流になった。

 

NTTと競合、そして世界の通信各社の意義が変わった瞬間だった。

私がその現実を実感したのは、ずっと以前、1996年にワシントン郊外にあるNSA(アメリカ国家安全保障局)を訪問したときのことだった。

 

フォート・ミードの敷地にある巨大な施設。
空港のような厳重なセキュリティを抜け、地下へと案内され、そこで見せられたのは、世界中の通信を束ねる巨大な管制室だった。

 

壁一面に広がるモニター。
海底ケーブルの系統図。
衛星通信の中継網。
インターネット基幹ルーターの流量解析。
暗号鍵の更新状況。

 

そこで説明されたのは、驚くべき事実だった。

NSAは国家安全保障局だが世界の通信制御装置の根幹を、常時監視している組織なのだ、と。

通信は止めず、流れを変えず、ただ「構造として把握する」。
どこで分岐し、どこで増幅され、どこで滞留し、どこで異常が起きるか。
それをリアルタイムで監視している。そんな組織は日本にはない。

 

私はそのとき、直感的に思った。

これは戦争の装置だ、と。

兵器よりも、艦隊よりも、核ミサイルよりも、はるかに強い力がここにある。
世界の神経を握るということは、世界の意思決定を握るということだ。

 

そのときはまだ、核抑止の時代だった。
核は最終兵器であり、撃てば世界が終わるという恐怖の象徴だった。

だが、その構図が完全にひっくり返る転換点が訪れる。

それが、ロシアのウクライナ侵攻だった。

 

あの戦争は、戦車や砲撃の映像以上に、「核」という言葉を現実の戦場に引き戻した戦争だった。ロシアはたびたび核の使用を示唆し、戦術核、地域限定核という言葉がメディアを飛び交った。

だが世界は、そこで冷静に計算を始めた。

 

仮にロシアが、たとえ「限定的に」核を使用したとしても、それは決して局地戦には終わらない。EUとアメリカは報復を避けられず、NATOは抑止の信頼性を失えない。結果としてロシアは一発撃っただけで、複数の核で撃ち返される。

それはすでに「戦争」ではなく、国家の存続を賭けた賭博だった。

 

当時はまだ、「甚大な被害の上に成り立つ均衡」が前提だった。都市は焼かれ、何千万人が死に、それでも国家は残る――そういう想定の上に核抑止は成り立っていた。

だが、その前提は静かに崩れ始めていた。

 

二〇二〇年代後半から三〇年代にかけて、軍事の本質は兵器から通信へと移っていく。

極超音速兵器は迎撃が困難になり、発射から着弾までの時間は縮まり、人間の判断は間に合わなくなった。そこで各国は理解する。

 

戦争はもはや「撃った後の被害」を競うものではない。「撃つ前の兆候」を奪い合う戦争に変質したのだ。

核ミサイルは単独で飛ばない。発射指令通信、認証通信、暗号同期、衛星リンク、姿勢制御、気象補正、それらすべてが揃って初めて発射が成立する。核とは本質的に通信兵器だった。

 

やがて準天候衛星帯が地球を覆い、成層圏には常時滞空する観測プラットフォームが並び、発射準備の物理兆候はほぼ完全に捕捉されるようになる。地下サイロの扉の開閉、燃料加圧の振動、通信経路の切替、暗号更新頻度の変化。国家が発射準備に入るとき、必ず「呼吸」が変わる。

通信とAIは、その呼吸を聴き取る。

 

そして決定的だったのは、NTTのIOWNにより世界の通信遅延による時間差が消えたことだ。そしてAGIの判断が人間の判断時間を塗り替えたことだ。

 

かつて核戦争には、発射から着弾までの「数十分」が存在した。だが二〇五〇年代以降、その猶予は事実上消滅した。発射状態に入った瞬間に兆候は捕捉され、発射と同時に迎撃と無力化が起動する。

 

発射ボタンはもはや「決断」ではなく、システムへの入力イベントにすぎなくなった。

発射された瞬間に、迎撃は始まり、指揮系統は遮断され、通信は沈黙し、軍事機能は消滅する。都市が焼かれる前に、国家が盲目になる。

 

