母から連絡があり、

深谷のおじさんが亡くなった、と。

泣いていて何を言っているのか、

よく分からない。

 

深谷のおじさんは、母のお兄さんで、

埼玉の深谷市に住んでいる。

だから深谷のおじさん。

母は8人兄弟の下から2番目。

長男は生まれてすぐに亡くなり、

三男は若くして結核で亡くなったそう。

深谷のおじさんは、四男になる。

 

亡くなった父は、

母の親戚との付き合いを嫌った。

(そういう性格)

例えば、母の実家に親戚一同が集まって、

食事をしたりゲームをしたり、

泊まることがあっても、

顔だけ出してすぐに帰るぞ、

と父はがなった。

歳の近いいとこたちもいたのに、

逆らうことができず、

泣く泣く帰ったこともを覚えている。

それどころか、

顔すら出すこともだんだん無くなった。

 

しかし、父の話をすると、

いい話が出てこない。

ただ母の兄弟、ひとり残らず

悪く言っていた父だが、

唯一、悪く言わなかったのは、

深谷のおじさんだけだった。

 

深谷のおじさんは、

大手メーカーへの就職を機に、

県外へ出たのだが、

家が貧乏で大学に

いけなかったことを悔やんでいた。

「高卒では、

どれだけ頑張っても出世できない」と

娘ふたりを大学まで出した。

細身できれいな奥さんは、

娘たちが結婚したころには、ボケた。

 

10年以上、奥さんの世話をしてきたけれど、

数年前、とうとう見切れなくなって、

施設に預けた。

気が付けば、85歳を過ぎていた。

長女は横浜に、次女は埼玉県内に、

それぞれいたけれど、

深谷の家でひとり暮らした。

 

その日は、マレットゴルフをやって帰宅し、

風呂に入った。そして、

そのままひとり、そこで亡くなった。

何日かに一回、電話をしている

長女が異変を感じ駆け付けた時には、

亡くなって2日がたっていた。

 

電話口の母は、まるで子どものように

泣きじゃくっている。

一番、好きなお兄さんだった。

「高校もいかせてあげられなかった。

ずっとお金に苦労した人生で、

助けてあげられなかった」

と、晩年は母に話し、

いくらかのお金を送金していたようだ。

 

昨年、実家で法事があって、

深谷のおじさんと、

相模原(神奈川)のおばさん(母の妹)が

母の狭い団地の部屋にふたばん、泊まった。

 

20数年ぶりだろうか。

僕も呼ばれて挨拶に行った。

深谷のおじさんは、

頭も足もしっかりしていて、

冗談を交えながら、元気に話していた。

「大きいなあ。こんなに大きかったかなあ」

と、繰り返し僕に言った。

 

ちょうど夕暮れで、

兄妹3人が、買ってきた刺身や

出来合いのおかずで、

ビールを少し飲んでいた。

「思ったよりいいところで安心した。

また来たいなあ」

深谷のおじさんがそう言うと、

相模原のおばさんも、

うんうんとうなづいて、

久しぶりに母がうれしそうに笑った。

 

僕の目には、少し暗い部屋が、

セピア色に映って、昭和のころ、

3人が家族だった風景が浮かんだ。

あたたかい風景だった。

 

もう会えないとは

思ってはいなかったけれど、

この時、深谷のおじさんと

会えて良かった。

今、しみじみとそう思っている。