昨日は氷艶2019月光かりの如くのライブビューイング&動画配信の第一回目でした。

詳細はこちら
https://liveviewing.jp/statics/lvfes-hyoen2019/

第二回目は明後日、七月七日。
日程のうちの一つが七夕の日であることに不思議なご縁を感じました。
なぜなら、原作の源氏物語での七夕に因む描写は光源氏の人生の節目に見られるからです。


源氏物語第四十帖「幻」に著される光源氏の晩年。
紫の上が亡くなって一年が経つ頃の七月七日。賑やかであった例年とは違い管弦の遊びなどもなく、ただぼんやりとしたまま過ごす源氏。
まだ夜深いうちに目覚め妻戸を押し開け、庭に露がついているのを見て
「七夕の逢ふ瀬は雲のよそに見て別れの庭に露おきそふ」
(七夕の逢瀬は空の雲の彼方のことよ。このわたしは紫の上と別れた庭で涙を流すばかりぞ)
と紫の上との永訣を嘆く場面があります。

また、源氏物語の冒頭の巻、第一帖「桐壺」では、帝が楊貴妃を描いた屏風絵を毎日のように眺めては亡き桐壺更衣の面影を想い、「翼をならべ、枝を交はさむ」とあれほど約束したのにかなわなかったことが恨めしい、と嘆きます。
この「比翼連理」の喩えは玄宗皇帝と楊貴妃が七夕の夜に永遠の愛を誓った言葉
「天にあっては願わくは比翼の鳥となり、地にあっては願わくは連理の枝となりましょう」
の引用です。
桐壺の巻では、玄宗皇帝と楊貴妃を桐壺帝と桐壺更衣に重ね合わせています。
「幻」の巻に描かれる光源氏も、かつての父帝のようにこの詩句を思い浮かべたのかもしれません。

源氏物語第十二帖「須磨」にも七夕に因む描写が見られます。
光源氏が紫の上と別れ、舟に乗って須磨に到着した場面。
源氏が都の方角を振り返ると、三千里も離れた場所に来たことがしみじみと感じられ、「櫂の雫」のように涙が零れ落ちます。
この「櫂の雫」は古今和歌集の歌にある言葉です。
「わが上に露ぞ置くなる天の川と渡る舟の櫂の雫か」
(この私の上にかかった露は、天の川を渡る舟の櫂の滴だろうか)
彦星が織姫の所へと急ぐ舟の櫂の雫がかかった、とも意訳されるように、舟に乗る男性を彦星に例えることは多く見られます。源氏が舟に乗り紫の上と別れた状況から七夕が想起されたのでしょう。

原作の源氏物語と七夕の縁、それはそのまま氷艶-月光かりの如く-にも当てはまることです。
月光かりでの源氏と紫の上の物語は天の川に隔たれる彦星と織姫の悲恋にも似て。
長道に阻まれ船上での紫の上との別離後、須磨へただ一人流される源氏。


「比翼の鳥、連理の枝」であろうとの誓い虚しく最愛の者を喪う桐壺帝と源氏。月光かりと同じく、桐壺更衣と紫の上の死は原作でも呪詛の影が見えます。双方向でない愛はときに狂気をはらむ。「自分への愛ゆえに」二人は「自分が愛した者」を喪うのです。



「幻」の帖での魂が抜けたかのような虚ろな日々を過ごす源氏の晩年。
月光かりの源氏もそのようであったのではないでしょうか。
紫の亡骸を頭中将に預けたのちに出奔し、長道に命を絶たれるまでの間
「ややもせば消えをあらそふ露の世に後れ先だつほど経ずもがな」
(先に消えるのを争う露のようにはかない人の世に、後れて先立つ間もないようにしたいものだ)
と、ひとり生き残った自分を呪わしく思う日々であったのではないかと。 


天の川を渡る舟のごとくに船上で別れてからのち、源氏と紫の逢瀬は叶いません。
玄宗皇帝と楊貴妃の七夕の誓いのように生涯離れぬことを約束した二人が引き裂かれ、再びまみえた時には永遠の別れが待っていました。
そして時が満ち、月へ帰る源氏。
万葉集の歌
「天の海に雲の波立ち月の舟 星の林に漕ぎ隠る見ゆ」
(大空の海に雲の波が立って、月の舟が、きらめく星の林の中に漕ぎ隠れて行くのが見える)