核を撃つという行為は、戦争ではなく国家自殺になった。

この構造が完成したとき、すべての核保有国は同じ結論に到達した。

核はもはや抑止力ではない。


それは最終自滅装置である。

発射権限とは命令ではなく、自殺宣言である。
核のボタンを押せるのは、もはや狂人だけになった。

こうして核は役目を終えた。

 

核兵器は条約で消えたのではない。理想で消えたのでもない。人類が善くなったからでもない。役に立たなくなったから消えた。

発射サイロは封鎖され、司令部は博物館になり、弾頭は解体され、核燃料は研究炉へと転用された。人類は初めて、自ら作った終末装置を自らの手で終わらせた。

 

この世界の教科書には、こう記されている。

「核戦争は起きなかったのではない。
起きる前に、物理的に不可能になったのである」

抑止とは恐怖ではない。
抑止とは、撃てない構造を作ることである。

 

そして歴史家たちは、核の終わりの起点として必ず同じ戦争を挙げる。

「核の終わりは、ウクライナから始まった」

通信とAIが時間差を消し、戦争を設計で封じたとき、人類はひとつの時代を終えた。

 

それはどこかで、アーサー・C・クラークの『幼年期の終わり』を連想させる。
人類は賢くなったのではない。
自らを縛る構造を作ったのだ。

 

『幼年期の終わり』のオーバーロードがあたかもAGIに変わったような世界だ。こうして戦争は終わった。
爆発ではなく、設計によって。

そして文明は、次の章に入った。

僕は今日の海底線関連ニュースを見て、一編の近未来小説のプロットを思いついた。同時に20年前にバリでシンガポール経由の海底線切断事故でネットが使えなくなり、株式取引ができなくなりパニックになったことも思い出した。

 

 

それは未来の話ではあるが、空想というよりは、すでに始まっている現実の延長線上にある物語だ。

バルト海で相次いだ海底ケーブルの切断。
台湾沖で起きた国際通信線の断線事故。
いずれも「事故」と発表されながら、現場の音響データには作業音が残っていたという。

ニュースは淡々と伝える。
「原因は調査中」
「通信は復旧」
「影響は限定的」

だが、僕の頭の中では別の言葉に翻訳される。

――これは戦争の予行演習だ。

ミサイルも撃たれない。
爆撃機も飛ばない。
戦車も動かない。

だが一本のケーブルが切れるだけで、都市は沈黙する。
金融が止まり、物流が滞り、病院のAIが沈黙し、行政システムが麻痺する。

21世紀の文明は、海の底にぶら下がっている。


 

物語の舞台は2070年の太平洋。
日本列島のはるか南方、日本海溝の縁に沿って敷設された超長距離海底線群。
それはもはや単なる通信ケーブルではない。

電力を通し、データを流し、
同時に海底センサー網として機能する「文明インフラそのもの」だ。

かつて宇宙空間を監視衛星が巡回していたように、
今や海底にも巡回体がいる。

直径六メートルの球体パトロールロボット。
深海用耐圧セラミックで覆われ、
無音推進で水流に溶け込むように移動する。

彼らは人間ではない。
だが、国家よりも早く侵入者に気づく。

かつては切られてから騒ぎになった。
今は触れた瞬間に分かる。

海底線に近づく未登録潜水体は、
数分以内に水球編隊に包囲される。

推進音、磁場、圧力変化、
すべてが照合され、製造ラインまで特定される。

「国籍不明」は、もはや言い訳にならない。


 

この物語の主人公は、海域自衛隊の技術士官だ。

かつて海上自衛隊と呼ばれていた組織は、
今では「海域自衛隊」と名を変えている。

守るのは領海ではない。
守るのは公海でもない。

守るのは文明防衛圏だ。

海底ケーブル、深海資源プラント、洋上原子炉、
SMR発電島、AIデータセンター、量子中継基地。

それらを包む広大な海域こそが、
日本の生命線になっている。

日本は軍事国家ではない。
だが、深海インフラ国家である。

世界最大級の排他的経済水域。
世界有数の海底ケーブル交差点。
深海掘削技術。
耐圧素材。
水中ロボット工学。
音響工学。
精密電力制御。

それらを束ねて構築されたのが
「海底給電網」だった。

海底線の被膜には多層カーボン複合材が使われ、
その内部に誘導給電コイルと圧電発電層が組み込まれている。

水流が流れるたびに発電され、
外部からの無線給電で常時電力が補充される。

海底ドローンは、ケーブルの上を通過するだけで給電される。
停泊も回収も不要。
事実上、無限稼働が可能になった。

海底には電力道路が敷かれたのだ。

このインフラを守るために、
人類は初めて「深海防衛圏」という概念を作った。


 

