故人のことを色々思い出していたら


突然二十数年前に亡くなった親父のことを思い出した


私は遅い子(親父が46歳のときに生まれた)だったので


孫の顔が見られるとは思っていなかったといっていた


私の上の子供が1歳目前に思い病気にかかり、生死の狭間をさまよっていたときに


こちらが心配するほど、ずっと付き添っていてくれた


親父は、へら鮒釣りが大好きだった(鮎の友釣りも好きだったが、70歳を過ぎた頃にやめた)


82歳の冬に、釣り場で倒れたが、一過性の脳虚血だったらしく、その後も釣りに出かけていた


5月の終わりに母から電話があり、歯が痛いとか、風邪がなおらないなどといっているが、病院へは行かない


あなたの言うことならきくので来て欲しいというので在所へ出かけた


「待たなくて良いように頼むから、明日の朝一緒に行こう」と言ったら素直に「じゃあ行く」といった


翌朝迎えに行って驚いた


眼ばかりか、顔も真黄色  重症の横断が出ている


消化器科へ(その頃は内科)行くと、その当時はまだ医長であったN先生が


院内紹介状(その頃は大至急の赤い紹介状だった)を次々書いて


「これもって回ってこい、車いすで!」と言われた


検査室、放射線、エコーとどこも最優先で済ませ、外来に戻ると


「即入院、今は個室が開いていないので4人部屋、それと君のお兄さんにも来てもらって」と言われた


家内と兄嫁に電話して、入院の準備をしてすぐに来てくれと伝え、兄に電話をしたものの「忙しい」だった


N先生にその旨を伝えると、「わかった。お父さんが病室へいかれたら、君はもう一度ここへ来て」と


膵癌だった。胆嚢、胆管、肝臓へ転移していた


「もって三か月、とりあえず胆汁をなんとかしよう」


「当面は、ドレナージで、落ち着いたら肝臓か胆嚢から十二指腸に流れるようにオペするか、経皮敵に造設する」


「場合によっては今日明日も考えられる。付き添いは必要だ。告知はどうする」


その当時は、原則本人には告知をしなかった


「本人と母親には告知をしないでください」そう言った


兄にも伝えた


8月20日に亡くなったのだが、壮絶な戦いの始まりだった


入院後1か月が経過した頃から腹水の貯留がはじまった


同時に激痛がはじまった


骨と皮の親父のどこにこれほどの力があるのか


亡くなる3週間ほど前に、大量に吐血した


内視鏡で止血ができたが痛みは定期的に襲ってきた


兄と2人で病室に泊まった


病室からの出勤だった 家へ帰るのは風呂に入るためだけ


亡くなる1週間前に2回目の吐血があった


その後は意識を取り戻すこともなく、痛みも感じなくなったようだった


実は「ほっと」した


N先生は、膵臓がんの権威で、色々丁寧にMTされた


「先生、冬に倒れたときに全身を精査していたら、膵癌は発見できたでしょうか」


「なんとも言えん。見つかる可能性もなかったとは言えない」


悔やんだ、悔やんでも悔やみきれなかった


亡くなってすぐに若い先生が母のところに来て「解剖をさせていただけませんか」といった


母は「あんなに元気だった父ちゃんの命を、あっというまに奪った「がん」を憎いがんをこの目で見たい」


「どうか、お願いします」といった


死を受け入れるとは、こういうことか


なぜか吹っ切れた



医療裁判や、医事紛争にかかわってきたが


遺族が患者の死をどう受け入れるのか、そこのフォローをどうするのか


今後構築しなければならない問題だが・・・・・診療報酬がどうなるのか、新政権では?