月の舟とは、見た目の形状から月を大空を渡る船にたとえていう語。
月の舟を漕ぐのは彦星。織姫との逢瀬の旅に出ます。
源氏も天の川を渡り、紫の上と出逢えたことでしょう。


もう一つ、かねてより氷艶-月光かりの如く-と七夕との縁に思いをめぐらせていたことがあります。

長唄に「五色の糸」という曲があります。
五色の糸とは、七夕の時に飾る色とりどりの糸のこと。
元は機織り・裁縫・染色の技量向上を願って、糸巻に巻いた状態で祭壇に供えたもの。


後に吹き流しの状態で笹竹に飾るものになり、恋愛の成就を願う「願いの糸」とも呼ばれるようになりました。


この曲は七夕の行事に因んで乙女の純情な恋心を唄った美しい曲です。

曲中の歌詞から抜粋。
「桂男と謡はれて闇こそよけれ雲のひま 
願ひの糸や梶の葉の 稀に逢ふ夜は星合の」
(月のような美男子と評判のあなたとの逢瀬は隠れていられる闇夜がいいのに、雲のすき間が邪魔するの、誰かに見つからないかしら)

この歌詞に詠まれる「桂男」とは
桂は月に生えているという伝説上の木で、桂男は月に住むという男、転じて月そのものを指しても言い、または美男子のこと。
『伊勢物語』の中で、在原業平と思しき主人公に対して、「桂男の君のような」と言う表現があることから美男の代名詞になりました。

桂男は江戸時代の『絵本百物語』に
「月の中に隅あり。俗に桂男という。久しく見る時は、手を出して見る物を招く。招かるる者、命ちぢまるといい伝う」
と記載があり、和歌山県には満月ではないときに月を長く見ていると、桂男に招かれて命を落とすことにもなりかねないという伝承があります。

絶世の美男子であり、久しく見る者を惑わす桂男はまさに光源氏ではありませんか?
桂男は満月のときには現れないと言います。
月光かりの如くの劇中での満月は、光源氏の誕生~青年源氏の登場の場面と、慟哭の舞~月へ帰る場面のみ。物語の始まりと終わり、つまり、まだ恋を知る前と恋を喪った後。



恋に苦悩する源氏の背景は常に「欠けた月」です。



月についての考察は以前のブログに記載してます
満月ではないときに長く月を見る=「月」とは源氏。月に心を奪われた女性たち。紫の上も松浦も命を落としました。藤壺は源氏を拒み俗世から離れて仏の道へ逃れたので長らえたのですね。
初めて月光かりの光源氏を見たとき、「五色の糸」に唄われる桂男を思い浮かべました。

原作の光源氏の人生の節目に表れる七夕のキ-ワ-ド、七夕がテーマの長唄に唄われる源氏を彷彿とさせるような桂男。
氷艶-月光かりの如く-のライブビューイング&動画配信が七夕の日であることに不思議なご縁を感じずにはいられません。


最後に長唄「五色の糸」のご紹介を。
こちらの動画は全曲ではなく聴かせどころだけに短縮された6分ほどの演奏です。
初めの三味線は「蝶の合方」
一対の蝶が戯れ飛び交うような美しい旋律です。
歌詞には秋の情景がちりばめられています。
なぜ秋なのか?
現代の七夕は夏の行事ですが、旧暦では七月は秋。七夕は秋の季語です。

七夕に因んだとても綺麗な曲ですのでぜひお聴きください。


こちらはコロナ禍で演奏会も開催できない現状のもと、若手演奏家によるリモート演奏です。
ご出演の唄方の杵屋禄三さんはわたしが最も大ファンでありリスペクトしてやまない方です。


ここまでお読みくださりありがとうございました。
次回は高橋大輔さんに因んだ着物コーディネ-トの記事でお目にかかりましょう。


写真は下記よりお借りしました。