物語は、ある夜のスクランブルから始まる。

日本海溝西縁。
深度三千二百メートル。

海底線直上を低速で移動する未登録潜水体。
作業アームを展開し、切断準備に入る。

だがその瞬間、
海底線被膜に埋め込まれたセンサーが異常振動を検知する。

水球編隊が起動し、
海底迎撃ドローンが進路を塞ぐ。

相手は逃げない。
だが進めない。

にらみ合いは十分続き、
やがて潜水体は進路を変える。

 

破壊は起きない。
爆発もない。
死者も出ない。

だがこの事件は、国際監視網に即時共有され、
外交ルートに非公式で通知される。

誰が送り込んだかは、すでに分かっている。
推進音の指紋は消せない。

この世界では、
「やったかどうか」より
「できるかどうか」が抑止力になる。


 

だが物語は単なる軍事サスペンスでは終わらない。

この海底給電網は、
軍事だけでなくエネルギーインフラの中核にもなっている。

2070年の世界では、エネルギーは通貨だ。
電力は価値そのものだ。

SMR、洋上炉、海流発電、深海地熱。
それらが海底送電網で結ばれ、
世界中の都市に供給されている。

東京も、シンガポールも、ムンバイも、
ロンドンも、ロサンゼルスも、
すべて同じ電力市場に接続されている。

一本のケーブルは、
一つの都市の生命線であると同時に、
世界経済の動脈でもある。

だからこそ狙われる。

そして守られる。


 

この小説の核心は、
「戦争はもう始まっているが、誰も戦争と呼ばない世界」だ。

人々は普通に暮らしている。
スマートフォンで買い物をし、
AIと会話し、自動運転で移動し、
クラウド医療を受ける。

だがそのすべては、
海の底に敷かれた数万キロの線の上に成り立っている。

誰もそのことを意識しない。
だが一度切れれば、すべてが止まる。

それが2070年の文明だ。


この物語の最後に、主人公はこう呟く。

「かつて人類は、空を制した国が世界を制すると言った。
次に宇宙を制した国が世界を制すると言った。
だが今は違う。
海の下を制した国が、文明を守る」

そして彼は、静かにモニターを見る。

そこには今日も、
青白い光の列が深海を巡回している。

星のない宇宙のような海の底で。


 

今日のニュースは、
この物語の第一章に過ぎない。

バルト海の断線も、台湾沖の事故も、
すべてはプロローグだ。

本当の物語は、
もう始まっている。

バリにいると、世界史はときどき音もなく近づいてくる。

ニュースの画面ではなく、
書類でもなく、
データでもなく、
隣の部屋の生活音として。

 

三年前、バリの安宿で『カラマーゾフの兄弟』を読んでいた。
午後の光が斜めに差し込み、壁の色を少しだけ濃くする時間帯だった。
エアコンはときどき止まり、湿った風が部屋に戻ってくる。

 

隣の部屋にはロシア人の一家が滞在していた。
夫婦と、まだ小学生くらいの男の子がひとり。
夜になると、ロシア語の短い会話と、シャワーの音と、子どもの笑い声が壁越しに聞こえてきた。

 

私はその音を聞きながら、イワン・カラマーゾフの告発を読んでいた。
子どもが殴られ、凍え、犬に噛み殺される話。
神に向かって世界を返却すると宣言する男の長い独白。

本の中では子どもが殺され、
壁の向こうでは子どもが歯磨きを嫌がって叱られている。

 

世界は同時に存在していた。

ある日、テラスでノートパソコンを開いていると、隣の部屋の奥さんがバナナを持って現れた。

「これ、食べてください」

人懐っこい人で、私が何をしているのかが気になるらしい。
画面を覗き込み、「何をお書きになっているの?」と尋ねる。

 

ウブドの舞踏に興味があって、毎日のように見に行っていること。
ガムランの音が頭から離れないこと。
そんな話をしながら、写真やメモの画面を次々と遷移させていくと、
たまたま開いたフォルダの中に『カラマーゾフの兄弟』のロシア語の表紙がちらりと映った。

 

キリル文字の硬い輪郭。

彼女は一瞬、動きを止めた。

「あれ……?」

と言う顔をした。

「ドストエフスキー?」

私はうなずいた。

 

「生まれは、セントペテルブルグなんです」

英語の中に、ロシア語の発音が混じる。
ネヴァ川の街。
ドストエフスキーの街。

 

彼女は戦争のことを語らなかった。
徴兵のことも、政治のことも口にしなかった。

ただ、自分がどこから来たのかだけを言った。

 

その夜、宿はなぜか騒がしかった。
見知らぬロシア人が何人も訪ねてきて、声をひそめて奥の部屋へ消えていく。
夫は急にバイクで出かけていった。

 

ロシアとウクライナの情勢が変わったのだろうか。
あるいは徴兵忌避の摘発でも始まったのか。
そんな想像が頭をよぎったが、確かなことは何ひとつわからない。

聞くわけにもいかない。

 

その夜、子どもが大声で泣いていた。
引っ越しの準備で、おもちゃを片づけるようにきつく言われたらしい。
スーツケースのファスナーの音がして、床に何かを落とす音がした。

私はベッドに腰を下ろし、本を閉じたままその音を聞いていた。

世界史は、こういう形で個人の生活に入り込んでくるのだと思った。
新聞の見出しではなく、
泣き声として。

 

その夜、十年前に滞在したサヌールのビラを思い出した。
屋上にリクライニングデッキを置き、『カラマーゾフの兄弟』を五回読んだ家。
そこにはウクライナ人の一家も滞在していた。

 

美しい夫人と、少し陰気な十五歳の息子。
ある日、屋上に出ると、彼は屋根に登り、ビラの中継Wi-Fiアンテナを勝手に動かしていた。
自分の部屋の方向へ、正確に向け直していた。

誰もそんなことはしない。
というより、できる人間がいない。

細い体で、慣れた動きだった。

 

なぜ彼らが当時バリにいたのか、詳しい事情は知らない。
東ティモールの治安の噂と、遠い国の不穏な影。
私は深くは聞かなかったし、彼らも語らなかった。

そして十年後、
ウクライナはロシアに侵攻され、戦争の只中にある。あの少年はいま、どこにいるのだろう。

 

翌朝、ロシア人の一家は宿を出ていった。
スーツケースは三つ。
少年は小さなスーツケースを引きずり、先に外へ出た。

母親は「よい旅を」と言い、
私は「よい読書を」と返された。

 

車は静かに走り去り、砂埃が少し舞った。

ロビーにはいつもの南国の朝が戻ってきた。
観光客の笑い声。
バイクのエンジン音。
フルーツの甘い匂い。

ロシアの冬も、ウクライナの戦争も、
ここでは何事もなかったかのように消えている。

 

私は部屋に戻り、テラスの椅子に腰を下ろし、
また『カラマーゾフの兄弟』を開いた。

イワンはなおも世界を告発していた。
だが世界は今日も返却されず、
静かに持ち越されていく。

 

世界史のとんがった時代の端に、
私はたまたま居合わせただけなのだろう。

だが、その端は、
確かにここに触れていた。

ハエトリグサという植物がいる。
ハエなどの小さな虫が葉の上にとまると、あの貝殻のような蓋がパタンと閉じて、虫を閉じ込め、粘液で溶かして栄養にしてしまう。

 

この仕組みが、実に不思議でよくできている。

蓋の内側にはヒゲのような突起があり、虫がそれに触れる。
しかし一度触れただけでは蓋は閉じない。
20秒以内にもう一度触れると、その瞬間に蓋が閉じる。

 

なぜ二回なのか。

最近の研究で、ヒゲに触れる刺激によってカルシウムイオンが細胞内に流れ込み、それが一定の値に達すると「閉じろ」というスイッチが入ることがわかってきた。
一回目の刺激では足りず、二回目で閾値を超えたとき、初めて蓋が閉じる命令が発動する。

つまりハエトリグサは、
「これは本当に獲物か?」
を二段階で確認しているのである。

風や雨やゴミに反応して無駄に閉じてしまわないための、きわめて合理的な仕組みだ。

ただし、カルシウムイオンと蓋の開閉はまだ関係だけでメカはわかっていない。


学者はこれを「偶然の進化」と説明する。
無数の変異の中で、たまたまこの仕組みが生き残り、洗練されてきたのだと。

だが、この精巧さを見ると、どうしても首をかしげたくなる。

「竜巻がスクラップ工場を通り過ぎたら、フォードの自動車が完成していた」
という有名な皮肉があるが、生命の進化もそれに近い奇跡の連続に見える。

誰も設計していないのに、
誰も意図していないのに、
無限に近い試行錯誤の中から、ハエトリグサの蓋は出来上がった。

そして今、ここにいる私もまた、その延長線上にある。


偶然という名の必然。
必然という名の偶然。

その背後で、すべての現象を編み上げている何かがあるとすれば、
それは「縁起」と呼ぶしかないのかもしれない。

無数の因と縁が絡み合い、
ひとつの形を生み、
また次の形へと流れていく。

その果てしない連鎖を、仏教は「輪廻」と呼んだ。

もしかすると「私」という存在とは、
この輪廻の流れを、ふと立ち止まって眺めている視点なのかもしれない。

ハエトリグサの蓋が閉じる瞬間に、
宇宙の仕掛けが一瞬だけ透けて見えるように。

正直に言うと、
私は数学には人生から早々に退場してもらった。

一部の技術者や先生、科学者以外の勤め人なら大抵そうだろう。

 

それでも、なぜか心に残っている人がいる。

レオンハルト・オイラー。
18世紀のスイス生まれの学者だ。

彼のeとiとπと1だけの数式だけは美しいなと思う。まるで啓示だ。

 

この人、人生の後半で完全に目が見えなくなる。
59歳のとき。

普通ならここで静養だろう。
「もう十分やったでしょう」と周囲も言うはずだ。

ところが彼は、
そこからが本番だった。

 

オイラーの晩年の生活は、とても静かだ。

朝起きると、
誰とも話さず、ひとりで考える。

紙も読めない。
文字も書けない。

けれど頭の中では、
彼だけの世界が動き続けている。

 

夕方になると、奥さんがベルを鳴らす。

チリン。

これが一日の区切り。

弟子たちがやってきて、
オイラーはその日一日で考えたことを語る。

それを誰かが書き留める。

 

そしてもう一度ベルが鳴る。

チリン。

夕食の時間。

毎日、これの繰り返しだったという。

 

面白いのは、
目が見えなくなってからのほうが、仕事が増えていることだ。

生涯で800本以上の論文を書いた人だが、
その半分近くは晩年のものだという。

 

本人はこう言っている。

「今は何ものにも邪魔されず、考えることに集中できる」

目が見えなくなって、
かえって世界が静かになったのだろう。

 

この話を読んでいると、
少し不思議な気分になる。

私たちはつい、
「見えること」が世界だと思っている。

けれどオイラーは、
見えなくなってからも、
ちゃんと世界を生きていた。

むしろ前よりも深く。

 

仏教に「林住期」という言葉がある。

人生の後半、
俗世から少し距離を取り、
静かに自分と向き合う時間のことだそうだ。

 

オイラーは西洋にいながら、
そんな時間を生きていたように見える。

数学という森に入り、
毎日、ただ考える人として。

 

数学の話をしているつもりはない。

ただ、
人はどこまで静かに生きられるのか。
世界はどこにあるのか。

そんなことを考えさせられる、
ひとりの老人の後ろ姿の話である。

 

 

MetaがOKLOのSMRに先行予約して1.2GWつまりSMR100セットを契約したという。あくまで予約だが。これには仰天した。まだまだ先の話かなと思っていたのだが2030年を目途の予約だという。

 

最近、防衛の話題でレールガンがよく出てくる。

未来兵器だ、電磁砲だ、という話になると、どうしてもロマンの世界に引っ張られる。

 

けれど、私が気になっているのは安全保障の切り札になり得る兵器もそうだがその裏側にある 電力の話 だ。重要なのは、AIを動かすエネルギー源、国防を握る電力をどの国が握るのか、という一点である。

 

AIは電気を食べる怪物だ、AIというとGPU保有量だとかソフトウェアの話に聞こえるが、実態はまるで違う。AIとは要するに、電気を食べて、知能に変換する装置だ。

 

最新のAIデータセンターは、ひとつで数百メガワットからギガワット級の電力を消費する。これはもう一つの都市だ。原発一基分の電力を、24時間365日、止めずに食べ続ける。日本は現在13基だとか。2024年世界で500テラワット、2030年で1500テラワットくらいが予測されている。5倍!これがAIの正体だ。

 

だから世界の巨人たちは発電所に向かった、ここに来て、世界のテック企業の動きが一斉に同じ方向を向き始めた。

   •   Microsoftは原子力と組む

   •   MetaはSMR(小型原子炉)と組む

   •   Amazonも原子力に踏み込む

 

なぜか。

 

送電網がもう限界だからだ。

再エネだけでは足りないからだ。

都市にこれ以上電力を運べないからだ。

 

結論は単純で、

 

発電所を近場に持つ保有する会社がAIを制するという世界に入ったということである。これは環境問題もあるがむしろ国家の主権の話だ。

 

これからは「AI電力国家」の時代、かつては石油を持つ国が強かった。次は金融を握る国が強かった。これからは違う。

 

AIを動かす電力を持つ国が強い。これを「AI電力国家」と呼びたい。

 

この国家に必要なのは、

   •   発電能力

   •   送電網

   •   データセンター

   •   通信網

 

を一体で持つことだ。

 

電力と通信と計算資源が一体になった国家。

これが次の国家モデルになる。

 

日本は実は条件が揃っている。しかし国や企業の対応は鈍い。

 

日本は不利な国だと思われがちだが、この分野では意外と条件が揃っている。

   •   全国に張り巡らされた光ネットワーク

   •   IOWN構想という次世代通信網

   •   離島国家という地理

   •   原子力技術

   •   電力電子や超電導技術

という国家通信インフラを持っている。

 

ここに

   •   僻地・離島のAIデータセンター

   •   自家発電(原子力・SMR)

   •   分散配置

 

を組み合わせれば、日本独自のAI国家モデルが描ける。

 

東京一極集中ではなく、

全国に分散した「計算の国」。

 

これは安全保障にも直結する。

 

レールガンはその「結果」にすぎない、レールガンは確かにすごい。

 

レールガンを動かせる国というのは、それだけの電力を自在に扱える国ということの証明にすぎない。

 

つまりレールガンは、「うちはこれだけの電力インフラを持っています」という技術の名刺のようなものだ。国防の主役はあくまで電力であり、AIであるとも言える時代になった。

 

戦争も経済も、最後はワット数で決まる、これからの時代、

   •   戦争はミサイルの数で決まらない

   •   経済は通貨の量で決まらない、電力は通貨だとイーロンマスクは述べている。

   •   国家の力はGDPだけでは測れない

 

最後にものを言うのは、どれだけの電力を、どれだけ安定して使えるかである。

 

AIは止められない。止まった瞬間に国家は止まる。だからこそ、AIを動かす電力を国家としてどう確保するか、これが最大の国家戦略になる。

 

世界は、「知能を発電する国」が勝つ。日本はまだ間に合う。むしろ、島国をいけせるかなり良い位置にいる。

 

あとは、国が腹をくくれるかどうか。それだけの話だ。

 

MetaのSMR先行予約にもっと政府も企業も驚いて欲しい。原子力も国防もタッチーな話題として避けがちだがSMRは原子力=危険の概念を覆す世紀の開発だ。日本政府も研究部会を立ち上げるなど進めて欲しい。高市さんならやってくれるかな。